2009年5月15日(金)

 あれほど過剰だった新インフルエンザ騒動は、民主党の党首選でいとも簡単に押しやられた感があるが、そのどちらよりも重要なのは、昨年の自殺の内容が発表されたことである。感染者が数名出ただけの軽いインフルエンザに対し、自殺者は平均で毎日100人。インフルエンザでの世界中の死者の何倍もの人が、日本一国で毎日死んでいるのだ。インフルエンザよりも、毎日100人ずつ死んでいく自殺者対策のほうがずっと緊急なのではないか。
 長らく拡大し続けていたのにずっと無視されていた貧困については、昨年の派遣村以降、ようやく実態が少し明るみに出て、理解もそれなりに深まってきている。それに対して、どうして自殺はこれほど黙殺され、理解されないのだろうか。
 かく言う私も、自殺について、少々安易な認識を持っていた。自分の近くでの自殺を体験し、深手を負い、『無間道』を書き、それがきっかけでライフリンクの清水康之さんの活動を知ってから、ようやく自分の抱いていた自殺のイメージが安易であったことを思い知らされたのだ。
 それまでの私は、大人が自殺することは、「死」を最終解決手段として肯定することであり、死の瀬戸際を生きているような今の子ども世代に、悪しき教育的効果を及ぼす、と思っていた。だから、どんなに追い込まれても自死という選択肢を取ることはよくないと考えていた。
 今でもその考えは間違っていないと思う。私が間違っていたのは、「自死という選択肢を選んでいる」と見なした点だ。自死をする人の大半は、選んでいない。袋小路に追い込まれて、それ以外の選択肢が存在しなくなって、自死に至る。たとえはたからは他の選択肢があるように見えても、当人にはそれらの選択肢は断たれているのだ。そこに、自死する当事者と、当事者ではない人との、埋められないギャップがある。
 膨大な自殺のケースを解析した『自殺実態白書』によると、自死する人は、平均で4つの原因を抱え込んでいるという。失業、多重債務、貧困(経済苦)、家族の崩壊、会社や家族からの抑圧、いじめ、住居の喪失、内面の問題、病気、等々、様々な苦境のうち、4つが重なったとき、その人は、自力で解決する余力を完全に失い、最後は鬱病ないしはそれに類する状態に陥り、判断力の崩壊した中で、自死に至る。借金で苦しいとか、仕事がないとか、一つだけの苦境であれば、まだがんばっていられるのだ。失業し、金がなくなって借金をし多重債務となり、日々食べるに困って、家も失う、となると、一つの苦境が四つ分に増えるのではなく、何乗にもふくれあがって襲いかかる。がんばりようがなくなる。いくら貧困だからって何も死ななくても、と、当事者でない者は思いがちだが、当事者はそれ以外にも3つ以上の苦境に置かれている。当事者ではない者にはその状況が見えない。
 ここで最も留意すべきことは、当事者は4つ以上の困難を「一人で」抱え込んでいる、ということだ。いくつかの苦境が重なるうち、当事者の人間関係が悪化したり消えていったりし、4つを抱えるころには相談したり頼ったり分かち合ったりする人がいなくなっているのだ。解雇されれば、職場の仲間が消える。失業や多重債務で、家族を失うケースもあろう。就職できずに非正規雇用で働き続けてきた者たちは、最初から人的ネットワークを持っていない。一人では絶対に背負いきれない重荷を4つも背負うことで、その人は押しつぶされるのだ。そのことも、人的ネットワークの中にいる「一般」人には見えない。
 湯浅誠氏は『反貧困』の中で、「ため」という言葉を使っている。余力と言ってもいい。苦境に陥っても、それをしのぎ跳ね返すためには、日ごろから予備の力を蓄えておくことが必要である。お金、健康、助けを求められる人間関係等々。それらがゼロになったとき、人は絶望する。「ため」があれば、多少の苦境は乗り越えられるのだ。自死する人は、その「ため」が底をつき、もはや踏ん張れなくなっている。その枯渇状態も、「ため」のある人々の目には見えない。だから「もう少しがんばれるはずなのに」などと、無理解なことを思ってしまう。
 このように、自分で選んではいないのに自らを殺すしかない死が、自死である。自分で選んでないのだから、それは当人の責任ではない。4つの苦境をもたらした側の責任である。自死遺族や周辺の者が最も苦しむのは、それをもたらしたのが自分ではないかという自責の念と、当事者でない者たちから、「自死を選んだ以上当人の責任、当人が弱いからだ」と見なされるその視線である。
 何度でも言う。自殺は、当事者の責任ではない。4つの苦境をもたらす社会の側に原因がある。その認識からしか、自殺を減らす対策は始まらない。このことをメディアはしっかり報道して、認識を広めてほしい。
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by hoshinotjp | 2009-05-15 23:17 | 社会