2008年4月11日(金)

 本日11日の東京新聞夕刊で、摂南大学の北條ゆかり教授が、オリンピックを前にした開催国による国内住民虐殺について、1968年のメキシコと今回の北京を比較した記事を書いていた。
 北條氏の説明にあるとおり、40年前のこの事態に抗議したのは、当時メキシコの駐インド大使を務めていた、ノーベル賞詩人であるオクタビオ・パスで、大使を辞任した。
 その後、東西冷戦下の1980年代のオリンピックでは、モスクワとロスでそれぞれ西側、東側がボイコット、選手は参加できなかった。
 今回は、いったいどのような抗議が可能なのだろう? 3月17日の日記にも書いたとおり、オリンピックは政治及びナショナリズムと切り離せないイベントである。スポーツと政治(と、今は経済も)が表裏一体となる形で、近代スポーツは発展してきた。スポーツに政治を巻き込むなと言うが、参加の単位が国家である巨大な大会は、その存在が政治的以外のものではありえないのだ。
 ただし、選手は必ずしも自らの政治的考えに従って参加するわけではない。近代スポーツの国際大会の政治性を内側から食い破れるのは、選手でもあるのだ。だから、選手の参加できないボイコットという手段は、たんに参加国の政治的な仕掛けに乗ってしまうことを意味する。
 各国政府の対応としては、そのあり方に対する批判をはっきりと表明することと、その態度表明の手段として開会式をボイコットするという手段が、今のところ模索されているわけである。
 だが、ヒトラーの時代のベルリンオリンピックに象徴されたように、オリンピックは超強力なメディアだからこそ、国家(特に発展の渦中にある国)は威信を賭けて開催するのだ。見る者に、国家側の望むありとあらゆる「洗脳」を施すのに、絶大な効果があるからだ。
「見る者」とは、中国の住人と、私たち他国の住民である。つまり、各国政府だけでなく、私たちオリンピックを見る側が何らかのボイコットをしないかぎり、中国政府には世界の非難を突っぱねて現状で開催するメリットのほうが大きいのだ。そのメリットとは当然、競技を見に来る人や放映を見る人から得られる経済的な利益、そして自らの大国化実現だろう。
 私は一個人として、どのようなボイコットが可能なのか、どうすればオリンピックを中国政府のためのメディアでなく単なる競技会に変えてしまえるのか、そしてどうすれば参加選手が政治性を無効にしてしまう可能性を残せるのか、思案している最中である。開催直前まで、中国政府の対応を注視しながら、迷い続けるだろう。
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by hoshinotjp | 2008-04-11 22:20 | 政治