2007年5月29日(火)

 また一人、疑惑の渦中の人間が自殺した。いじめ自殺が連鎖反応を起こしたときのように、この大人も松岡農水大臣につられて真似をしたのでしょうかね。首相が政治家や高級官僚らを体育館に集めて、「命の大切さ」を説いたらどうでしょうかね。
 松岡農水大臣が「国民」に宛てたという遺書には、「自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます」と書いてある。決まり文句といえば決まり文句だが、この考え方は間違っている。
 命と責任では、引き替えにならない。何度自殺したところで、その人の責任は果たせない。なぜなら、責任とは、生きている人間が負うものだからだ。死ねば、その分の負担をまわりの他の人間が負うことになるだけだ。だから、当然、「お詫び」にもならない。いくら命を差しだしても、謝ることもできなければ許されることもない。詫びるとか許しを得るという行為も、生きた人間に属することだから。
 いじめで追い込まれた者が自殺を選ぶのは、表現の一種だろう。それ以外に聞いてもらえる言葉がないからだ。だからやりきれない気持ちになる。
 だが、松岡大臣の自殺は、表現をやめる行為である。言葉を語るべき立場の人間が、口をつぐむ行為である。責任を取るだとか詫びるといった、本当はコミュニケーションであり表現であるはずの行為を放棄する目的で死ぬのである。
 言葉を聞いてもらえない人間が自ら死ぬことには、一抹の道理がある。言葉を発する義務がある人間(すなわち権力者)が自ら死ぬことは、道理を踏みにじる。
 道理が踏みにじられた社会は、もはや何でもありになる。命に重さはないし、自分で死のうが、他人を殺そうが、騙そうが、人が苦しむことをしようが、喜ぶことをしようが、どれも同じになる。首相に次ぐ最高権力者が道理を踏みにじるとは、そのような世界観を肯定する行為であると、大人は知るべきだ。
 私は文芸誌「すばる」でこの3か月間、長篇を連載した。「自死三部作」と自分で名づけているこの作品は、いじめ自殺が連続している最中に校長や教師が立て続けに自殺したのを見て、こういうことはもう本当に嫌だと思ったことが、直接の動機となっている。
 私が考える教育の定義の一つは、教える側が自分の生きざま自体を生徒・学生にとってモデルケースとなるようなものにする、というものである。教える人間が、自分の言っていることを自分の生き方ではなはだしく裏切っていたら、いくらシステムを変えても教育は成り立たない。「教える側」とは、教師だけでなく、大人一般全員である。自省を込めて言うが、その意味では、この社会には教える責任を果たしている大人はあまり多くない。
 そういう社会がどんな姿をしているのか、今あるこの日本社会を少し見え方の違った形にして書いてみたのが、「すばる」の三部作というわけである。
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by hoshinotjp | 2007-05-29 23:28 | 政治