2009年3月26日(木)

 WBCの劇的連覇のあと、急に「サムライ」「侍」という言葉がメディアで濫用されるようになっている。例えば、サッカーでも。
http://southafrica2010.nikkansports.com/news/p-sc-tp2-20090326-475539.html
 まあスポーツ紙なのだから、目くじら立てるほどのことはないのだけど、自己犠牲がサムライ精神?と思ってしまう。じゃあスペイン代表のマルコス・セナとかは? 昔の侍は自己犠牲したのか? 「自己犠牲」という考え方は「特攻隊」の精神であって、侍ではないのでは? 侍の所属は「藩」であって、決して幕府のために命を捨てることではなかった。そして「日本」とは敵対した。
 こんな堅苦しく考える必要は本当はない。「サムライ」はあくまでもイメージにすぎなくて、盛りあげるためのキャッチコピーでしかないのだから。現実の侍も関係ないし、「サムライ魂」「サムライ精神」が何を意味するかも、じつはどうでもよい。そこを空白にしておくことが、イメージが機能するためには大切なのだ。
 ただ、私が何だかなあと思うのは、サムライという言葉の流行の経緯である。サッカーでも2006年のワールドカップのユニフォームは「サムライ・ブルー」という言われ方をした。その前のユニフォームでは、「刀」のイメージが使われた。男子の「サムライ」に合わせて、女子サッカー日本代表は「なでしこ」と命名された。WBCの日本代表は、前回も「サムライ・ジャパン」と呼ばれた。
 このすべてが始まったのは、私の記憶では、トム・クルーズが主演した滑稽なハリウッド映画『ラストサムライ』である。これが世界でヒットしてから、日本人は自分たちのことを「サムライ」と称するようになったのだ。つまり、アメリカ人に「おまえたちはサムライだろ」と言われて、「あ、ほんとだ、われわれはサムライなんだぞ。サムライは強えんだ」と胸を張っているような印象を、「サムライ」という言葉を目にするたびに抱くのである。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-03-26 13:00 | 社会