2010年11月7日(日)

 尖閣諸島事件のビデオを何者かが流出させた件について、政治家を始め、ちまたの人々からも「よくやった」という評価がかなりの程度見受けられるさまを見ていると、これは昭和初期の「白色テロ」だなあ、と感じる。政党政治への不信から、法を無視して、実力行使で政治経済の権力を自分たちの手に奪い返そうとする行為である。
 政党政治は建前上は、多様な主義主張を、議会という話し合いの場で調整しましょう、という制度だから、その否定とは、「多様な主義主張は認めない」、あるいは「多様な主義主張を暴力で決着つけましょう」となる。全体主義か独裁である。
 政党政治が信じるに足る存在ではないのは、私も含め、誰もが感じていることだろう。もう終わっている自民党には退場してほしいが、烏合の衆に過ぎない民主党も、有権者の期待にほとんど応えられないでいる中、ではどの政治家を選べばよいのか、選択肢のなさを痛感している。
 まともな政治家がいない。それは確かだ。ただ、では、政治家って何なんだ、と考えると、たんに「政治家が悪い」とばかりも言っていられない気がしてくる。民主政治では誰にでも、投票する権利の選挙権と、有権者の代表となりうる被選挙権の両方がある。被選挙権を行使しないのは、投票によって自分の主義主張を他の人に託しているからだ。もし誰にも託せないのなら、自分が主義主張を述べる立場になるという選択肢が残っている。
 もちろん、資質だとか、資金だとかの面から、立候補したくたってできない人のほうが大半だろう。それならば、自分の主義主張を代弁して実行してくれる人を育てていかねばならない。
 日本の社会は、この「有権者が政治家を育てる」という部分を、何十年にもわたって怠ってきた。だから、政治家にお願いすることは多くても、自分がやるのだ、自分も議員ではないが政治に参加して責任を負う当事者なのだ、という政治意識があまり育ってこなかった。
 それが民主党政権に体現されていると思う。それで民主党がうまくやらないといって癇癪を起こして、政党政治という話し合いで解決する場を捨て、実力行使に出るのでは、まるで言葉では意思表示できない子どもではないか。
 法を無視した超法規的行動を認め、代表制民主主義の権力を無視した国家、というと、思い浮かぶ例は北朝鮮などである。英雄的行動を望む短絡的な衝動は、あのような社会を招き寄せてしまう。
 とはいえ、新しい政治を育てる余裕を持っている人は、今の社会では少ない。明日が不安な状況に追い込まれて、精神的にも経済的にも、待つだけのゆとりはないのが現状だ。
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by hoshinotjp | 2010-11-07 12:22 | 政治