2008年6月17日(火)

 連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の死刑が執行される。新聞記者時代にわずかでもあの事件を取材した私にとって、とても虚しい死刑執行だった。死刑を執行しなければ何かが解明できたのか、と問われれば、たぶん現状と変わらなかっただろうと思う。それでも、これでこの事件が過去のものとして終わる、少なくとも世間ではそのように整理されてしまうと思うと、「いったい何だったのだ」と虚脱したくなる。あれほどの残虐さと非現実性に、私たちは背筋を凍らせ戦慄し、本当におぞましいと感じ、二度と起こってほしくないと強く願ったはずではなかったのか。それなのに、私たちは宮崎勤を「あちら側」へと追いやることで、事件を生みだした要素も見ないようにし、歯止めを掛けることに失敗した。
 あの事件以降、20年の日本をつぶさに見つめれば、宮崎勤のような人間が育ち、あのような犯行に及んだ原因は、間違いなく私たちが作っている社会にあることが、いやでも理解できる。つまり私たちも当事者なのである。「あちら側(異常)」と「こちら側(正常)」という線など引けないはずなのだ。だが宮崎勤をあちら側に置くことで、私たちはその事実から目を逸らしてしまった。
 その結果が、今の社会だ。連続幼女誘拐殺人事件と性質を同じくする事件が、普通に起きるようになっている。そのたびに、さらに線を引いて、私たちは、このような事件を成り立たせている要因から逃げ続けている。
 何だったのだ、私たちがあのとき嫌悪感を感じたという事実は。あの嫌悪感・恐怖は警鐘だったはずだ、嫌悪感をもたらすものが自分たちの中に潜んでいるという。ついにそれに目を向けることなく、当事者を葬り去ることで、事件を忘却の中に放り込んでしまった。
 きっと、オウム真理教の事件でも、麻原彰晃の死刑を間もなく執行して、同じことをするのだろう。そして、秋葉原の通り魔事件では済まないようなさらに悲惨な事件が、これからも続くのだろう。
 結局、司法も世間も、罰することにのみ終始し、再発を防ぐための努力は怠り続けているのだ。「イスラム過激派」の暴力を阻止するために、アフガンを攻撃し、イラクを攻撃し、イランを今度は攻撃しようと考えるようなものだ。それによって阻止できるどころか、むしろ拡大する一方なのに。
 それにしても、ハードルを低くして死刑判決を連発し、さらには大量の死刑執行を行う社会で、はたして生命の実感など子どもに感得させることができるのだろうか?と思う。私には、互いが殺し合っているようにしか見えない。冷静になって想像力を働かせれば、これはとてもまともな光景ではない。
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by hoshinotjp | 2008-06-17 22:27 | 社会