「エキサイト公式プラチナブロガー」スタート!
ブログ移転のお知らせ
 エキサイトブログの広告表示が厭になってきたため、本日より移転することにしました。新しいブログは以下のとおり。
http://hoshinot.asablo.jp/
 ツィッターを使うようになってから、更新が滞りがちですが、移転を機に、もう少し更新を増やしていきたいと思っています。
 今後とも、当日記をよろしくお願いします。
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# by hoshinotjp | 2011-04-19 16:35 | お知らせ
 京大入試のカンニングについて。
 対応の難しい問題だと思う。
 法的には、カンニングは犯罪ではないと私は思う。犯罪だとする法解釈は、強引すぎる印象がある。だから、逮捕もおかしいし、さすがに起訴はされないと思うけれど、逮捕後に被害届を出す京大以外の大学の姿勢もおかしい。私は、カンニング者が特定された時点で、警察は手を引くべきだったと感じている。その後の事情の調査は大学側に任せれば十分で、処分や手口の詳細は、大学がしかるべき時期に会見で発表すればよい。その人の情報を警察がメディアに広報するのは、どう考えても行きすぎだ。そしてだいそれた犯罪であるかのように報じるメディア。もはやバッシングと化している。であるがゆえに、カニングした人の精神的なケアも必要だが、それを逮捕の口実にするのもおかしい(そのような報道を読んだ)。
 では、特定されるまでの過程はどう判断すればよいのだろう? どの立場に立つかで、この判断がまったく違ってくる。
 発覚して公に知られた以上は、カンニングを犯した者が特定され、合格を取り消されなければならない。これができないと、カンニングはやった者勝ちとなり、入試は崩壊する。
 今回は、プロバイダが持つ個人情報があればその特定が容易となるため、大学側は警察に訴えた。私は、大学側の努力だけで今回のカンニング者を特定するのは不可能に近かったと思う。だから、プロバイダに個人情報を求めるのはやむを得なかった。そして、現状のルールでは、それは警察にしかできない。
 もちろん、警察が介入すればプロバイダが持つ個人情報が提供される、ということ自体に、疑問は大いに感じている。だから権限の歯止めが必要なのだけど、それが曖昧で、ケースバイケースの形をとりながら、前例を作る形で警察の権限が拡大しているのが現状だ。
 ネットの時代になって匿名性が格段に増している以上、その匿名性を利用した不正に対しては、その不正で被害・損失を被った側に不正を犯した者の個人情報が明かされるのは原則的にはやむをえないと、私は思っている。そのためのルールが必要だが、存在しないから、いたずらに警察を頼ることになる。その中には、そうして明かされた個人情報を、別の目的に使用するのは厳しく制限する事項も含まれるべきである。この兼ね合いが難しいことが、個人情報の取扱をめぐって混乱し続ける原因だろう。モラルを明文化しろ、と言っているようなものなのだから、解決のつく話ではない。
 一方で、今日あたりから問題視され始めているのが、「大学が入試をきちんと監督していなかったのではないか?」という点である。今回のカンニングの状況を始め、当然、検証されなければならないとは思う。
 だが、この点については、小中学校で問題化している、「教師が堕落しているのか、親がモンスター化しているのか」という議論と似たものを感じる。どちらも、間違ってはいない。どちらかに責任転嫁することはできないと思うのだ。カンニングをする側が悪い一方で、大学の意識が現代についていっておらず、対策が後手に回っているようにも感じるのだ。
 今の大学の教員は、小中学校ほどではないにしても、大学生の質の変化により、以前では考えられないほど学務に忙殺されている。親への対応を強いられる度合いも、格段に増している。大学の教員は、学生への教育を担うだけでなく、研究というのも大きな仕事である。だが、こんなに忙殺されて、まともな研究などできるのだろうか、と思わざるをえない。研究の質の低下は、日本社会の知的な蓄積の低下であり、やがてはあらゆる分野でのレベルの低下を招く。日本社会の豊かさは、この方面に負うてきたところが大きいのだから、これが低下することは、社会の劣化でしかない。入試だけでも、年に複数回行われるAO入試、推薦入試、本番の入試、それぞれに試験作成や面接実施、判定会議と、大変な労力を割かれている。大学は今では年中入試を行っている。結構限界に近い状態だと思うのだ。なので、「大学がいい加減なのであって、もっと試験監督を増やしてしっかりやれ」と言うのは、現場の実情を知らない言い分かもしれないとも思う。これもバッシングと化しそうで、嫌な気分である。
 加えて、このような不正に、「監督強化」というだけでいいのか、そのあたりも本当は疑問を感じる。それでは、テロリストがいるのだから空港での監視強化は当たり前、という議論と同じではないか。
 大学が後手に回ったと感じるのは、一般的に、日本の大学がITに弱すぎる点である。教育を見ても、学生に、これから起訴として必要なITの知識、スキル、考え方を教えることなど、まるでできていない。全般として、大学の教員のうちの権限を持っている層は、ITを理解しないどころか、敵視する傾向がある(特に文系)。一部の若い層だけが、ものすごく詳しい。この格差とアンバランスが、大学をして今回の不正をワケのわからぬ恐怖として感じさせ、パニックを起こさせた要因の一つではないか。
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# by hoshinotjp | 2011-03-04 12:49 | 社会
 作家、学者、評論家、ジャーナリストといった言論人がメジャーになったときに陥る罠がある。
 言論人がメジャーになるということは、その発言を多くの人が注視していて一定の影響を受けるということであり、いわば、一人の人物が一個のメディアとなることを意味する。そして現在ではインターネットやデジタル技術を使えば、文字通り一個人がメディアとなれるわけだから、メジャーな位置にいる言論人は、小さなマスメディアである。
 誰もが個人としてそのままメディアになれる時代であるとはいえ、メジャーな言論人と、無名の一般人ではその規模が違う。メジャーな言論人は、その発言力において「マス」メディアであり、ちょっとした権力を手にしたと言える。そして、その権力性が、罠なのである。
 多くの言論人は、自身が言論活動を始めた無名な時代には、その発言が強いマイナー性を帯びていたはずだ。人の目に触れない現実や情報や考え方を、何とか人の目に触れさせようともがいただろう。無力だからこそ、言葉にしようとしたのだろう。
 罠とは、メジャーになって、自分の発言に耳を傾ける人が増えたにもかかわらず、マイナー意識をそのまま持って発言するケースである。マイナー意識にはどうしても、被害者意識に起因する攻撃性が含まれることが避けられない。顧みられないマイナーな立場の者がその存在を主張するには、ある種暴力的な力を借りないと、アピールできないからだ。その力を借りないと、依然として無視され存在はないままだからだ。だから私は、マイナーな言論に含まれるある種の攻撃性は、過剰にならない限り、やむをえないと感じている。
 だが、メジャーな位置を確保した言論人が、依然として過剰なマイナー意識にかられて、攻撃性を含んだ言葉を繰り出してたら、どうなるか? その人にはすでに、個人メディアとして発言力があり、権力がある。その人の攻撃性には、言論に耳をかたむける者を煽動するいかがわしさが生じるだけでなく、弱者を抑圧する結果になることもある。だが、自分がマイナーの側にいるという意識をいまだに持っているものだから、自分の言論の権力と抑圧性に気づかない。本人は、かつてと変わらない姿勢を続けているつもりなのに、外から見ると、「あの人は変わった。偉くなったら抑圧的になった」と映ったりする。
 さらに、言論業界の「業界人」の一員に迎えられることによって、それまで自分がその立場にいたはずのマイナーな人々から離脱してしまうケースもある。自分のメジャー性を確保し、さらにそれを拡大することが目的となってしまい、当初の、人の目に触れない現実や言葉を伝えようという目的と、入れ替ってしまう。「状況を変えるために発言する」が、「力を得ることが変えることだ」となり、得た力を失わないことにばかりかまけてしまう。その結果言論は、自分のメジャー性を見せつけ、権力を維持することに使われる。当初の意志をすっかり裏切ってしまうのである。
 こうなると、その言論がどれほど過激で影響力を持っていても、それは現状を維持することにしか加担しなくなる。言葉の見せかけはマイナーなようでいても、作りだす文脈がメジャーだからだ。言っている内容は悪くないのに、どうもあの人は信用できない、という感じを抱いたりすることがあるのも、そういうことだ。言論が本当にメジャーの暴力を打ち破り、マイナーの存在を肯定させられるようになるのは、言葉面ではなく、文脈と心根の問題なのだ。
 言論の業界にいると、そんな人をいろいろと見ることになる。それはそれで悲しいことだ。こないだの東京マラソンに喩えるなら、才能はあるのに「のうのうと飯を食っている」実業団のランナーを見るような気持ちかもしれない。言論人は、川内選手のようであり続けなければいけない。
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# by hoshinotjp | 2011-03-01 11:38 | 社会
 オープンしたばかりの神奈川芸術劇場で上演されている、チェルフィッチュの『ゾウガメのソニックライフ』を見た。心地のよい芝居だった。風通しがよくて、そこにいることが気持ちよかった。万人にアクセスしやすい作品なのかはわからないが、誰をも拒まない演劇だと思う。
 妙な言い方だけど、私が作品を見ながら連想し続けていたのは、小学5年生(4年生や6年生でもいいのだけど)の昼休みの光景だった。誰かしらが動いていたりしゃべっていたりして、一時も瞬間が止まることはない感じで、しかも舞台上の5人は等価に存在しているのだ。すごくなじみがある感覚だった。
 と、こう書いてもどんな作品かはわからないだろう。私もこれを言語化する術はない。言語化できないことを、芝居ではするわけだから。
 そもそも、私は芝居を語る言葉を持たない。なぜなら、これまでほとんど演劇を見てこなかったからだ。見てこなかった理由はいろいろあるが、その一つに、演劇特有の、演じる側と観客の強い一体感に、疎外を感じることが多かったというのがある。閉じた空間で生身の人間が演じるのを見るのだから、祭りに参加するようなもので、演技者と観客が一体感を得るのは当然だしそこに意義もあるのだけど、それがある閾値を超えると、閉鎖的な宗教儀式の領域に入り、その世界のやり方と歴史を共有しない者は排除されるような雰囲気になる。私はその共同性の強さが苦手だった。
 でも去年、ジエン社の『クセナキスキス』を見たら、私のそのアレルギーを和らげてくれるような作品だった(3月に行われるジエン社の新作の上演にも行く)。そしてこの『ゾウガメのソニックライフ』で、これからはもう芝居は普通に見に行っていいな、という気になった。まあ現実的には時間がなくて足を運ぶことがすごく増えることはないだろうけれど、心理的な規制は消えてしまった。
 つまり、私はこう思ったのだ。自分はずっとこのまま観劇の素人として、空間全体を楽しむ芝居に、ときどき身をさらしに行こうと。自分の体にいい気がするのだ。端的に、毎日言語を扱う仕事をしていると、自分は脳でしか存在していない、という気分に陥ることが多く、それを解放してくれる芸術なのだ。だから、言語化する気がない。もちろん、いろいろ考えるのだけど、それを言葉に変えて表明するのはまた別の行為。
 私は岡田利規さんの作品については小説から入っており、どうしても小説のほうから見てしまうけれど、それはそれでいいかなと。そしてその小説にも、演劇作品にも、さらには人としてのスタンスにも、大変共感している。一般に人が前提にしているような個人の区切り・輪郭は、本当にそれだけなのか? それはもっと曖昧で揺らぎのあるものかもしれないし、だとしたら、人と接しうる可能性はもっとずっと広いのかもしれない。ということを岡田さんの作品に触れるといつも思う。それを、生身の人間が演じている芝居で感じることができたのは、驚きだった。小説だと話者の語りのレトリックでそれを表現できるが、演劇では演じる役者が生身の一個人であってそれが制限になりそうなものなのに、その制限が逆に一個人の輪郭(と思われているもの)を破ってしまうという事態を目の前で見て、とても心地よかったのだ。
 語る術を持たないと言って語っているが……。でもまとまりをつけて書くことを放棄して書いたので、とりとめがない。
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# by hoshinotjp | 2011-02-07 23:41 | 文学
 ツイッターを本格的に使うようになってから1年ちょっと過ぎたが、次第に意義の感じ方が変わってきた。
 去年の前半ぐらいまでは、大手のメディアに流通しない・大きく取り上げられないような情報を、さまざまな人の解釈とともに知ることができるのが、最大のメリットだと思っていた。さらに、その速報性、驚異的なスピードでの伝播力、いずれも、情報独占のヒエラルキーを崩す破壊力であり、その点にも魅せられていた。
 だが、昨年の秋あたりから、情報発信の独占というヒエラルキーが崩されていることに気づき始めた。
 ちょうど1年前(1月12日)、ハイチで大地震が起こった。ツイッターを通じて、報道陣に限らず、一般の人たちから次々に世界中へ情報が流され、ハイチ出身の著名人らが募金を呼びかけ、たくさんの支援があったことは、記憶に新しい(かな?)。ツイッター上では、クリックすると1円寄付されるというサイトが、このときに登場した(ように記憶している)。
 そのとき私が夢想したのは、被災者たちのナマの声がもしツイッターを通じて届いたら、ということだった。YouTubeでもUstreamでもいいのだけど、やはりツイッターのナマの声ほど持続的でリアルでメッセージとして伝わりやすいものはない。
「ライフリンク」の清水さんはよく、「声なき声に耳を傾けたい」と言っているが、私が最近感じているのは、この「声なき声」がツイッターを通して聞こえるようになってきている、ということだ。これまでその存在が一般社会の目に触れることもあまりなく、存在を示したところでちまたの視界に入ってこないような、マイナーな位置にいる人たちが、ツイッターで自分の日常をぽつぽつとつぶやいているのである。
 そんな人のリツイートなどをたどっていくと、何とさまざまなマイナー性を持った人たちが、つぶやき始めていることか。セクシュアル・マイノリティ、路上生活者、失業者、難病者、外国籍の人、犯罪被害者、その他書き上げきれないほど。その人たちが、それぞれの日常の喜怒哀楽、日々考えざるを得ないこと、人生観など、当人にとっては普通のことが語られていく。身近にいるのに私が知らなかった何らかの当事者、声を出しても聞き取られることのなかった当事者の声が、ツイッターだとどれも同じ大きさの声として聞こえてくる。目に入ってくる。
 私の持論では、誰もが何かしらの当事者である。どんなに平凡だと自分で思っている人でも、ごく普通だと思っている人でも、何かしらのマイナー性は持っていて、つまりそれを他人と共有するのが難しい箇所を何かしら持って、生きている。ただ、マイナー性の部分が小さいので、日ごろは気にしないでいられるのだ。
 マイナー性の部分が大きいと、それを見ないで日常を過ごすのは難しくなる。生きるうえで、マイナー性を、共有されないなりに理解される必要が生じてくる。そのための努力は、それはもう大変なエネルギーと労力を要する。なぜなら、声はなかなか届かず、聞かれないからだ。
 ツイッターは、この壁を突破しうる、強力なメディアだと私は思うのだ。
 こんなにたくさんの、さまざまな当事者の日常を語る声を、毎日、いっぺんに読み続けるなんて、初めての体験である。正直なところ、私の意識の奥のほうで、世界観が変わりつつある。自分が生きている社会のイメージが、具体的に共存しているさまざまな人の日常を知ることで、激変した。マイナー性を抱えるいろいろな当事者の、日常を語る声を読むというのは、その人たちの訴えや主張を聞く以上に、こちらの意識を変えるだろう。それぞれの立場の人にとっての「普通」や「日常」を知ることこそが、共有しきれないなりに理解することの鍵だと思う。
 もちろん、ツイッターは端緒にすぎない。それでわかった気になるような安易さは避けねばならない。それでも、隣人や友人であるかのように、その声に親しみを持って接し続けるというのは、画期的なことだと思うのだ。
 ただし、これを毎日たくさん読んでいると、いつの間にか仕事の時間がなくなっていたりする。それで、最近はほどほどに抑えるようにしているが。
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# by hoshinotjp | 2011-01-12 23:55 | 社会
 今年の目標。
●大長篇に取り組む。そのために必要なことを、何よりも優先する。
●第2回路上文学賞を実現する。
●ホームレス・フットサルの日本代表「野武士ジャパン」を応援する。今年夏には、ホームレスワールドカップ・パリ大会が開かれ、出場を目指しているので、応援も力を入れていく。
●些細な迷惑など許容し合うラテン系の社会作りを目指す(つまり、人にちょっとした迷惑をかけることなんて気にしないで生活する、ってこと。ただし、自分もちょっとした迷惑をかけられても大らかでいるべし)。

 上記のうち、大長篇には昨年後半から取りかかっているのだが、のっけからつまづいて停滞中。その打開が当面の目標である。
 第2回路上文学賞の打ち合わせも、すでに今年に入って行った。いろいろな困難はあるが、楽しいから何が何でも実現させる。
 そして、ホームレスサッカー「野武士ジャパン」の初練習が、昨日(1月10日)、四谷ひろばで行われた。昨年の夏から、私もときおり練習に顔を出すようになったのだが、確実に上達はしている。でも上達って、同じペースでうまくなるわけではなく、停滞と急上昇を繰り返すもので、昨日見た感じでは少し停滞しているところかな、と思った。
 野武士のプロジェクトを支えるビッグイシューのスタッフやボランティアのコーチ陣は大変感じのよい人たちばかりで、じつに個性的な野武士のメンバーたちとのボケと突っ込みも可笑しく、集まってフットサルをしていること自体が楽しい。が、今年の目標はパリ大会である。本番である。ゆるさは失わず、しかし馴れ合わずに関わっていきたい。
 パリ大会へ向けては、大阪でもビッグイシューの販売者たちによるホームレスフットサルチームが練習を行っており、今後もいくつかホームレスフットサルチームが作られていく模様。代表である「野武士ジャパン」のメンバーに選ばれるのは、そのうちから8名。厳しい選抜が5月ごろに待っている。私もサポーターとして、その様子をレポートしていきたい。
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# by hoshinotjp | 2011-01-11 13:40 | 身辺雑記
 権力は、金・暴力・人事という形で現れる。
 暴力を管理しているのは国家(のみ)で、例えば会社の中などでは暴力による支配は一応、成り立たないことになっている。けれど、家庭内など小さな共同体では、それが大きな権力の源泉となったりする。DVや幼児虐待など、アビューズがそれである。
 会社など、公共の組織の場合は、金と人事が権力を作る。予算配分を決める権限と、人事を決める権利である。人事については、人間関係の事情通であることも、権力を生む。
 日本社会の特徴は、この「人事」による権力が異常に肥大していることである。昨今の既存のメディア報道を見ていると、ほとんど人事の話ばかりだという気がしてくる。自民党政治は基本的に人事政治だったが(派閥だとか族議員だとか)、適材適所を掲げ、政策の側に重心を傾けるはずだった民主党も、今や完全に人事政治にハマっている。小沢問題がその大きなきっかけだった。だが、民主党の政治が人事政治へと落ちて行っている原因には、かれらの未熟さと同時に、この政治を見守っている有権者、そしてメディアの関心が人事ばかりに集中している、ということも大きい。
 海老蔵問題の呆れるほどの報道が落ち着いたのは、大桃美代子の話が飛び出したからだった。芸能情報というのも、一種の人事情報である。芸能ニュースがどんどんふくれあがっているという気がするのは、日本の世がますます人事社会化しているせいでもあろう。
 人事社会のなれの果てとは、いじめ社会である。理由なき力関係の序列だけをひたすら気にする社会。20代の若い人が書いてくる小説(プロでアレアマチュアでアレ)に、学校内の微細な序列とそれに怯え続けるサバイバルが描かれたものが非常に多いのは、そんなグロテスクな人事社会が極まっているからだろう。
 人事社会は、業界社会とも言い換えられる。あらゆる集団や組織、コミュニティが、業界化している世の中。学校でさえも。業界の中では、キャラを立てることによってようやく居場所が与えられる。そのキャラは、極端なフィクションである。キャラは他人のものであって、自分のものではない。つまり、自分のものではない人生を生きねばならない。仕事として。
 どの世界でも人事社会の要素は必ず存在しているが、自分の生を放棄せねばならぬほどに人間関係だけが存在理由になる今の日本社会は、行き着くところまで行ってしまっている。
 他人のことは気にしない。他人の存在を自分の存在の前提にしない。これらの姿勢は、今の日本社会で、社会生活を営む上で最も難しいことである。他人を前提にしている限り、自分が責任を取る主体になることができないのは、当然である。自分はそれに与しないという態度を取る人が増えれば、自然に解消されることなのだけど、そういう態度を取ることが極めて困難な社会なのだ。
 来年とは言わないが、強まり続けるこの傾向が、いつか飽和して弱まらんことを。
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# by hoshinotjp | 2010-12-31 22:22 | 社会
 それにしても柳田発言にはまるで自民党時代みたいだと空しさを感じている人が多いことだろう。あの手の空虚な失言で大臣が辞めるということを繰り返し、政治が機能しない状態に愛想を尽かした、ということも政権交代を有権者が望んだ理由の一つだったはず。わずか1年ちょっとで同じような事態を目にするとは。
 そもそも、なぜこんな人間が大臣に任命されたのかわからない。鳩山内閣はそれでもまだ大臣の顔ぶれに期待を抱ける要素があった。その人たちが期待にかなう仕事をできなかったことが失望の原因ではあったが、閣僚によっては、期待にかなうのにはあまりに時間が足りなかったという側面もあった。
 だが、今の内閣は、そもそもこの人がなぜこの閣僚をしているのかよくわからない、という、発足時から期待の持てない雰囲気があった。人選に小沢氏のアンチかシンパかという人事的理由が色濃く出ていたのも、鳩山内閣発足時の、適材適所を優先した人選からはほど遠いやり方だ(鳩山内閣がいいというのではなく、民主党政権の存在理由はそこにあった、という意味)。烏合の衆の政党は、結局はこうなるしかないのだろう。解散総選挙は近いと思う。もううんざり。選択肢は皆無。政治に対してどんなスタンスを取ればよいのか、途方に暮れる。こういうときは「ビルマVJ」を思い出して、虚無に陥ることが最悪の事態を招くのだ、と自分に言い聞かせる。
 加えて、こんな発言ばかりがニュースとなって、肝心の法案の内容などがメディアの報道から漏れていく事態に、さらに空しくなる。こんな国会をしている議員たち(与党も野党も)の異常さを断罪し、メディアが国会に代わって政策の問題点を論じるぐらいしてもいいのではないか。
 民主制の自死が近づいている。これを終わらせたら、苦しむのは有権者及びこの社会に暮らす住民全員である。淡々と、自分にできることをしようと思う。
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# by hoshinotjp | 2010-11-18 23:31 | 政治
 柳田法務大臣の、聞いた自分が愚かにさえ感じられるほど馬鹿げた発言。あのような発言が生まれる背景を考えるに、「ウケを狙いたい」というメンタリティが異常なまでに肥大した社会であることが関係しているような気がする。
 ウケを狙うと言っても、何でも笑いに変えてしまう芸人の精神を指しているのではなく、象徴的に言えば、「1980年代的なメンタリティ」となろうか。笑いを取れる者は「ネアカ」とされてもてはやされ、その笑いを共有する・しないで線引きが行われ、笑いを取れない者・笑いを共有できない者は「ネクラ」とされる風土である。
 じつはこれは、小学校や中学校の教員と生徒の間で、非常にわかりやすく機能している。「セクハラさいころ」事件だとか、特定の生徒をいじめ的にからかうような教師の言動や、非常識な例を試験問題にするなどといった事例が相次いでいるのも、この風土の力ではないかと私は思う。それ以前には予備校のカリスマ講師にこのタイプがゴロゴロしていた。つまり、聴衆のウケを取ることで、その集団からもてはやされたいのだ。
 集団の中で笑いを共有できないという事態は、その人に恐怖をもたらす。マイナスの意味で目立つため、いじめ的な目線の対象になりやすいからだ。だから、たいていは無理して笑う。そしてその次の段階として、同調して受け入れられるために、心にもない冗談を放言したりする。「笑いを取れる者」というレッテルは、たんに集団内の人気者というだけではなく、日本社会では社会的地位にまで関係してくる決定的な評価基準なのだ。
 この態度が身に染みついてしまった結果が、「セクハラさいころ」であり、「法務大臣は二つの形式的で無内容な答弁だけしていれば済むという楽な仕事」という「ジョーク」(のつもりだろう本人は)なのではないか。それが大臣の職務にある者(しかも法務!)の口から出るのだから、いじめなどなくなるどころか、苛烈になる一方なのは当然である。
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# by hoshinotjp | 2010-11-17 23:17 | 社会
A「おおい、ついに殺人犯を捕まえたぞ」
一同「本当か!」
A「ほら見ろ、間違いない。目撃証言とそっくり同じだ」
一同「ほんとだ。確かにこいつが犯人だ。さらし者にしてやろう!」
B「まずは裁きにかけないとまずいでしょう」
A「何言ってるんだ。裁きの手に渡ったら、証拠不十分で刑が軽くなる可能性が高いんだぞ。だから裁きの手に渡る前にと、俺が必死で捕まえたんじゃないか」
一同「そうだ。裁きは信用できない。能力が足りてない」
B「確かに能力は足りてないけど、うちら自分たちで決めたルールだろ。私刑は禁止、何人も裁きにかけられるべしって。裁きの連中だって、うちらが選んだんだし」
A「だから無能だったんだよ。もうお役ご免なんだよ。さもないと、こんな危ない連中がのさばって、俺らがやられちまう。自分がやられちまうって時に、おまえはルールを優先するのか? だから優等生は嫌なんだ。いつも誰かに何とかしてもらおうと思ってやがる」
B「誰か、じゃないよ。自分たちで決めたルールは、自分の責任だろ。お役ご免なら、ルールに従ってお役ご免にすればいいじゃないか。そういうルールも作ったじゃないか」
A「そんな悠長なこと言ってられないんだよ。緊急事態なんだ」
B「緊急じゃないよ。もう身柄確保したんだから」
A「おい、みんなはこいつをどうしたい? Bの言うように裁きにかけるか?」
一同「冗談じゃない! 無罪放免だってしかねない連中だ。われわれの手で裁こう!」
A「世のため、人のため、俺たちで裁いていいか!」
一同「おう! 目にもの見せてやろうじゃないか」
A「俺はこいつを死刑に処すべきだと思うが、みんなはどう思うか?」
一同「死刑だ!」
一同「それも公開処刑だ!」
一同「われわれの恐ろしさを見せつけてやる!」
一同「われわれをなめるとどうなるか、思い知らせてやる!」
A「俺たちこそが、ルールだ!」
一同「そうだ、われわれこそがルールだ」
A「いつまでもいいようにされてたまるか!」
一同「われわれの声を聞け!」
一同「Aこそがわれわれの声を代弁している!」
A「俺はみんなの良心に従ったまでだ」
一同「Aについて行くぞ!」
一同「おお! Aについてくぞ!」

 日本は文民統制の国である。議院内閣制を取っている。たとえ、その政権が無能でも、選挙で公正に選ばれた以上、政権に対して、有権者も責任を負っている。政権が無意味だと感じて替えたければ、しかるべき手続きを経る必要がある。
 それをせずに、重要な政策を、政権も議会も無視して勝手に決めて遂行するのは、軍部が内閣を無視して勝手に事変を起こして侵略する行為と等しい。それを正しいと決めるのは有権者であり、その意思表示と権力行使は最終的には選挙を経る以外の方法はない。これは法治国家として、最低限にして最後の歯止めである。
 暴走する軍部を英雄視すれば、首が絞まるのは自分たちである。
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# by hoshinotjp | 2010-11-10 23:43 | 政治