2007年4月10日(火)

 高崎経済大学の女子学生が自殺し、ゼミの担当であった准教授が解雇された事件に、打ちのめされる。この准教授がどういう性格の人間で(追記・この准教授は、二年前まで勤務していた茨城大学でも、学生とトラブルを起こすなどして停職処分となり、依願退職したということである)、自殺した学生がどんな人かを知らない以上、何が原因であったのかはわかりようがないが、私は大学で教えながら、こういう性格の出来事が今にも起こるのではないかという不安を、常にどこかに持っていた。潜在的には、どこの大学でもいくつも起こりうると思う。
 私自身が神経質で慎重な性格というのもあるが、学生たちときちんと信頼関係を築こうとする一方で、常に一定の距離を置いて接していたので、どこか冷たいと思われていたかもしれない。飲みに行ったりもあまりしなかったし、研究室を開放もしなかった。
 とても素直で屈託なく、まじめに人生を考えているというのが、私の今の学生(少なくとも私が早稲田文学部で見た学生)の印象だ。反面、能力とは別に自分をどこかで否定していて、何とかそれを肯定へ覆そうともがいているのだがうまく行かず、いっぱいいっぱいになっている者たちも多いように思えた。
 少なくない学生に感じるこの傾向は、思春期の不安定さといった一般論では解決できない、この世代が育ってきた環境(家庭や学校)を含む問題で、特定の誰かに責任を負わせれば済むことではない。おそらく高崎経済大学のケースも、教員を解雇したのは、あくまでも学校のイメージをこれ以上落とさず、自殺した学生の親族に対し、目に見える処分を持って謝罪としようとしたからだろう。准教授の電話インタビューを聞くと、学生が亡くなっているのに他人事みたいにペラペラとしゃべっていてあまりにも軽薄な印象を抱くが、問題の根は准教授の態度よりももっと深いところにあるような気がするのである。

 追記・この事件について私の感じたことを書くのはとても難しい。何度書き直しても、自分の実感をうまく表せないでいる。
 関わった学生たちに私が望んでいるのは、何よりも己が充実を感じる、自分の根本をごまかさない人生を送ることである。学生たちもそれを強く求めていると私には見えたが、一方で自分以外の周囲の者の視点に立って、自分を否定してしまう傾向も強く感じた。そのせめぎ合いの緊張に疲れてしまった者たちも多いのではないか。
 先日書いたアイデンティティと同様、「自信」というのは自分で作り上げる側面と、周囲からの理解と肯定によって作られる部分とがミックスしてできあがる。決して自分一人だけで持てるものではない。このうちの、「周囲からの理解と肯定」という部分に問題を抱えているのが、今の社会環境だろう。そのことへの強い飢餓感があるのを、学生と接していてときどき感じたのである。
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by hoshinotjp | 2007-04-10 23:16 | 社会