2007年4月7日(土)

 最近、「ワーキングプア」について考える機会が多い。この問題自体は、就職氷河期が始まりフリーターが急増した十年ちょっと前から存在しているわけだけど、「ワーキングプア」「プレカリアート」といった言葉でその存在が社会の構造的な産物であることが一般に認知されるようになったのは、比較的最近のことだろう。
 これまで私は、この問題には反応が鈍かった。大学の教員もして、いたたまれなくなるような実例にもそれなりに触れているにもかかわらず、視野の中心に入ってくることがなかった。どうしてなのだろうかと考えると、構造的な産物と考える以前に、そのような構造を作ろうとする政権を選んできた有権者の責任に、思いが行ってしまうのだ。こうなる前に、選挙を通じて阻止することはできなかったのか、と。
 実際に他の政党なりが政権を担っていれば、今のような経済構造にはならなかったのかと考えると、おそらくそうとは言えないと思う。しかし、少なくとも21世紀に入るあたりからの10年近く、日本の住民は、こういう方向(自由化、グローバル化、自己責任化、格差拡大社会化)を推し進めるような選択をしてきたように私には思える。
 つまり、私には、なぜ有権者は自分の首を絞めるような政権や首長を選んでしまうのか、ということに関心があるのだ。そして、自分たちがそれを選ぶ以上、まったく他人のせい、構造だけのせいにはできないだろう、という気持ちも強くある。もし選挙でそういう選択をせざるえないほどに主体を奪われているのであれば、その現実を可視化して考えたい。けれども、今の日本では、それを主体が奪われているせいだけには必ずしもできないのではないか。
 明日からの統一地方選、そして夏の参議院選と、たぶん有権者のマジョリティが自分の首を絞めるような選択をする傾向は、さらに強まるように思える。このままでは、選挙すらも統治機構の所有物になってしまうだろう。
 投票行動という自分の責任をまず直視し、自分たちを疎外するおおもとを見極め、そこには荷担しないという態度を取る以外、有効な歯止めはありえない。
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by hoshinotjp | 2007-04-07 23:08 | 政治