2008年3月17日(月)

 チベットでの抗議暴動と中国政府の弾圧で私が思い起こしたのは、1968年にメキシコで起きた抗議行動と大虐殺である。抗議の内容はだいぶ違うけれど、共通するのはオリンピック開催を前に、経済的な急発展を遂げている最中の政府が暴動そのものを根こそぎにしようとしたことである。
 メキシコで起きたのは、その年の10月に予定されていたメキシコ五輪について、オリンピック開催に反対する学生たちのデモ集会だった。当然それは1968年に世界を席巻していた学生運動の一環であり、それがメキシコ・バージョンとなって、貧富の差が凄まじいメキシコ社会で富者の祭典たるオリンピックよりも先にすべきことが他にあるだろうという主張として展開された。オリンピックの最中にそのような抗議行動が起こり、メキシコが不安定な国家であると世界から認知されることを恐れた政府は軍を派遣し、広場で大集会を開いていた学生らを完全に包囲し、外からは見えない状態にして射殺した。オリンピック開会式の10日前のことである。その広場(トラテロルコ広場)は新興の高層マンション群に囲まれており、学生たちのうち助かった者たちはそのマンションに逃げ込んだ。だが、軍・警察はその晩、マンションを徹底的に総ざらいし、逃げ込んだ学生やかくまった者たちを抹殺した。
 恐るべきことに、発生したおびただしい遺体は即座に片づけられ、公式の歴史の上では何ごとも起こっていないこととなった。だが、メキシコでは近代史上最大の汚点として記憶されている。その詳細は、作家のエレナ・ポニアトウスカのすぐれたルポルタージュ『トラテロルコの夜』(藤原書店)で読める。
 ビルマのデモ弾圧のときも思ったが、このような事件を、経済のために看過する国際社会はどうなのだろうか。中国政府は、北京オリンピック開催前でなかったら、ここまで苛烈な手段を取っただろうか。
 では、北京五輪はボイコットすべきなのだろうか。
 私にはわからない。サッカー始めスポーツ観戦がめっぽう好きな私は、長崎宏子や瀬古や山下などのことを浮かべてしまうので、ボイコットすべきだと主張できない。
 近代のスポーツは、その本質の中にナショナリズムを含んで成り立っている。そもそも、「スポーツ」という概念がナショナリズムと同根といっても過言ではない。スポーツと政治を一緒にするなとよく言われるが、根が一緒なのだから分けようがない。中国政府の姿勢を見れば、軍事や経済と同じぐらい重要な重みを持ってオリンピック開催という政策を実行している。過去の五輪でも、メキシコも東京もソウルも同じような意味を持っていたし、石原都知事が五輪を招致したがる意識も同様だろう。
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by hoshinotjp | 2008-03-17 17:41 | 政治