2009年1月19日(月)

 あえてこの言葉を使うが、ガザやジェニンでイスラエルの行ったことは「ホロコースト」ではないのか? 数のうえではナチスがユダヤ人に対して行ったホロコーストと比較にはならないとはいえ、質としては同じ構造を持っていないとは言えないのではないか? あの無差別な殺戮ぶりに、パレスチナ人を根絶やしにしようとする衝動がなかったと断言できるだろうか。
 なぜここまでの虐殺を行うのか。ナチスによるホロコーストの記憶がそうさせるのか? 虐殺・虐待された記憶は、それを繰り返させるというのか? だが、繰り返しを断ちきっている例はいくらでもある。それとも、これが人間の習性なのか?

 こういう現実に対し、文学が直接的には無力であることは、承知のうえである。だからといって私は、文学は無用であるとも思っていない。ただ、こういう現実に対して無力であることの言い訳として、文学が存在している現状には、苛立ちを覚える。文学が希望を与えると謳って何かを見えなくさせる役割を果たしているのであれば、文学が消滅してもよい、と思っている。
 何かを表現すれば、何かを隠してしまう。表現には必ず、そのような性質がつきまとう。何者をも傷つけず、何者をもブラインドに置かないよう、すべてに配慮した表現は、もはや表現ではなくなるだろう。私が求めているのは、表現のそのような性質にやましさ、うしろめたさを抱きつつ、それでも表現しようとする意志である。
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by hoshinotjp | 2009-01-19 23:09 | 社会