2007年1月5日(金)

 昨日4日の日記に書いた件で、さくらちゃんのための募金活動に携わった友人の話で、次の3点のことを確認した。
1.募金活動に関わったメディアの人たちは、それぞれ矛盾する考えや疑問は抱えながらも、最終的に「さくらちゃんの命を救うために」協力した。
2.さくらちゃんのご両親のみならず、この募金活動に関わった他の人たちの個人情報も、2チャンネラーたちによって調べ上げられ、ネットに公開された。むろん、ネット上で協力を訴えた自発的なサイトなどは集中砲火にあった。
3.そのような被害に遭った人の中には、元2チャンネラーや今でも2チャンネルを愛用している者たちもいた。

 4日の日記で私は「2チャンネラー的」という言葉を使ったが、これは象徴的な言い方である。すべての2チャンネル使用者がそこに含まれるわけではないし、むしろ私の想定する「2チャンネラー的2チャンネラー」は少数派だろうし、2チャンネル以外にも「2チャンネラー的」な行動をする集合はたくさんいる。2チャンネルというわかりやすいイメージの言葉ではなく、もっといい表現を探せばよいのだろうが、今のところ見つからない。でも、2チャンネル的な性質はやはり2チャンネルという環境が用意したと私は思うのである。利用者がそれに感化されるかどうかは別として。

 しかし、こういうことをここに書いていると、ものすごく虚しくなる。複雑な思いはあったがそれを横に置いて、助かることを優先し、私は募金をした。だから、その複雑な思いを公に明かすことはやめ、助かることを願っていたはずなのに、結局、こうして書いている。
 移植が必要な子に協力をする、という目的が、別なことにすり替わってしまったという虚脱がある。イラク人質事件のときもそうだった。人質が助かるために何をできるのか、人質はなぜ拘束されて何を要求されているのか、という観点が成立せず、「人質の家族、何様だ」というどうでもよい国内問題に変わってしまった。
 命を救うためには何もかもカッコにくくってよい、とは思わない。命を救う、という問題は、無数に政治的な手続きを伴う(国に訴えればいいのか、メディアを駆使すればよいのか、草の根的に訴えるべきなのか、どういう言い回しなら共感してもらえるか、どの金なら受け取れるのか云々)。「命を救う」という言説自体が、非常に政治的でもあるのだし。
 でも、その政治性を避けようとしたり、政治性に捉われてしまうことばかりを批判したりしていると、肝心の目的が消滅してしまう。それらを考えてある程度議論することは必要だが、どこかでその政治性を主体的に引き受けることでシャットアウトしないと、つまり、「いろいろな落とし穴や問題があることは理解したが、それが現実に問題を引き越したら自分が責任を引き受けるので、とりあえず踏み出そう」という態度に出ないと、「するべき必要なこと」は失われてしまう。これはこの募金のケースについてだけではなく、社会のいたるところで起こっていることで、文学の世界も例外ではない。
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by hoshinotjp | 2007-01-05 13:22 | 社会