2008年11月22日(土)

   ◆薄くなる新聞◆
 仕事で夜を明かした朝、向かいの団地に朝刊が配られる様子を眺めていて、愕然としたことがあった。新聞を取っている戸数があまりにも少ないのだ。百戸ほどあるうちの半分にも及ばない。
 このショックを体験したのが一年前のこと。今、新聞各紙は大幅にページを削減している。広告を取れないので、紙面が余ってしまうせいらしい。なぜ広告が取れないのかといえば、購読者が減少の一途をたどり、広告効果が薄くなったからだ。
 新聞を読まない人たちの情報源として急拡大しているのが、ネットや携帯のニュース。一行見出しのようなあの記事も、じつは大半が新聞各紙の配信による。つまり、手間暇かけて取材して書いたプロの記事が、IT企業に買い叩かれているわけである。
 これでは記者は育たない。私も記者経験があるが、その活動の半分以上は、記事にならない基礎的な情報収集で占められる。経営が厳しくなると、そんな余裕は許されなくなり、すぐ紙面になる取材ばかりが求められかねない。手っとり早く既成の枠組みに当てはめただけの記事が増え、文章からは批判的な視点が失われていく。
 格差を生んだグローバル経済が、新聞も駆逐しようとしている。スピードとコストダウンが至上命題とされる社会で、時間と労力のかかる文学が読まれなくなり、新聞も読まれなくなった。行き着く果てが、ワンフレーズの号令で大衆がいっせいに動くような社会でないことを、祈るばかりである。
(東京新聞 2008年10月24日付夕刊1面「放射線」)

 昨日の報道によると、朝日新聞が赤字に転落した。広告の減少、販売部数の落ち込みによるものだという。これは朝日新聞の問題ではない。日本テレビとテレビ東京も赤字となっている。出版社でも、看板雑誌の休刊が相次いでいる。既存のメディアすべてを覆う、構造的な危機である。むろん、だいぶ以前から進行し、予測されていた事態であった。既得権益層と化したメディアが、それに対応できないでいるという面もあろう。だが、やはり歓迎すべき事態だとはとても思えない。
 私の感じる危機は、メディアの経済的な問題ではなく、受け手の感性の変化にある。紙の新聞を読むことは常に、ニュースが誰かの手を経てこちらの手元に届くことを感じさせてくれる。そこには、取材して記事を書いている記者の存在感が、まだ残っている。つまり、世界が物理的に存在しているさまが、痕跡として留められている。インターネットは、その「媒介」の感触を無にする。自分が世界とダイレクトにつながっているという錯覚を、リアリティにすり替えてしまう。世界との関わりは、物理的なものではなくなり、感覚的なもの(神経の刺激だけに寄るもの)に変わる。つまり、本当は自分の物理的な肉体の感覚器官を通してつながっているのに、物理的な自分の肉体はあたかも存在していないものであるかのように感じられるのだ。
 こうやって自分という物理的存在を消していく方向へ爆走していって、本当によいのか?
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by hoshinotjp | 2008-11-22 23:11 | 社会