2008年 12月 07日
2008年12月7日(日) |
岡村淳さんの新作、「あもーる あもれいら」第2部『勝つ子 負ける子』を、湘南台での上映会で見る。
魂ごと持っていかれるような作品だった。この2年間、あまりに多くの不本意な死に立ち会って、そのやりきれなさに参っていたのだが、なぜこんなに不本意な死があふれていて、やりきれなくなるのか、この作品は、その答えを、説明ではなく、大きな曼陀羅、深い啓示で示してくれた。私は救いを感じた。
(以下、映画の内容に触れています。)
ブラジルはパラナ州にある田舎町アモレイラの保育園には、きわめて貧しく、厳しい問題にされされた家庭の子どもたちが集まっている。その子らのめんどうを見ているのは、長崎純心会から派遣されたシスターたちだ。
冒頭から、タイトルどおりの厳しい出来事が起こる。栄養失調の女の子が、ミルクに汚れた花びらを入れられている。その子はしかし、岡村さんのカメラにだけは笑顔を見せる。ブロックで遊んでいるときも、笑顔でカメラに向かい、「ママイ、ママイ」と言っている。岡村さんとこの子の絆に、こちらの心が穏やかになったとたん、この子は笑顔のまま、衝撃的な言葉を口にする。私はこわばるほかない。
このように、さまざまな形の「勝つ子」「負ける子」のさまが描かれていくのだが、そのクライマックスは、最後の「お話大会」。子どもたちは平和をテーマにしたワンフレーズを覚え、聴衆の前でそれを暗誦するのだ。審査委員たちが点数を付け、うまくできた子には賞が与えられる。順位を付けるのは、子どもたちに負けることを学ばせるためだと、堂園シスターは言う。思い通りにいかないこともあるということを知ってもらうためだという。
だが、「負けた」子たちの姿は、あまりにも痛ましい。「勝った」子たちは、容赦なく「負け組」をいたぶる。
なぜこんなに痛ましいのか。
映画は中ほどで、2005年の8月9日を迎える。長崎の原爆投下60年の日である。60年前に現場にいた宇田シスターは、殉難された方たちがいるから、今自分たちが平和に生きているという思いがある、と語る。岡村さんは、生き残る人と、亡くなる人と、それを分けたものは何なのでしょうね、と問う。宇田シスターはしばしの沈黙の後、神さまにしかわからないと答える。
勝つ者と、負ける者と、それを分けるものは、いったい何なのか。亡くなった人がいるから、生きている人がいる。負けた者がいるから、勝つ者がいる。それを分けるのは、何なのか。
映画は答えをはっきりとは示さない。ただ、その理不尽さを強いているのが人間であることは、明確に示されている。人間とはそういうものなのか、それが業か、と切なくなる。
あもれいらの子どもたちは、むきだしの死や暴力と隣り合っている。だから、作品の中で日付けが変わるたび、ああきょうもこの子はいる、あの子もいる、と顔ぶれを確認しては、私は安堵を繰り返した。子どもは屈託なく無邪気にはしゃぎ回っているのだが、画面じゅうから、生きたい生きたい、という、強烈な訴えが迫ってきて、見ている私たちの逃げ道を塞ぐ。私は苦しくなると同時に、自分もじつは死と隣り合っているのであり、この子たちのように必死で生きることはできるのだと感じ、生きていることの喜びに包まれもする。それがこの美しく苛酷なドキュメンタリーの与えてくれる、とても優しい救いなのだ。
あれこれ小賢しく書いても、この映画は許してくれるだろう。この作品は、詩とか、聖書の言葉とか、経典だとかと似ている。いくら言葉を費やしても、意味はあふれ出てくる。
きょう、見に行って、本当によかった。
魂ごと持っていかれるような作品だった。この2年間、あまりに多くの不本意な死に立ち会って、そのやりきれなさに参っていたのだが、なぜこんなに不本意な死があふれていて、やりきれなくなるのか、この作品は、その答えを、説明ではなく、大きな曼陀羅、深い啓示で示してくれた。私は救いを感じた。
(以下、映画の内容に触れています。)
ブラジルはパラナ州にある田舎町アモレイラの保育園には、きわめて貧しく、厳しい問題にされされた家庭の子どもたちが集まっている。その子らのめんどうを見ているのは、長崎純心会から派遣されたシスターたちだ。
冒頭から、タイトルどおりの厳しい出来事が起こる。栄養失調の女の子が、ミルクに汚れた花びらを入れられている。その子はしかし、岡村さんのカメラにだけは笑顔を見せる。ブロックで遊んでいるときも、笑顔でカメラに向かい、「ママイ、ママイ」と言っている。岡村さんとこの子の絆に、こちらの心が穏やかになったとたん、この子は笑顔のまま、衝撃的な言葉を口にする。私はこわばるほかない。
このように、さまざまな形の「勝つ子」「負ける子」のさまが描かれていくのだが、そのクライマックスは、最後の「お話大会」。子どもたちは平和をテーマにしたワンフレーズを覚え、聴衆の前でそれを暗誦するのだ。審査委員たちが点数を付け、うまくできた子には賞が与えられる。順位を付けるのは、子どもたちに負けることを学ばせるためだと、堂園シスターは言う。思い通りにいかないこともあるということを知ってもらうためだという。
だが、「負けた」子たちの姿は、あまりにも痛ましい。「勝った」子たちは、容赦なく「負け組」をいたぶる。
なぜこんなに痛ましいのか。
映画は中ほどで、2005年の8月9日を迎える。長崎の原爆投下60年の日である。60年前に現場にいた宇田シスターは、殉難された方たちがいるから、今自分たちが平和に生きているという思いがある、と語る。岡村さんは、生き残る人と、亡くなる人と、それを分けたものは何なのでしょうね、と問う。宇田シスターはしばしの沈黙の後、神さまにしかわからないと答える。
勝つ者と、負ける者と、それを分けるものは、いったい何なのか。亡くなった人がいるから、生きている人がいる。負けた者がいるから、勝つ者がいる。それを分けるのは、何なのか。
映画は答えをはっきりとは示さない。ただ、その理不尽さを強いているのが人間であることは、明確に示されている。人間とはそういうものなのか、それが業か、と切なくなる。
あもれいらの子どもたちは、むきだしの死や暴力と隣り合っている。だから、作品の中で日付けが変わるたび、ああきょうもこの子はいる、あの子もいる、と顔ぶれを確認しては、私は安堵を繰り返した。子どもは屈託なく無邪気にはしゃぎ回っているのだが、画面じゅうから、生きたい生きたい、という、強烈な訴えが迫ってきて、見ている私たちの逃げ道を塞ぐ。私は苦しくなると同時に、自分もじつは死と隣り合っているのであり、この子たちのように必死で生きることはできるのだと感じ、生きていることの喜びに包まれもする。それがこの美しく苛酷なドキュメンタリーの与えてくれる、とても優しい救いなのだ。
あれこれ小賢しく書いても、この映画は許してくれるだろう。この作品は、詩とか、聖書の言葉とか、経典だとかと似ている。いくら言葉を費やしても、意味はあふれ出てくる。
きょう、見に行って、本当によかった。
by hoshinotjp
| 2008-12-07 23:57
| 映画