2010年10月30日(土)

 拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。
『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現実には普通の存在なのだ、ということを可視化し、メジャーな存在との軋轢を描こうとしてきた。さもないと、自分が生きるのが苦しかったからだ。
 だが、メジャーな存在、つまりマジョリティは、本当にマジョリティなのか、ということが一方で気にかかっていた。メジャーな立場とは、マイナー立場に対し、権力を持っている側である。強く立てる側である。
 差別や排除が起きたとき、一見、そこにある境界こそがメジャーとマイナーを分けるラインに見える。けれど、そのラインの前線に立っている者、すなわち、差別や排除を行っている当事者たちを見ていると、必ずしも何らかの権限を持つとは限らない。実際には、マジョリティの中で最下層に位置し、マジョリティからこぼれ落ちないことに必死で、あっぷあっぷで、その中では何の力も権力も持たなかったりする。この必死さが、具体的な排除行動となり、あの異質な連中とは違うという叫びとなる。自分がマジョリティであることを常に証明しなければならないのだ。照明に失敗したら即、こぼれ落ち、自分が今まで排除していた側に組み入れられてしまう。
 となると、前線に立たされているのは、どちらもマジョリティではないとも言える。そもそも、マジョリティなんてあるのか、という気にもなる。私はそれと見えないところに存在していると思っているが、それは数でいえば圧倒的に少数の権益者たちだ。つまり、圧倒的多数は現在、マイナーな立場に本当は置かれているのだ。マイノリティたちが、幻想のマジョリティの椅子を奪い合い、線引きしあっているのだ。
 そのように感じ始めてから、この前線を書こうと思うようになった。それが『無間道』であり、『俺俺』である。この2作はそれぞれ別個の作品であるが、私の中では2部作である。
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by hoshinotjp | 2010-10-30 23:23 | 文学