2010年1月18日(月)

 小沢一郎氏周辺の「事件」で思い出されるのは、山本穣司氏(当時、民主党代議)士や辻元清美・社民党代議士が、秘書給与詐欺の容疑で逮捕された「事件」である。厳密に法に照らせば違法なのかもしれないが、詐欺と呼ぶには騙された人間がいないし、なぜ、それらの議員にだけ法が厳密に執行されたのか、という点で、検察組織の恣意性(気まぐれさ)が明るみに出た出来事だった。政治と金の問題でいえば、もっと悪質で問題視すべき有力な政治家が多々いるだろうに、という不信感が根強く残った。ビラを配った者やデモを行った者を逮捕した事件でも、同じような恣意性が見られる。法を厳密に施行するなら、例えば飲酒喫煙をした20歳未満の大学生は全員逮捕されなければならない。証拠隠滅の恐れ云々は、「逮捕」という事実を作り上げるための方便に他ならない。
 鈴木宗男代議士の「事件」では、国策捜査という言葉が定着したが、特定の誰かの強い意思を体現して行われる「国策」というニュアンスより、もっと漠然とした空気が検察という権力組織を動かしているように感じる。他の官僚組織同様、自らの組織防衛という空気である。現状の既得権益を維持するという保守性である。その既得権が侵されそうになると、過剰な攻撃性を表す。この空気の微妙な動きで、検察の恣意性が発揮されたりされなかったりする。特に警察や検察は、自分たちのメンツをつぶされることを極端に嫌う。メンツを保つためなら、公正な取り締まりよりも、事実の捏造を選ぶケースも少なくない。桶川のストーカー殺人事件に象徴されるように。
 だが、この手の「事件」が今世紀に入ってあまりに乱発したこともあって、検察が必ずしも正義とは言えないという見方が、一般に浸透してきたのも確かである。同時に、その検察の絶対的正義を支えてきたのが、検察組織のリーク情報を大きな取材源として事件報道を行ってきた、大手メディアであることも、次第に常識として定着してきた。両者のつながりの要が、記者クラブという場である。そこから閉め出されてきたジャーナリストたちが、インターネットという自ら情報発信できる媒体を得て、記者クラブメディアの発する情報のゆがみを、証明してみせることが可能になったのだ。そうして、ニュースの受け手のリテラシーが上がったために、一体化する官僚組織と大手メディアは信頼されなくなったのだろう。
 私の購読している東京新聞では、昨日(1月17日付)の朝刊が典型であったように、ストレートニュース部分の記事は「作・東京地検特捜部 画・東京新聞社会部」といった印象であった。だが、特報面を開くとその逆を行っている。主にフリージャーナリストへの聞き書きという形で、特捜部の恣意性を痛烈に批判している。ついでに、同じページのコラムで、北大の山口二郎先生も、同様の批判を行っている。本日の論説委員が私感を披露するコラムでも、検察情報によって書かれた記事が情報操作になっていることを指摘している。
 今回の「事件」は、検察と小沢一郎氏のメンツのつぶし合いでしかなく、両者の信じている正義がどうであれ、とばっちりを受けるのは、政治がこの社会の住民のために機能することを望んで票を投じている有権者だ。どちらの側も、いい加減にしてほしい。私たちは、大手新聞やテレビの、巨大な疑獄事件であるかのような報道に、振り回されないことが肝心である。と同時に、民は馬鹿なのだから俺の言うとおりにしていれば政治はよくなるんだよ、という態度で、情報非公開方式で政治を行う小沢一郎氏を、我々はメディアを通じて監視し続ける必要がある。
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by hoshinotjp | 2010-01-18 23:11 | 政治