2007年 12月 27日 ( 1 )

 渋谷のユーロスペースで今公開中のドキュメンタリー映画『暗殺・リトビネンコ事件(ケース)』は、ロシアの底知れなさを暴いた、衝撃的な作品である。
 映画は、この作品の監督であるロシア人アンドレイ・ネクラーソフが、しばらく留守にしていた自宅(別荘?)に戻る場面から始まる。家はガラスが割られ、何者かに侵入され、ひどく荒らされている。そしてベッドの上には、瀕死のリトビネンコの写真が載せられているのである。
 まるで『ゴッドファーザー』の一コマような戦慄のシーンは、現実にネクラーソフの身の上に起きたことだ。荒らした者たちの狙いは、「次はおまえかもしれない」と脅し、恐怖に震え上がらせることである。
 一年ちょっと前に、亡命先のイギリスで放射性物質を紅茶にもられて何者かに暗殺されたロシア人アレクサンドル・リトビネンコのことは、記憶している人も多いだろう。ネクラーソフは、リトビネンコの亡命直後から長い時間をかけてインタビューを行っていた。その中で、KGBの後身であるFSBの工作員だったリトビネンコは、ロシアのプーチン体制の暗部を次々と暴露していく。
 一例を挙げれば、第二次チェチェン戦争はモスクワの高層マンションがチェチェン独立派のテロで破壊されたことに端を発したとされているが、じつは首相に就任したばかりのプーチンが自らの権威を高めるために、FSBを使って引き起こした、ヤラセのテロであるかもしれないこと。それらの告発を、ネクラーソフ監督はできるかぎり実証的に追及していく。
 ドキュメンタリー作品のすぐれているところは、書物と違って、語っている言葉とは別個に、話し方や表情などからその人物の感触が伝わってくる点だ。私は、暗殺されたときにはまったく知らなかったリトビネンコがとても身近な人物に感じられた。また、リトビネンコのひと月前にやはりモスクワで暗殺されたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤのインタビューも収められている。
 ネクラーソフ監督とは、来日した際に対談をさせていただいた。いま発売中のBRUTUSNo.631号167頁に収録されているのだが、「ハエのように押しつぶされてしまうかもしれないと、胃がキリキリと痛むこともある。でも別の時は大丈夫だと楽観的に思える日もある」というようなことを語っていたのが印象的だった。
 この複雑な事情が絡んだ映画に、背景知識のない者にもわかる日本語字幕をつけたのが、私の字幕時代の師匠の太田直子さん。出自がロシア文学研究であり、今でもロシアの状況をフォローしておられる太田さんの、渾身のお仕事だと思う。
 実感の薄い人が大半だと思うが、ロシアは隣国である。北方領土の問題を想起すれば、私たちに最も近接した地域にロシア人は居住している(韓国より近い)。今度の春には大統領選挙の行われるロシアのことを、私たちはもっと皮膚感覚で理解しておく必要があるのではないか。
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by hoshinotjp | 2007-12-27 22:14 | 映画