2007年4月18日(水)

 長崎市長銃殺事件は、現段階での報道を見るかぎりだが、ことの重大さに対し、犯人の心根のせこさがあまりに不釣り合いで、こんなことで亡くなったことが幻想のようでさえある。
 この事件は刃物でも犯行は可能であったかもしれないが、やはり銃は単なる凶器という以上の大きな役割を果たしていると思う。10年前に少年の間でバタフライナイフが流行り、殺人を犯してしまう事件が相次いだが、馬鹿にされたくない強く見られたいという少年がナイフを持つように、この容疑者は銃を手にしたのではないか。つまり銃は、それを手にすると自分がオールマイティだと思えるような、権力のシンボルなのだ。
 アメリカの場合はやはりもっと根深いものがあるだろう。銃がアイデンティティ(開拓者精神だとか)の一つの柱をなす社会が200年も続けば、銃を持つ権利を失くすことは、アイデンティティの危機や去勢への恐怖を引き起こす。でも今のアメリカには去勢こそが必要だと思うのである。銃規制は、対症療法などではなく、アメリカ社会の精神構造を変えるために避けて通れないハードルだと思う。
 銃は、他人に恐怖を感じさせる威力の大きいアイテムである。このような象徴に頼って他人を威圧したい、尊厳を傷つけてやりたいというメンタリティは、攻撃的な性格の強い政治家に頼ることで自分たちの威信を取り戻したいという風潮とどこか似ていて、とても厭だ。
 毎日新聞の記者の意見に同感(民主党についてのくだりは除く)。ついでに毎日新聞から。アイデンティティのことでいえば、鷲田清一氏の解説は、参考になると思う。
 それにしても、長崎市長選挙はどうなるのだろうと思ったけれど、何だか釈然としない。義理の息子の出馬は、市長が銃殺されたこととは別の話だし、と言って、残りの3人だけで市長選をするのも変だと思うし、要するに想定していない事態だったのだろう。
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by hoshinotjp | 2007-04-18 23:28 | 社会