NHK特集「無縁死」を見た。東京新聞では「介護社会」という特集を長らく組んでいて、今連載中の第4部「百万遍の南無阿弥陀仏」が、老母の介護に追いつめられた息子の孤独を描いている。この記事は毎回、心を激しく揺すぶられて、平静な気分では読めない。まるで自分のことのように、胸に痛みを感じる。さらに、ちょうど上野千鶴子『男おひとりさま道』を読み始めたところだった。
 十年ぐらい前に私は、自ら選択したにせよ、やむを得なかったにせよ、これからも一人で生き続けるであろう中年期の男が、どうしたらよりよく老いていけるかを、『毒身』という小説を書きながら考えた。私のまわりに、そのような覚悟を決めようともがいている男たちがたくさんいたからだ(現在では、私を含め、その半数ぐらいは家族を築いたり、誰かと共同生活を営んでいるけれど)。
 そのとき考えた答えの一つは、疑似家族である。独り者の男が集まるだけでなく、いわゆる一般的な家族像から外れた男女子どもたちが集い、緩やかな共同生活を送れる場を思い描いてみたのだ。そのイメージの原型としたのは、メキシコで貧困層が住む地域の共同性である。メキシコ人らは思いきり迷惑をかけ合いながら生きるので、そのような関係性は日本社会では難しいが、それを薄めた、軽い迷惑を少しずつかけ合うような小さな共同体なら可能だし、必要だろうと思ったのだ。もちろん、そのような疑似家族には影の面もあるが、それ以上に、一人で生きるためには、絆やつながりの感覚が欠かせない。
 もう一つ、一人で、特に男が一人で生きるために必要なのは、権力を捨てることである。既得権益層から降りることである。いわゆる「男のプライド」を捨てること、と言い換えてもよい。さもないと、弱い自分を受け入れられず、だから他人にも弱さを見せられず、いかんともしがたい孤独に陥ることになる。疑似家族を築くためにもっとも必要な態度は、男の常識を捨て、人間として責任を取れるようになることである。
 このテーマは、3万人を越え続ける自殺とも密接に関わっている。生活の苦境が、なぜ自殺へ至らねばならないのか。そこには、絆の切断が深く関わっているからだ。
 孤立へとばらばらにされていく傾向が強い世の中にあって、どうしたら、表面的ではない絆を築けるのか。また、その絆を、人生80年以上の時代に、長く維持するには、どうすればよいのか。そのカギはやはり、「権力」と「プライド」をご破算にすることにあるだろう。
# by hoshinotjp | 2010-02-03 06:07 | 社会
 ツイッター、リストの怪。
 自分のツイッターでも他人のでもよいのですが、ブラウザでツイッターを表示させてみてください。右のコラムに、フォローされている数字が示されていますね。その右には、「リスト」の数字が表示されています。その二つの数字を照らし合わせてください。例外もありますが(巨大な数のフォロワーがいる人など)、おおむね、「リスト」の数字は「フォローされている」の数字の1割ほどになっているでしょう。
 いろいろな人のケースを見れば見るほど、これがまあじつにきれいに1割になっています。誰の命令でもないし、ツイッター界の住人たちが示し合わせて1割を維持しているわけでもなく、自然とこうなるのです。不思議です。
 ひょっとして、これが「集合知」の正体なのかもしれません。この「1割」という現象には意味はありません。その理由を一生懸命考えても、たぶん、正解を見つけることは無理でしょう。ものすごく細かな原因が複雑精緻にからみ合い、かつ偶然が加わっているのだから。
「集合知」自体にはもしかしたら意味はないのかもしれません。そこに意味を見るのは、人間の文化だということになります。だから、集合知はおおむね正しい答えを導く、と信じるのも、そんなことはありえないと懐疑的になるのも、性善説と性悪説どちらが正しいかと議論するようなもので、人間はどちらでもないしどちらでもあるし、そのことを考えるのが人間の文化なのだ、と思います。
# by hoshinotjp | 2010-01-28 19:39 | 社会
 名護市長選で、辺野古への基地移設反対派の稲嶺氏が当選。沖縄ではこの10年ぐらい、知事選を始めさまざまな首長選挙で、自民党系の「振興策と引き替えに基地容認」の候補が当選することが多かった。基地があって構わないというのが沖縄の民意だとはとても思えなかったが、苦渋の決断であれ、住民が自らそのような選択をするのならそれは仕方がない、と感じたりもしてきた。
 だが、やはり、その選択は過酷な現実にさらされた住民たちが消耗し、疲れきり、半ば諦めるような気持ちで行われたものだった、ということが、今度の名護市長選の結果、見えてきた。密室の取り調べ室で「おまえがやったんだろ?」と延々と言われ続けているうちに、「はい、やりました」と答えたほうが楽になるんじゃないかと思い始めて、とうとう「やりました」と言ってしまうようなものである。八つ場ダムも同じ構図だっただろう。それは、住民が自らの意思で選んだ結果だとはとうてい言えない。
 鳩山政権は、「振興策と引き替えに」という呪縛を取り除いた。そのとたん、沖縄じゅうがそれまで見ないようにしていた自分たちの意思を、見つめ始めた。そしてそれを表明している。
 政権交代が行われたことの最大のメリットは、これまで自民党政権下で、あたりまえだ、普通のことだ、と思われていたことが、じつはあたりまえでも普通でもなく、誰かが自分たちの利益のためにそうしてきただけだったと判明したことだろう。あまりに長い間、自民党政権というその現実が続いてきたせいで、有権者にも政治家にも、その現実の異様な部分が見えなくなっていたのだ。一種の洗脳と言える。どの党に交代するのであれ、政権が変われば、その洗脳が解けるわけである。
 沖縄の基地問題は、戦後60数年、疑うことを許されなかった現実である。60数年掛けて、沖縄の地にべったりと固着してしまった。それを引きはがそうというのだから、地震が起きるぐらいの揺れはあるだろう。どんな政権が手がけても、簡単にうまく行くような話ではない。だからといって、それまでの話を自動的に進めることはもう限界だった。現状の迷走はある程度必要な過程だと思う。
 鳩山政権の問題は、沖縄基地問題の呪縛を解いたことにあるのではなく、その解決策を何ら検討しないまま、いきなり呪縛を解いたことにある。つまり、基地を県外に移設するのか、だとしたらどこに移すのか、あるいは国内の米軍基地全体を縮小したいのか、では日米安保をどう捉え直すのか、といった、当然予想されうる根源的な課題をさして検討もせずに、呪縛を解いた。その結果、現状が固着されるとしたら、結局、沖縄の住民に諦念を再び強いることになりかねない。
 が、もう動き出した以上、できるだけ根本から解決する道を探るしかない。泥縄式に仮の措置を連発するのは、最悪である。
# by hoshinotjp | 2010-01-25 23:09 | 政治
 小沢一郎氏周辺の「事件」で思い出されるのは、山本穣司氏(当時、民主党代議)士や辻元清美・社民党代議士が、秘書給与詐欺の容疑で逮捕された「事件」である。厳密に法に照らせば違法なのかもしれないが、詐欺と呼ぶには騙された人間がいないし、なぜ、それらの議員にだけ法が厳密に執行されたのか、という点で、検察組織の恣意性(気まぐれさ)が明るみに出た出来事だった。政治と金の問題でいえば、もっと悪質で問題視すべき有力な政治家が多々いるだろうに、という不信感が根強く残った。ビラを配った者やデモを行った者を逮捕した事件でも、同じような恣意性が見られる。法を厳密に施行するなら、例えば飲酒喫煙をした20歳未満の大学生は全員逮捕されなければならない。証拠隠滅の恐れ云々は、「逮捕」という事実を作り上げるための方便に他ならない。
 鈴木宗男代議士の「事件」では、国策捜査という言葉が定着したが、特定の誰かの強い意思を体現して行われる「国策」というニュアンスより、もっと漠然とした空気が検察という権力組織を動かしているように感じる。他の官僚組織同様、自らの組織防衛という空気である。現状の既得権益を維持するという保守性である。その既得権が侵されそうになると、過剰な攻撃性を表す。この空気の微妙な動きで、検察の恣意性が発揮されたりされなかったりする。特に警察や検察は、自分たちのメンツをつぶされることを極端に嫌う。メンツを保つためなら、公正な取り締まりよりも、事実の捏造を選ぶケースも少なくない。桶川のストーカー殺人事件に象徴されるように。
 だが、この手の「事件」が今世紀に入ってあまりに乱発したこともあって、検察が必ずしも正義とは言えないという見方が、一般に浸透してきたのも確かである。同時に、その検察の絶対的正義を支えてきたのが、検察組織のリーク情報を大きな取材源として事件報道を行ってきた、大手メディアであることも、次第に常識として定着してきた。両者のつながりの要が、記者クラブという場である。そこから閉め出されてきたジャーナリストたちが、インターネットという自ら情報発信できる媒体を得て、記者クラブメディアの発する情報のゆがみを、証明してみせることが可能になったのだ。そうして、ニュースの受け手のリテラシーが上がったために、一体化する官僚組織と大手メディアは信頼されなくなったのだろう。
 私の購読している東京新聞では、昨日(1月17日付)の朝刊が典型であったように、ストレートニュース部分の記事は「作・東京地検特捜部 画・東京新聞社会部」といった印象であった。だが、特報面を開くとその逆を行っている。主にフリージャーナリストへの聞き書きという形で、特捜部の恣意性を痛烈に批判している。ついでに、同じページのコラムで、北大の山口二郎先生も、同様の批判を行っている。本日の論説委員が私感を披露するコラムでも、検察情報によって書かれた記事が情報操作になっていることを指摘している。
 今回の「事件」は、検察と小沢一郎氏のメンツのつぶし合いでしかなく、両者の信じている正義がどうであれ、とばっちりを受けるのは、政治がこの社会の住民のために機能することを望んで票を投じている有権者だ。どちらの側も、いい加減にしてほしい。私たちは、大手新聞やテレビの、巨大な疑獄事件であるかのような報道に、振り回されないことが肝心である。と同時に、民は馬鹿なのだから俺の言うとおりにしていれば政治はよくなるんだよ、という態度で、情報非公開方式で政治を行う小沢一郎氏を、我々はメディアを通じて監視し続ける必要がある。
# by hoshinotjp | 2010-01-18 23:11 | 政治
 ハイチの地震が気になって仕方がない。ちょうど同じころ、Googleが中国での検閲を解除し、「天安門事件」などを検索すると中国内でもサイトがヒットするようになっていた。そして、google.cnでこんなのまで検索できているという例で、天安門事件での遺体の写真がたくさん掲載されているサイトが示されていた。
 それは一年前にガザが攻撃されたときの写真や、さらに一、二年前のジェニンの虐殺の写真、原爆投下後の広島の写真などとそっくりだった。つまり、戦場の実態の写真だった。
 ハイチの地震でまず想像したのは、そんな光景だった。放置されているに等しいと言っても過言ではないインフラの都市で、阪神淡路級の大地震が起こったのだ。その壊滅の度合は、都市を徹底爆撃されたのに等しいだろう。木造建築は少ないから火事の被害は阪神淡路ほどではないかもしれないが、がれきに埋められている割合は高いだろう。斜面をびっしりと埋め尽くすバラックのスラム街は、街ごと地滑りして土に帰ったという。
 とりあえず、各国の支援や人々の募金により、当面の資金は集まるかもしれない。だが、問題は、迅速にそれらを生かすのが難しいことだ。インフラも万一の備えもきわめて貧弱な都市では、被災地に水を届けることだけでも困難を極める。迅速に対応できなければ、それだけ死者は増えていく。
 私はここ数年、日本社会を目に見えない戦場として考えてきた(そしてそれを「無間道」「俺俺」といった小説に書いている)。平和に日常が送られているように見えて、他国との戦争でも内戦でもない、得体の知れない戦争が進行しているのが、この社会なのではないか、と。それを、目に見える形にしてみたら、とても正視できないようなことが起きているのではないか。その氷山の一角が、3万人を越える自殺者が11年も連続しているという事実だ。ハイチの地震は、死者5万人とも10万人を越えるとも言われている。その数字と比べると、3万人の自殺者という事実がどれほどおぞましいか、少し実感できる。
 ハイチの地震は、脆弱なインフラ、災害時の対策の手薄さにより、その被害の拡大は人災によるものだと言える。この人災は、ハイチという国家だけが負うものではない。アフガニスタンがああなったように、そこには、世界からの無視という要因がある。無視が人災を招く。日本社会の自殺の多さも、かれらが目に見えない存在になっているせいでもある。
 日ごろからボランティアで災害救助に関わるといった訓練をしているわけでもないのだから、せめてハイチに関心を保ち続けようと思う。
 ちなみに、昨日の夜9時のNHKのニュースでは、「小沢氏周辺家宅捜査」翌日の政治状況、がトップニュースだった。10分以上もかけて、何も大きな進展のないことが報じられた。明らかに価値判断がおかしい。地震大国として、ハイチ地震がトップで報じられるべきではないのか。政府の対応と合わせるように、鈍く、内向きだった。もしこれがロスやサンフランシスコで起きた大地震だったら、NHKもトップにしただろう。東京新聞は、昨日の夕刊も、今日の朝刊も、ハイチがトップである。
# by hoshinotjp | 2010-01-15 11:56 | 社会
 ツイッターを始めてから3か月。ようやく最近、面白くなってきた。フォローする先を、自分の友人知人、必要な情報をもたらしてくれるサイト(主にラテンアメリカの社会政治情報、日本国内の政治情報)、それに、私が知らない分野の人たちに限ったところ、急にタイムラインを読むのが楽しくなったのだ。フォローしてくださる方たちも、文学好きが多いのだが、なかなか千差万別で、こちらからフォローし返しはしないけれど、ときどき拾い読みするのが楽しい。本棚からランダムに本を取り出してランダムなページを開いて読むのが楽しいように。
「業界化」するのが嫌いなので、自分の属している業界のにおいが強いつぶやきはあまり読まない。文学についてのつぶやきならいいのだけど、文学業界の人事情報的なつぶやきは、まるで自民党時代の政治情報みたいで、うんざりする。文学に限らず、政治でも、映画でも、社会活動でも、その手の内輪の情報で盛り上がっているつぶやきは避けるようにしている。ここで言う「業界」とは、その内輪での情報を共有することで特権意識を持ち合うような集団のことである。日本社会全体がどことなく業界化していて、例えばランキングが全盛であることや、人気の集まった商品はさらに爆発的にヒットする、といった現象も、自分も「業界」から漏れてはいけないという焦りみたいな意識と関係しているように思う。
 ともかく、面白くなってくると、ツイッターというメディアのプラスの面も多々、感じられてくる。中国政府が厳重にツイッターを禁じているのは、このメディアの威力をある意味で示している。
# by hoshinotjp | 2010-01-14 22:37 | 社会
 先日、必要があって大岡昇平の「野火」(新潮文庫)を20年ぶりぐらいに読み返した。やはり、私の小説観は、こういった小説によって形作られているなあと感じる。呪いの言葉を知ってしまったようなこの胸騒ぎこそが、小説だと感じるのだ。
 で、文庫の解説は、吉田健一が昭和29年に書いたものだった。吉田健一は、「大岡昇平氏の作品を読めば読む程、日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れたという感じがする」と書き出している。あれ、俺が思っているのと同じようなことを言っているな、どういうことだ? と思って読み進めると、要するに私小説批判なのだった。日本のとある小説がアメリカで紹介されたら「すぐれたエッセイだ」と褒められた逸話を紹介し、「例えば島崎藤村が書いたようなものが小説で通るならば、あまり理屈っぽいことを言いさえしなければ大概何でも小説であっていい訳で」と手厳しい。
 我ながら驚いたことに、ほんの20年ぐらい前まで日本語文学は「小説=私小説」というしつこいくびきと格闘し続けていた、という事実を、最近の私はすっかり忘れていた。「私」の感覚を書けば普遍に通ずる、という傲岸不遜な思い込みが、日本近代文学の風土を作ってきたことに対し、現代(特に戦後)の小説家たちは抵抗してきたのだ。「私」の人生経験と感覚こそ普遍、という思い込みがあるからこそ、作家の無頼神話も確立された。破天荒な生き方をするほど普遍的な真実に触れているのだ、という都合のいい神話。それが、「作家は型破りな人間」という、奇妙な文士イメージも作ってしまった。それはいまだに生き延びていて、案外と多くの小説家は、デビューする前の平凡な自分など忘れたように、特別で無頼な自分を気取り始める。
 吉田健一の解説を読みながら思い出したのは、「J文学」のことだった。私がデビューした10年ぐらい前、文芸復興を目指して「文藝」が「J文学」というフレーズを仕掛け、一時期もてはやされたことがあった。この言葉自体には定義はなかったが、そのころに確かに文学のとある変化は起きていた。その変化を、私は「新・私小説」だと考えていた。すなわち、自分たちの身近な出来事を、自分の感覚に正直に等身大で描く、という小説が続々と登場し始めていたのである。それは1980年代90年代の、ある種、前衛的な意識で書かれた小説への反動であったことは確かだ。だから、切実さに突き動かされて登場したことは否めない。
 にもかかわらず、私が違和感を覚えたのは、それらの小説の内輪性である。身近な出来事を自分の感覚で等身大に描くことで、同じ感性を共有する者たち同士で「わかる、わかる」と共感しあう。それがスタートとして必要なことは否定しないが、それだけで終わってしまったら、自分たち以外のものが消えてしまう。小説の世界は、「自分の感性=普遍」として閉じてしまい、それを共有しないものを排除する。つまり、私小説なのである。(むろん、私小説もピンキリだが、私が問題にしているのは、自分=普遍という傲慢な感性のことである)。
 これはまさしく、12月31日の日記で書いた事態ではないか。だが、私が「新・私小説」のことを考えたころ以降、それらの小説はあっという間に文学のメインとなり、私は違和感だけ残して、「新・私小説」だと考えたことを忘れてしまった。
 現在は、旧来の私小説に私淑して「旧・私小説」を書いている作家も何人かいるが、それらの作品は、私の感覚では「私=普遍」という意識で書かれた小説とは違う。今、「旧・私小説」を書くことは、相当なマイナー性を強いられるから。
 私小説の風土は、それとは見えない形を取って再び現れる。それが私の思う「新・私小説」群だ。それらに対し、私も吉田健一のような思いを抱いている。
# by hoshinotjp | 2010-01-09 23:40 | 文学
 明けましておめでとうございます。
 エッセイを書いた雑誌「東京人」の2月号が届いたので、ぱらぱらとめくっていたら、妙な写真に目を引かれた。飲み屋の料理やスナップ写真なのだが、少しも上手くないのである。ピントがボケていたり、手ぶれで二重三重に写っていたり、料理によってはそれが何なのかよくわからなかったり。なのに、何だか心動く。
 何だこれはと、記事を見たら、何と、角田光代さんが文章を書き写真を撮った「西荻窪 酒日記」だった。この号の特集「横町のうまい店」の、目玉である。よく見れば、表紙も角田さんが路地の飲み屋で酒を飲んでいる写真だ。
 打ちのめされました。同じ価値を持つ写真ですが、何か? と言われているみたいだった。別にヘタウマというわけでもないし、わざと狙って外しているというのでもない。たんに、写真を撮りたいと思って撮ったらこうなったという感じなのだ。
 角田さんの写真を見てからページをめくると、他のページにも、プロ写真家の撮った「横町のうまい店」のスナップや料理写真がたくさん載っているのだけど、それらがとても空っぽに見えてしまった。それらは、正しく上手い写真で、どれもきちんとした形式に則っていて、我々が普段見る「プロの写真」のイメージどおりの写真だ。だから、どれも同じに見えてしまう。どれも、形式でしかないように見えてしまう。むろん、自由な作品と違って、商業誌の要請する形式に従っているのでもあるのだろうけれど。
 たぶん、角田さんの写真でなくたって、素人が心の赴くままに撮った写真を並べれば、逆に異彩を放つのかもしれない。とにかく、角田さんの写真は、楽しそうだった。だから、美味しそうだった。角田さんからいただいた年賀状の猫の写真も、どアップで顔にはピントが合っていないのに、すごく猫が伝わってくるものだった。
 自分の名前で仕事をしている人間は、自分のイメージを落とすことを内心ですごく恐れている。だから、いいところばかり見せようとする(特に男性は)。その場合の「いいところ」とは、世間がすごいと思ってくれるだろという価値観に基づく。
 角田さんの写真は、そうではなかった。世間ではなく、自分がいいと思っているところを見せようとしている。これは楽しいだろう。自分の呪縛されている価値観を考え直した日記でした。
# by hoshinotjp | 2010-01-02 22:07 | 文学
 少し前の話題だが、今年の野間文芸新人賞(受賞は村田沙耶香さん『ギンイロノウタ』)の選評で、角田光代さんがこう書いていた。
「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」
 これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。
 同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的にしか書けていないのではないか、と批判しているようだった。
 私が現在「文学作品」として流通している、比較的若い書き手の小説に感じるのも、これらお三方とまったく同じことである。書く意志において、時間的にも空間的にも、自分の置かれている立場の外側へ出ようとする意識が薄く、非常に閉塞的・閉鎖的な作品世界になっている。それが成り立つのは、読み手の側も同様の感覚を持っているからだ。つまり、自分にもわかるものだけを摂取したいという気持ちで、小説に向かっているように感じるからだ。
 その結果、小説は仲間内の物語と化していく。わかっていることだけを書き、読み合うことで、わからないこと、わからない存在を、無意識のうちに切り捨てていく。それは、今のこの社会そのものの姿である。それが「普通」の善人たちの姿なのである。
 この類の、身近な小さな生きづらさの物語を、内輪の意識で書いていく小説は、どちらかというと若い女性の書き手に多い。今回の野間新人賞の候補もそうだ。
 では、若手の男の書き手はどうかと見渡せば、ある種マニアックな、乱暴に言えばオタク的な作品が席巻している。アニメの世界にも通ずる、思想とテクノロジーとSFとロマン主義的な定型の物語が、互いに引用・補完し合うような形で展開されていくような小説群。きわめて現代的な姿をしているが、文学作品としてここに決定的に欠けているのは、詩である。どんな共同性からも漏れ落ちてしまうような言語である。逆に言うと、そのような言語で書かれていれば、オタク的な作品でも文学だと私は思う。
 詩を欠いた作品では、その世界でのみ通用する用語が氾濫している。小説を独立した世界として構築するには、その小説世界内部での用語が確立されている必要があるが、オタク的な小説で使われている用語は、あくまでも、マニアたちの間で流通し交換される内輪の言葉である(それがいかにテクノロジーのタームであっても、文脈によって内輪になる)。それは、角田さんが「読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか」と批判した言葉と、ほとんど同じである。その小説を書いている者たちの「今とここ」を共有していないものは、排除されている。排除されている最も代表的な存在は、女性だろう。
 だがこの傾向はもはや、文学では主流となりつつある。今年はそれが特に顕著に感じられた。つまり、文学とは、身近な物語をわかる者同士で書き合うことなのだ。そういう閉じたコミュニティーのためのメディアなのだ。
 だとしたら、私の書いているものは、文学でも小説でもない。私が好み、必要として読んでいる作品群も、文学でも小説でもない。名を失った、言語更新機能を持つマイナーメディア、と呼ぶほかない。そして、それでいいと思っている。
# by hoshinotjp | 2009-12-31 19:28 | 文学
 サッカー、ジェフ千葉と日本代表の監督だったオシムは、常々、「サッカーで起こることはすべて人生でも起こり得る」と語っていた。同じことが、アストル・ピアソラの音楽でも言えると思う。「ピアソラのタンゴを聴いて感じる感情は、人生で体験しうるすべての感情である」。
 それを実感できるピアソラのライブの名盤が発売された。『ミルバ&アストル・ピアソラ ライブ・イン・東京 1988』。必聴である。
 とにかくその白熱に圧倒される。演奏のテンションが高く、質も高く、なおかつ録音が素晴らしい。空気に音が濃厚にたっぷり詰まっているという感じなのだ。重低音も豊かでとても生々しく、文字通り「ライブ」の魅力に満ちている。
 ミルバがピアソラを歌ったCDでは、1984年のパリでのライブ「ブッフ・デュ・ノール」が定番だったが、今度の1988年の東京ライブ盤を聴いたら、「あれ、ミルバってこんなに上手かったんだ!」と驚いてしまった。格段に繊細かつドラマティックなのだ。ミルバの真価がついにこの演奏で極みに達したというべき歌唱で、間違いなくミルバ―ピアソラの完成形がここにある。定番の座は譲り渡されたと言えよう。
 冒頭に、きわめてとがった歌なしの曲「タンゲディアⅢ」が演奏された後、不穏な未来を告げるように「私はブエノスアイレスで死ぬだろう」と、「私の死へのバラード」が歌い出される。
 この冒頭2曲の並びのカッコよさと来たら!
 さらに一曲置いて、ミルバ―ピアソラで私が最も好きな「迷子の小鳥たち」が続く。このあたりでもうすっかり、心はぐずぐずである。
 そして6曲目の「ブエノスアイレスの夏」! 曲の出だしにやられた。ピアソラの演奏した「夏」の中でも、最高に洗練された「夏」ではないだろうか。
 その後に、「孤独の歳月」をミルバにドラマチックに歌われた後では、泣かずにいられようか。
 と、このように、ミルバの歌だけでなく、ピアソラの五重奏団のインストルメンタル曲演奏も素晴らしいのである。これが、2枚組で、1時間半の当日のコンサートを抜粋することなく完全に収録してある(ミルバの挨拶からアンコールまで!)のだから、これ以上望みようがない。
 ミルバはスペイン語で書かれたピアソラのタンゴの半分を、イタリア語で歌う。もとはスペイン移民が建設したブエノスアイレスという街は、19世紀から20世紀前半にイタリア系の移民によって繁栄を築いた。そのイタリア系移民たちの郷愁が、さまざまな要素と混血してラテンアメリカ化した音楽が、タンゴである。ミルバのイタリア語のタンゴは、そんなタンゴのルーツを濃く感じさせてくれて、胸に迫る。ミルバは濃い輪郭で、激しい情熱で、強いオーラで、ピアソラの世界を人生に変えてしまう。
 ラテンの人たちは、苦しい人生を、強い感情の振れ幅で乗り切る。生きることの苦しさは、内容は違えども、その度合にラテン世界も日本も違いはない。日本社会では、感情を滅することで乗り切ろうとする。だがそれは、自分が人間ではないかのような境地へ行き着きかねない。強い感情へ耐性をつければ、自分をもてあますことはあっても、エネルギーを枯渇させることは避け得る。私は、感情の拠点のひとつとして、ピアソラのタンゴを聴く。
# by hoshinotjp | 2009-12-17 13:32 | お知らせ