世の中の連休とはまったく無関係に仕事をする。カレンダーと関係ないスケジュールが、いいのか悪いのか。
twitterを本格的に始動させてから、ひと月ちょっとがたった。その特徴や魅力をまだいまひとつつかみかねてはいるが、何となく続いてもいる。
なぜ、いまひとつ魅力をつかみ損ねているのかと考えると、twitterがきわめて「話し言葉」のメディアだからではないかと思う。普段、饒舌だったり、しゃべるのが得意な人ほど、使いこなせるメディアだという気がするのだ。
ネット上の双方向性のメディアは、「書く」という作業を使うけれど、実態は「話す」媒体だろう。ブログも本当はそうなのだが、私のように一方的に書いているぶんには、「書く」メディアである。私はいろいろな意味で書く人間で、書くかぎりはそれなりに饒舌になるが、話すのはあまり得意でない。
twitterはブログと違って、徹底して話し言葉のメディアである。たとえ一人で勝手につぶやいていても、それは独白というか私語というか、一人での話し言葉だ。書き言葉で書いてみたが、どうにもそぐわない。
ここで悩むのが、一人称の問題である。私は、書き言葉での一人称は「私」を使っているが、男がカジュアルな話し言葉で自分を「私」と称することはあまりない。すると、「ぼく」か「俺」あたりを選択することになるが、普段、書き言葉の人間として「私」と書いている者が、いかにもあざとく、素の自分ですよと言わんばかりに「ぼく」「俺」と書くことに、抵抗があるのだ(実際の私生活ではむろん「ぼく」や「俺」を普通に使っているけれど)。といって、IDを使って「hoshinotとしては○○だと思う」などと書くのも、鳥肌が立つ。例えばいとうせいこうさんのように、書き言葉の一人称を「俺」として定着させるとか、一人称を決して書かないとかすれば、問題は消えるだろうが、こういうとき、女性やヨーロッパの言語がうらやましく感じたりもする。
その結果、どうにも中途半端だなあと居心地悪く感じながら、twitterでも「私」でつぶやいている。書き言葉と話し言葉の中間のような、収まりの悪い言葉で、ぼそっとつぶやいている。なので、ひと月ちょっとたってもまだ100に達していない。
では、なぜ話し言葉で書くことに抵抗があるのかと考えると、何となくだが、それによって「キャラ」を決定されるような空気が存在するように思えるからだ。これは今の社会の中に強く働いている強制力で、それが「書く話し言葉」の世界で特に顕著に作用するように感じるのである。
「語り」であれば、芸である。それはコミュニケーションのきわめて洗練された形のひとつである。そういう「話し言葉」も、twitterではしばしば見られる。そういうものは読んでいても面白い。でも、しゃべりで決まるキャラが対人関係の評価基準という傾向は、むしろコミュニケーションとは逆方向を向いているように思う。別にtwitterが悪いのではなく、この社会に働いているその強制力が問題なのだけど。
twitterを本格的に始動させてから、ひと月ちょっとがたった。その特徴や魅力をまだいまひとつつかみかねてはいるが、何となく続いてもいる。
なぜ、いまひとつ魅力をつかみ損ねているのかと考えると、twitterがきわめて「話し言葉」のメディアだからではないかと思う。普段、饒舌だったり、しゃべるのが得意な人ほど、使いこなせるメディアだという気がするのだ。
ネット上の双方向性のメディアは、「書く」という作業を使うけれど、実態は「話す」媒体だろう。ブログも本当はそうなのだが、私のように一方的に書いているぶんには、「書く」メディアである。私はいろいろな意味で書く人間で、書くかぎりはそれなりに饒舌になるが、話すのはあまり得意でない。
twitterはブログと違って、徹底して話し言葉のメディアである。たとえ一人で勝手につぶやいていても、それは独白というか私語というか、一人での話し言葉だ。書き言葉で書いてみたが、どうにもそぐわない。
ここで悩むのが、一人称の問題である。私は、書き言葉での一人称は「私」を使っているが、男がカジュアルな話し言葉で自分を「私」と称することはあまりない。すると、「ぼく」か「俺」あたりを選択することになるが、普段、書き言葉の人間として「私」と書いている者が、いかにもあざとく、素の自分ですよと言わんばかりに「ぼく」「俺」と書くことに、抵抗があるのだ(実際の私生活ではむろん「ぼく」や「俺」を普通に使っているけれど)。といって、IDを使って「hoshinotとしては○○だと思う」などと書くのも、鳥肌が立つ。例えばいとうせいこうさんのように、書き言葉の一人称を「俺」として定着させるとか、一人称を決して書かないとかすれば、問題は消えるだろうが、こういうとき、女性やヨーロッパの言語がうらやましく感じたりもする。
その結果、どうにも中途半端だなあと居心地悪く感じながら、twitterでも「私」でつぶやいている。書き言葉と話し言葉の中間のような、収まりの悪い言葉で、ぼそっとつぶやいている。なので、ひと月ちょっとたってもまだ100に達していない。
では、なぜ話し言葉で書くことに抵抗があるのかと考えると、何となくだが、それによって「キャラ」を決定されるような空気が存在するように思えるからだ。これは今の社会の中に強く働いている強制力で、それが「書く話し言葉」の世界で特に顕著に作用するように感じるのである。
「語り」であれば、芸である。それはコミュニケーションのきわめて洗練された形のひとつである。そういう「話し言葉」も、twitterではしばしば見られる。そういうものは読んでいても面白い。でも、しゃべりで決まるキャラが対人関係の評価基準という傾向は、むしろコミュニケーションとは逆方向を向いているように思う。別にtwitterが悪いのではなく、この社会に働いているその強制力が問題なのだけど。

