2009年 12月 31日
2009年12月31日(木) |
少し前の話題だが、今年の野間文芸新人賞(受賞は村田沙耶香さん『ギンイロノウタ』)の選評で、角田光代さんがこう書いていた。
「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」
これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。
同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的にしか書けていないのではないか、と批判しているようだった。
私が現在「文学作品」として流通している、比較的若い書き手の小説に感じるのも、これらお三方とまったく同じことである。書く意志において、時間的にも空間的にも、自分の置かれている立場の外側へ出ようとする意識が薄く、非常に閉塞的・閉鎖的な作品世界になっている。それが成り立つのは、読み手の側も同様の感覚を持っているからだ。つまり、自分にもわかるものだけを摂取したいという気持ちで、小説に向かっているように感じるからだ。
その結果、小説は仲間内の物語と化していく。わかっていることだけを書き、読み合うことで、わからないこと、わからない存在を、無意識のうちに切り捨てていく。それは、今のこの社会そのものの姿である。それが「普通」の善人たちの姿なのである。
この類の、身近な小さな生きづらさの物語を、内輪の意識で書いていく小説は、どちらかというと若い女性の書き手に多い。今回の野間新人賞の候補もそうだ。
では、若手の男の書き手はどうかと見渡せば、ある種マニアックな、乱暴に言えばオタク的な作品が席巻している。アニメの世界にも通ずる、思想とテクノロジーとSFとロマン主義的な定型の物語が、互いに引用・補完し合うような形で展開されていくような小説群。きわめて現代的な姿をしているが、文学作品としてここに決定的に欠けているのは、詩である。どんな共同性からも漏れ落ちてしまうような言語である。逆に言うと、そのような言語で書かれていれば、オタク的な作品でも文学だと私は思う。
詩を欠いた作品では、その世界でのみ通用する用語が氾濫している。小説を独立した世界として構築するには、その小説世界内部での用語が確立されている必要があるが、オタク的な小説で使われている用語は、あくまでも、マニアたちの間で流通し交換される内輪の言葉である(それがいかにテクノロジーのタームであっても、文脈によって内輪になる)。それは、角田さんが「読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか」と批判した言葉と、ほとんど同じである。その小説を書いている者たちの「今とここ」を共有していないものは、排除されている。排除されている最も代表的な存在は、女性だろう。
だがこの傾向はもはや、文学では主流となりつつある。今年はそれが特に顕著に感じられた。つまり、文学とは、身近な物語をわかる者同士で書き合うことなのだ。そういう閉じたコミュニティーのためのメディアなのだ。
だとしたら、私の書いているものは、文学でも小説でもない。私が好み、必要として読んでいる作品群も、文学でも小説でもない。名を失った、言語更新機能を持つマイナーメディア、と呼ぶほかない。そして、それでいいと思っている。
「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」
これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。
同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的にしか書けていないのではないか、と批判しているようだった。
私が現在「文学作品」として流通している、比較的若い書き手の小説に感じるのも、これらお三方とまったく同じことである。書く意志において、時間的にも空間的にも、自分の置かれている立場の外側へ出ようとする意識が薄く、非常に閉塞的・閉鎖的な作品世界になっている。それが成り立つのは、読み手の側も同様の感覚を持っているからだ。つまり、自分にもわかるものだけを摂取したいという気持ちで、小説に向かっているように感じるからだ。
その結果、小説は仲間内の物語と化していく。わかっていることだけを書き、読み合うことで、わからないこと、わからない存在を、無意識のうちに切り捨てていく。それは、今のこの社会そのものの姿である。それが「普通」の善人たちの姿なのである。
この類の、身近な小さな生きづらさの物語を、内輪の意識で書いていく小説は、どちらかというと若い女性の書き手に多い。今回の野間新人賞の候補もそうだ。
では、若手の男の書き手はどうかと見渡せば、ある種マニアックな、乱暴に言えばオタク的な作品が席巻している。アニメの世界にも通ずる、思想とテクノロジーとSFとロマン主義的な定型の物語が、互いに引用・補完し合うような形で展開されていくような小説群。きわめて現代的な姿をしているが、文学作品としてここに決定的に欠けているのは、詩である。どんな共同性からも漏れ落ちてしまうような言語である。逆に言うと、そのような言語で書かれていれば、オタク的な作品でも文学だと私は思う。
詩を欠いた作品では、その世界でのみ通用する用語が氾濫している。小説を独立した世界として構築するには、その小説世界内部での用語が確立されている必要があるが、オタク的な小説で使われている用語は、あくまでも、マニアたちの間で流通し交換される内輪の言葉である(それがいかにテクノロジーのタームであっても、文脈によって内輪になる)。それは、角田さんが「読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか」と批判した言葉と、ほとんど同じである。その小説を書いている者たちの「今とここ」を共有していないものは、排除されている。排除されている最も代表的な存在は、女性だろう。
だがこの傾向はもはや、文学では主流となりつつある。今年はそれが特に顕著に感じられた。つまり、文学とは、身近な物語をわかる者同士で書き合うことなのだ。そういう閉じたコミュニティーのためのメディアなのだ。
だとしたら、私の書いているものは、文学でも小説でもない。私が好み、必要として読んでいる作品群も、文学でも小説でもない。名を失った、言語更新機能を持つマイナーメディア、と呼ぶほかない。そして、それでいいと思っている。
by hoshinotjp
| 2009-12-31 19:28
| 文学