2007年5月30日(水)

 しつこいけれども、死んだから水に流そうみたいな傾向を少しでも断ち切りたいので、まだ松岡農水大臣の自殺について書く。
 鈴木宗男議員が、松岡大臣は「国民に説明したいけれど、自民党の国会対策部会で黙っているように決められたので言えない」と言っていた、というような発言をし、自民党の幹事長がそれを否定するという一幕があった。むろん、どちらもスタンドプレーである。政治的駆け引きにすぎない。
 だが、鈴木宗男氏の発言を受けて、「板挟みになったのだから、松岡大臣は彼なりに追いつめられていたのだ」と同情や理解を示すむきもあったようだ。では、何の板挟みになっていたのだろう? それは、釈明したい自分と、内閣を守るためにそれを許さない自民党との間で、ではないか。そこには、大臣という職が最も責任を負うべき、日本社会の住民に対して、という観点が抜けている。遺書でも、国民に宛てたとしておきながら、「安倍総理、日本国万歳」という、きわめて異様な言葉で最後が結ばれている。首相と国家しか言及されていないこのフレーズの中に、個々の国民に対する意識は見いだせない。
 それなのに同情したり理解を示せるのは、よっぽどのお人好しか、この日本の成人男性社会の風土のいびつな点についてまるで無自覚な人間か、どちらかだろう。この風土が、責任者が自殺すれば水に流して責任を曖昧にさせてしまうこの日本社会を支えている。この手の人は、責任という問題を人情にすり替えてしまう。だが、その場合の人情とは、「安倍総理万歳」と国民宛の遺書に書くことに表れているように、持てる者(既得権益層)同士の絆でしかない。成人男性社会の風土とは、既得権益層である男が自分たちの権益を保持するために形成している男同士の友情に基づいている。それが、このような事例の際に「人情」という言葉や感覚で持ち出されているものの正体だと思う。
 責任は、人情によって不問にすることはできない。もし社会保険庁の幹部が精神的に追いつめられて自殺したとして、「彼なりに自殺に追い込まれるほど一生懸命働いたんだ、精いっぱいの上での苦悩だということはわかる、だから5000万件のデータが消えて年金が払えなくても仕方がない」と思うだろうか? 精神的に追いつめられたことは事実だとしても、過ちが水に流されることはありえない。
 一方で、安倍首相が松岡大臣の自殺直後、緑資源機構の事件に関して検察が松岡大臣を調べる予定はまったくなかったと聞いている、というようなコメントをした。首相が、捜査中の事件についてその内部情報を流すような真似で、私は強い違和感を覚えた。疑惑はない、それが理由で自殺したのではない、と、ダメージを少しでも払拭しようとしたのだろうが、それが誘導的な発言にすぎないとしても、スタンドプレーと呼ぶにはあまりにも踏み外しすぎた職権濫用である。
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by hoshinotjp | 2007-05-30 23:54 | 政治