2010年6月1日(火)

 5月15日に「路上文学賞」なる賞を発表した。応募資格は、路上で生活していること。応募する作品は、川柳でも詩でもノンフィクションでも小説でも何でもよく、選考委員である私が独断で受賞者を選んだ。
 この賞は、写真家の高松英昭が有志と企画し、雑誌「ビッグイシュー」の協力を得て、実現したものである。賞金は、高松英昭が昨年出した写真集『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス・刊)の印税の一部が当てられている。
 高松英昭はかれこれ20年近く、路上生活を撮り続けてきている。妙な言い方だが、路上生活に寄り添うことは、彼の生活の一部である。彼は写真家であり、路上生活の記録者であるが、ジャーナリストではない。『STREET PEOPLE』を見ても、そこには人が期待する路上生活者の姿はない。ポップな背景や服装で、ちょっとお茶目なポーズを取った人たちの写真がそこにはある。言われなければ、路上生活者たちだとは思わないだろう。
 これは「悲惨な路上生活者の実態」とは違う。だが、それ以上に、路上生活者の日常を活写している。どんな日常か? 路上生活者だって楽しむ瞬間はあるのだ、という日常である。
 それは変だと思う人は、路上生活=悲惨というイメージで捉えている。私はテレビ関係者から、「ホームレスの明るい話題は視聴率が取れない」と聞いたことがある。
 だから、路上で生活している人たちは、自分たちが楽しむ姿を、公にあまり見せない。非難されて叩かれるのがオチだからだ。高松英昭は、日々つきあいを続けている路上の人たちと、楽しむことを企画した。撮るほうも撮られるほうも楽しい写真を目指した。彼らの間に信頼があるから、そんなことができたのである。だから、この写真には、両者の信頼も写し表されている。
 路上で生活する羽目に陥るのは、たんに経済的に困窮したからではない。金がないだけなら、友人知人などから借りることもできる。助けや金を借りることのできる人間関係も失い、どうすればいいか考える余裕も失い、生のふちまで追いつめられたときに、人は路上に出るのだ。路上しか行くところがないからだ。それは路上生活に身をやつすことでもあるが、一方で、追いつめられた状況から路上に避難したという側面もある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、路上は最後のシェルター(一時避難所)である。これが高松英昭の考えである。
 だから、楽しみを取り戻すことは、路上生活の重要な要素なのだ。すべてを失った状態から、何かほんの些細なことでも楽しめる余裕を取り戻すこと。それは、生に前向きになり、厳しい現状と何とか向き合い、努力をするために、最も必要な精神状態なのだ。
 だから高松英昭は、路上の人々と楽しむことにこだわる。
 そうやって得た印税なので、やっぱり路上に還元しよう、しかも楽しむことに使おう。ということで、今度は文学賞というお祭りを考え出したわけだ。ノーベル賞に至るまで、あらゆる賞は祭りである、と私は思っている。本気で情熱を傾ける祭り。路上文学賞も、例外ではない。高松英昭が写真で楽しんだように、今度は私もその楽しみに加えてもらった。
 総勢約30名が、たくさんの作品を応募してくれた。感動したのは、そのほとんどが、自分の日常の言葉で書いていることである。高松ともども心配したのは、「ホームレス=悲惨」と思っている人たちに向けて、その人たちの期待する物語を書いてしまうのではないか、ということだった。だが、まったくの杞憂だった。もちろん、自分の人生を語っている作品は多い。だが、それを描く言葉と視点は、あくまでも極私的なものなのだ。
 三十人それぞれの人生観、世界観。なんと世は豊かなのだろう。
 本当はこれらの作品が広く読まれてほしい、と私は思っている。だが、先ほども述べたように、楽しむ路上生活者の姿は、ちまたの攻撃性を誘発しやすい。日ごろ、波風立てないように、目立たないように、おとなしく、悲惨な面だけを見せ、ようやくちまたからの理解や協力を得ている現状を考えると、安易にネットなどで公開するのははばかられもする。
 それで、とりあえずは、すべての作品を収録した冊子を作り、路上の人たちに共有してもらうことになった。この祭りを、定期的に続けていきたいからである。ひょっとしたら、ビッグイシューを売っている路上生活者の中には、この冊子を常連さんに配る人もいるかもしれない。
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by hoshinotjp | 2010-06-01 23:42 | 文学