2008年6月9日(月)

 今、私たちは二種類の恐怖に襲われています。一つは、ご承知のとおり、いつ誰に突然殺されるか、という恐怖。もう一つは、いつ、自分が他人を殺してしまうか、殺したくなるのか、あるいは気づかないままに死なせてしまうのではないか、という不安です。私には断言するだけの自信がありません、自分が絶対、殺す側に回らないとは。
 理由が何であれ、私は殺されるのはいやです。しかし、それを防ぎきれる自信はない。防ぐ自信がないから、いつでも襲われる覚悟を決めておこう、と、いつもいつも二十四時間、襲われたケースを先取りして考えてしまいます。そして、どう覚悟し対策を考えようとも、殺されるときは殺されるのだ、と思うと、死んでしまっても仕方ないかもしれない、と諦めてくるのです。まるで私はもう死ぬ運命にあるかのようです。私だけではない、みんながそうでしょう。人間いつかは死ぬ、といった寿命の話は別にして。
 死ぬ運命が決まっている人にとって、自分を殺すことと他人を殺すことに違いはあるでしょうか? 「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」と、どれも同じ行動のバリエーションでしかないのです。私の実感としては、殺されるにしても自殺するにしても、死ぬことはもうタブーでもネガティブなことでも悪いことでも暗いことでもなく、息や排せつのように誰もが普通にする行為で、どんなに偉い人でもそれを邪魔したり非難したりする権利はない。それを決めるのは、当人の気持ちだけです。
 本当の本当は殺されるのはいやなのに、私たちは進んで死に向かって突進しているみたいに感じます。
 どうしてこんなことになってしまったのでしょう?
 この疑問に答えはありません。いろいろな人がいろいろなことを言っているけれど、どれも嘘っぽい。少なくとも私はそう感じます。必要なのは、この突進を止めてくれる歯止めなのだけど、それがないのが致命的です。
 最初に言ったように、私には自分が殺す側に回らない自信がありません。私は自分におびえ、自分を信用できなくなっています。まして他人を信用できるはずがありません。あれほど好きで、バカだけど信じていた彼とも、最近、別れてしまいました。誰か他人と一緒に死なないで過ごすためには、ものすごいエネルギーと労力、緊張や工夫が必要だけど、疲れきっている私にはもうそこまでがんばる気力がない。誰かと生活を築いていこうとすることも、もうないでしょう。普通にしていたら死ぬのであれば、もうそれでいい、という気分なのです。投げやり、と非難するのはやさしいですが、はたして私を非難できる人はどれだけいるでしょうか。
 この疲れきった情況で、せめて私は自分が殺さないでいるよう努力するのが精一杯です。
 私はこれが現実だと思います。皆さんも目をそらさずに、現実を見てください。すべてのエネルギーを殺さないことに注いでほしいのです。それで、こんな文章を書いた次第です。


 上記の文章は、私が4年前に書いた長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』(中公文庫)第2部の一節である(176~178ページ)。「きさらぎ」という、脇役である20代の女性が、新聞投書という形で発表した文章だ(現実の新聞ではこんな長い投書は載らないと思うが)。
 無差別の通り魔殺傷事件が起こるたびに、私はこの登場人物と同じ無力感を覚え、諦念に侵蝕されそうになる。この小説の第1部は、自死がちまたを席巻する。その自死の理屈が暴走して、第2部のタイトルである「心中時代」が出現する。この「心中」とは、誰かを巻き添えに死ぬことである。
「「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」」という気分を漠然と抱えている人が、この社会にどれだけたくさんいることか。そのほんの一部の人が、事件を起こす。それは無差別の殺人であるかもしれないし、グループでの自死かもしれないし、簡単に死ねる方法での自死かもしれない。
 この作品を書いてから3年後の去年、私は現実はもはや、『ロンリー・ハーツ・キラー』よりもひどいありさまになってしまったと感じていた。それで、よりいっそう殺伐とした『無間道』という長篇小説を書いた。これは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という気持ちで書いた作品で、実際に自分へのダメージは覚悟していた以上に大きかった。
 今の私たちがさらされている暴力は、自分たちが認識している以上に巨大なのだ。その暴力とは、通り魔をするしかないところへ人間を追いつめていく暴力である。それは平凡に暮らしていると思っている人々の日常にも潜む。私たちの周囲にも、私たちの胸の内にも。さもなければ、生まれも育ちも違う、それぞれ別個の事情を抱えた人間が、いっせいに同じような行動を取って自死や殺人を犯すはずがない。ただ、普段は目に見えないから、そんな暴力などないものと信じ込もうとしているだけである。その暴力の根源がどこにあるのか。私たち一人一人が全力を尽くしてそれを見きわめようとしないと、このような事件の連続に、歯止めがかかることはないだろう。
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by hoshinotjp | 2008-06-09 23:38 | 社会