2009年6月30日(火)

 生涯心に残るであろう、すぐれたドキュメンタリー作品に触れた。一つは映像、一つは活字。映像は、東海テレビ制作の『光と影』。山口県光市の母子殺人事件で、世間からバッシングにあった弁護団を追った作品である。活字のほうは、清水潔著『桶川ストーカー殺人事件―遺言―』(新潮文庫)。桶川ストーカー殺人事件を取材するうち、実行犯を突き止めてしまったジャーナリストのルポだ。
 どちらもその作品に触れたあと呆然とするのは、それまで自分が抱いていたその事件へのイメージがまったく覆されるからだ。私が漠然と持っていた事件のイメージは、まったく架空といっていいほどの虚像だった。端的に言えば、嘘を信じていたことになる。
 なぜ、そんなことが起こるのか? どちらの作品も問題視するのは、捜査機関(や司法機関)の作る嘘と、報道機関の作る嘘である。両者は無意識の深層で結託して、自分たちに都合のよい虚像を作り上げてしまう。捜査機関と報道機関が嘘を作り上げたら、私たちが実像を知るのはとても難しくなる。だが、この二つの作品では、取材者たちはあるレベルから外れることにより、実像に触れることになる。
 あるレベルとは、警察や検察など捜査にたずさわる公的機関との情報交換の場のことだ。簡単に言うと、記者クラブや記者会見の場のことだ。東海テレビのスタッフは、捜査側ではなく、被告側の弁護人に密着した。その結果、捜査側が作っている無理なストーリーのあらが見えてしまう。「桶川」の清水氏は、フォーカスの記者であったために記者クラブには入れず、警察は一切の取材に応じなかった。このため、独自に被害者の関係者を取材するほかなかった。すると、遺族側の言っていることと、警察の言っていることがあまりに違っていることがわかるのである。さらには警察が、自己保身のために捜査をネグっていた事実、報道機関に嘘をリークし続けた事実までがはっきりしてくる。記者クラブに属して警察情報だけで報道を続ける、大手の新聞やテレビの記者にはそれがまったく見えず、警察の嘘を丸ごと真実だと信じ込んで報道する羽目になった。
 私も二年半というわずかな期間だが記者を務め、記者クラブでの修行が日常だったことがあるわけだが、それがいかに大手のメディアの無意識を形作っているか、思い知らされた。そもそも、記者クラブ制度を疑うことを教えられはしなかった。記者クラブ制度の延長に、警察官や自治体職員、政治家への夜討ち朝駆けがあり、そこから極秘情報を得ることが特ダネを取ること、という図式ができあがる。だがじつは、夜討ち朝駆けに応じてもらえるのは、記者クラブに属しているなじみの記者だけ。多くの会社員としての記者たちは、この図式を常識として内面化し、疑うことなく熱心に仕事をしている。内部にいる者には、自分が権力を行使していることが見えないのだ。
 記者クラブにもよい部分はあるのだが、今現在は、公的権力を持つ機関が大手メディアに権力を分け与え、共犯に仕立てるという機能を果たすことのほうが多い。なぜ、メディアが「第四の権力」と言われるのかは、単に「マス」へ訴えるからというだけではなく、現実に公権力から権力の一部をおすそ分けしてもらっているからなのだ。
 メディアのうち、ジャーナリズムを標榜する報道機関は、せめてそのことに自覚を持って取材に当たるべきである。ジャーナリズムの役割は真実を突き止めて報道することだが、いかに真実に到達するかは、情報を疑う、という姿勢以外にはありえない。現在流通している情報(「世論」と呼ばれたりするものを含む)に、冷や水を浴びせること。すべてはそこからスタートする。そしてこれは、報道機関にだけ求められる姿勢ではなく、情報を受け取る私たちちまたの人々にも求められることである。
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by hoshinotjp | 2009-06-30 15:23 | 社会