2007年4月22日(日)

 いくつかの報道で、今回のバージニア工科大学銃乱射事件ののちアメリカ社会では、「身を守るためには銃が必要だ」と考えている人の割合が半数前後に達する、という記事を見た。私の講読している毎日新聞では、誰だか忘れたが、銃所持の権利を守る立場の人のコメントで、「このような危険があるから銃所持は必要だ。撃たれた人の中に誰か一人でも銃を持っている人がいたらこんな悲劇にはならなかっただろう」というようなことを言っていて、本末転倒な理屈をよくもまあ、と思ったけれど、アメリカ社会の半数は同じように考えたわけである。これが、銃の存在がアイデンティティの中に組み込まれている社会のメンタリティだと思う。
 そのうちの多くの一般市民は、漠然とした恐怖に駆られて、無意識に擦りこまれたそのメンタリティを発動させたのだと思う。しかし、一部の銃を重視する者たちにとっては、危険な言い方だが、今回の連射事件はある意味で歓迎すべき待望の事件だったとも言える。ほら見ろ、社会にはこんな恐ろしい危険がありうるのだ、だから銃が必要なのだ、という主張を堂々と展開することができるわけだから。それは、自分の正当性を証明するためには叩くべき敵を必要とする、というナショナリズムの構造とそっくりである。そして実際、今度の事件は、東アジア人の移民という、異様な他者として捉えるには格好の人物が引き起こしている。
 これまでのようにアメリカに根づいた白人が今度の事件の犯人だったら、「身を守るためには銃が必要だ」と考える人の割合は、もう少し少なかったかもしれない、と私には思えるのである。今回の事件がより強い恐怖を煽るのは、単に死者の数だけでなく、東アジア人に対する漠然とした差別意識(あのビデオもそれを助長している)と、ナショナリズムとによる部分もあるのではないか。
 ただそれは、韓国人は怖い、異常だという意識ではない。人種の違うものに対する、得体の知れない他者という感覚である。韓国社会がそれを、韓国民族への蔑視につながると考えるのであれば、それは韓国社会が抱える過剰なナショナリズムの問題であって、アメリカ社会の問題とはまた別だ。民族主義と人種差別の微妙なズレがそこにはある。
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by hoshinotjp | 2007-04-22 23:03 | 社会