2009年3月24日(火)

 このところ放映していたNHK特集「プーチンのロシア」全4回を見終えて、自分がなぜロシアをこれほどまでに気にしてしまうのか、改めてよくわかった。特に第4回目の士官学校を取材した「プーチンの子どもたち」は興味深かった。
 ロシアも、プーチン以降、強烈な愛国教育が行われている。「ロシア」というのは、愛国教育は21世紀の世界の趨勢だからだ。中国しかり、インドしかり、アメリカも宗教を通じてその傾向を強めてきたし、イスラム原理主義は「国」という単位ではないがイスラム民族に対する愛と忠誠を至上のものとしている。日本も例外ではない。共通しているのは、個人よりも共同体の運命を重視し、個人はその共同体のために奉仕する(殉ずる)存在である、と説いていることだ。いわば、世界中で皇民化教育が行われていると言ってよい。ちなみに、愛国すなわちパトリオティズムと、民族主義、ナショナリズムなどの違いは日本では明確ではないが、外国では地域の歴史によって複雑な違いを持っている。
 この愛国精神を最も育てる場が、軍隊とスポーツである。どちらも、「敵と戦う」ことを究極の目標としている。ロシアの愛国精神が高揚し国民が熱狂に包まれたのは、去年の北京五輪のとき。ただし、オリンピックに熱狂したのではなく、その時期に行われたグルジアとの戦争に熱狂したのだ。決して右翼だけが高ぶったわけではなく、ごく一般のロシア人たちが勝利に酔った。外側から見れば、どう考えてもただの残虐な侵略でしかない暴力が、内側の人間たちには褒め称えるべき愛国行為なのである。
 なぜ、愛国精神は戦いの場でこそ発揮されるのか? 国を愛するというのだから、例えば10人の老人が火事で焼け死んでそのうち7人が誰だかわからないといった事態に対し、愛国心を発揮して国民の死を悲しみ、その身元を探してみようとする、といったことがあってもよさそうだけど、そうではなく、なぜいつも戦いの場ばかりなのか?
 要するに、愛国とは常に敵を必要とするのである。と言うより、敵しか必要ではないのだ。敵と戦う自分たちこそが国を愛する国民であり、それを実感することだけが求められているのだ。だから、敵のいない愛国はありえない。敵がいなければ、無理やりにでも敵を設定する。
 愛国に熱狂する集団の恐ろしさは、内部にいる者でさえも敵と見なしうる点にある。近いところでは森達也さんが『東京スタンピード』という小説を書いて、その恐怖をシミュレーションした。何が何でも敵が必要なのだ。この熱狂、止めることはできないかもしれないが、私はせめて近寄らないようにしよう。
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by hoshinotjp | 2009-03-24 23:12 | 社会