2009年1月9日(金)

 東京新聞(中日新聞)が夕刊の文化面で連載している企画「2009ことば考」がなかなか面白いのだが、特に第3回目の大石紘一郎氏の論考には、深く共感した。大石氏は政治学者だが、オウム真理教の信者たちが、いかに自分たちの「常識」を言葉で作り上げていったのか、「言語ゲーム」という観点から分析している。重要なのは、オウムの信者たちだけが特殊な「言語ゲーム」を展開していたわけではなく、翻って私たちの属している一般社会を見た場合、私たちも同じように言語によって「常識」を作り上げているという点だ。「ポア」といった言葉も、繰り返し擦りこまれていくことで、その社会では「常識」の一つとなり、違和感を覚えなくなる。同様に、「自己責任」という言葉も、繰り返されることで自明化し、その使われた方の異様さを感じずに誰もが「常識」として口にするようになる。

 私も大石氏に倣って、このところ気になっている言葉の使われ方の例を挙げよう。
 殺人や傷害事件を起こした容疑者が逮捕されたとき、新聞を初めとするメディアの報道では、かなりの頻度で、「被害者に対する謝罪や反省の言葉は聞かれないという」といったフレーズが挟まれる。これはごく最近になって急増している現象である。
 私はこれに強い違和感を覚える。報道が、まだ「容疑」の段階で罪が確定しているかも定かでない者に対し、「謝れ」と強要しているかのようだ。容疑者が謝罪や後悔の言葉を漏らしているというのなら、そう報道してもよいだろうが、そういう言葉を口にしていない、ということをことさら書き立てるのは扇動でしかない。事件の背景もわからないのに、「人に危害を加えて誤りもしない異常な人間なのだ」といった先入観ばかりを読み手に与える。そもそも、謝罪や反省ができる状態ならば、最初から犯罪など犯さない。何かに追いつめられて限界を越えてしまうのであって、メディアの役割は、当事者を追いつめているその要因を追究することにあると思う。報道が率先して、司法の判断も待たずに、異分子だと決めつけ切り捨てるような書き方をするのなら、報道の自由は死ぬ。
 メディアが、世論や世間の情動から自由であるとは思わない。しかし、それに流されて扇動者に成り下がるのであれば、それは喩えて言えばオウム真理教教団の中で、信者に教義を洗脳する幹部になるようなものである。
 かくして、外部から見れば異様なのに、内部の人は何のおかしさも感じないというオウム社会的な、内輪の「常識」が蔓延していくのである。

 異様さを異様だと感じなくさせるのは、言葉の力である。逆に、常識だと感じていたことに潜む異様さを気づかせてくれるのも、言葉の力である。文学の言葉とは、後者の力を持つ。読みやすくわかりやすい小説の多くは、じつは前者の力に頼っている。つまり、内部の価値観に基づいて、言葉を使っている。だから、どれほど内部社会での問題を告発するような小説であっても、内部の言葉を使っているために、根本の世界観は揺るがない。むしろ、内部の言葉を繰り返すことによって、「常識」を強化する役割すら果たす。
 私の考える「文学の言葉」は、外部の言葉によって、内部の言葉づかいそのものを浮き立たせる。どんな言語ゲームが行われているのか、洗脳が働いているのか、目に見える形にする。でも、外部の言葉で書かれているので、内部の言葉を「常識」だと思っている人が読むと、読みにくい。この読みにくさこそが、「洗脳」を解く鍵なのだ。読むための苦労は、中毒症状から解放されるさいの苦痛なのだ。
 それを避けたがる今の社会は、世の中じゅうが洗脳に酔い、深刻な中毒症状を呈しているというほかない。
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by hoshinotjp | 2009-01-09 12:33 | 社会