カテゴリ:文学( 37 )

 オープンしたばかりの神奈川芸術劇場で上演されている、チェルフィッチュの『ゾウガメのソニックライフ』を見た。心地のよい芝居だった。風通しがよくて、そこにいることが気持ちよかった。万人にアクセスしやすい作品なのかはわからないが、誰をも拒まない演劇だと思う。
 妙な言い方だけど、私が作品を見ながら連想し続けていたのは、小学5年生(4年生や6年生でもいいのだけど)の昼休みの光景だった。誰かしらが動いていたりしゃべっていたりして、一時も瞬間が止まることはない感じで、しかも舞台上の5人は等価に存在しているのだ。すごくなじみがある感覚だった。
 と、こう書いてもどんな作品かはわからないだろう。私もこれを言語化する術はない。言語化できないことを、芝居ではするわけだから。
 そもそも、私は芝居を語る言葉を持たない。なぜなら、これまでほとんど演劇を見てこなかったからだ。見てこなかった理由はいろいろあるが、その一つに、演劇特有の、演じる側と観客の強い一体感に、疎外を感じることが多かったというのがある。閉じた空間で生身の人間が演じるのを見るのだから、祭りに参加するようなもので、演技者と観客が一体感を得るのは当然だしそこに意義もあるのだけど、それがある閾値を超えると、閉鎖的な宗教儀式の領域に入り、その世界のやり方と歴史を共有しない者は排除されるような雰囲気になる。私はその共同性の強さが苦手だった。
 でも去年、ジエン社の『クセナキスキス』を見たら、私のそのアレルギーを和らげてくれるような作品だった(3月に行われるジエン社の新作の上演にも行く)。そしてこの『ゾウガメのソニックライフ』で、これからはもう芝居は普通に見に行っていいな、という気になった。まあ現実的には時間がなくて足を運ぶことがすごく増えることはないだろうけれど、心理的な規制は消えてしまった。
 つまり、私はこう思ったのだ。自分はずっとこのまま観劇の素人として、空間全体を楽しむ芝居に、ときどき身をさらしに行こうと。自分の体にいい気がするのだ。端的に、毎日言語を扱う仕事をしていると、自分は脳でしか存在していない、という気分に陥ることが多く、それを解放してくれる芸術なのだ。だから、言語化する気がない。もちろん、いろいろ考えるのだけど、それを言葉に変えて表明するのはまた別の行為。
 私は岡田利規さんの作品については小説から入っており、どうしても小説のほうから見てしまうけれど、それはそれでいいかなと。そしてその小説にも、演劇作品にも、さらには人としてのスタンスにも、大変共感している。一般に人が前提にしているような個人の区切り・輪郭は、本当にそれだけなのか? それはもっと曖昧で揺らぎのあるものかもしれないし、だとしたら、人と接しうる可能性はもっとずっと広いのかもしれない。ということを岡田さんの作品に触れるといつも思う。それを、生身の人間が演じている芝居で感じることができたのは、驚きだった。小説だと話者の語りのレトリックでそれを表現できるが、演劇では演じる役者が生身の一個人であってそれが制限になりそうなものなのに、その制限が逆に一個人の輪郭(と思われているもの)を破ってしまうという事態を目の前で見て、とても心地よかったのだ。
 語る術を持たないと言って語っているが……。でもまとまりをつけて書くことを放棄して書いたので、とりとめがない。
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by hoshinotjp | 2011-02-07 23:41 | 文学
 村上龍氏が電子出版社を立ち上げたことについて、他の人はどう思うか知らないが、メディアとしての作家ということに極めて自覚的である村上氏の才覚が、この転換期を間違いなく捉えたと感じた。以下、それほど電子メディアに詳しくはない私が、今日考えたこと。
 たまたま今日は坂本龍一さんのサンフランシスコ・ライブのUstream中継を昼に見て(というより聴いて)、深い感銘を受け、この現実の意味を考えたのだった。あのクオリティの高いライブ中継が実現したのは、坂本龍一さんという存在の、蓄積された経験や人脈、ノウハウと、メディアについての知識・関心と、自身がメディアとして機能するだけの知名度があってこそではあるだろう。ただ、このノウハウが確立されれば、誰でもが費用をかけずにクオリティの高い中継をすることができる、ということを意味している。
 電子書籍が向かう地点も、そこだと思う。誰もが自分の作品を自分で出版できること。むろん、それがいわゆるプロの作家でなくても構わない。誰もが、というのはその点を含むことが重要である。
 私も、以前、仲俣暁生さんから、ごく素朴だが自分で電子書籍の形態にできる方法をちらりと伺ったとき、まずはエッセイでもまとめてこっそり出版してみようか、だとか、Plantedで連載していた連作を図版とともに作ったら楽しいだろうな、だとか、とりとめもなく夢想した。自分の作品だけでなく、あの人の文章が本になればいいなとか、あれこれ自分で作れる、ということの楽しさを、このときにほんのりと味わってみた。
 だから、村上氏の試みを知って、そうだよな、ここまで作家がやっていいんだよな、というより、やるべきなんだよな、と思った。電子書籍の究極が、個々人による出版であるならば、その道筋を作るのが既存の大企業であるのはそぐわないのだ。個々人の意見と試行錯誤の中でできあがっていくのがふさわしい。
 では、これまでの自費出版とか、ブログやホームページで作品を掲載するのと、何が違うのか?
 流通の権限を誰が持っているか、が違う。取次と結びついた出版社の存在とは、端的に流通を握る者、であった。作品を本にしてくれるかどうか、よりも(自費出版できるのだから)、それを全国の売り場で売ってくれるかどうか、が権限の源であった。
 電子出版は、その権限をかなりの部分、個人に返す。だから、発信することに意味ができてくるのだ。作っては見たけれど人の目に触れない、という状態から、もう少し人の目に触れる可能性ができてくる。流通の独占を骨抜きにしてしまったことが、画期的だと思うのだ。
 たくさんの作品が電子書籍化すると、今度はその情報整理が必要になってくる。リアル書店と違って、物がそこにあるわけではないので、情報の中に埋もれてしまうと見えにくくなる。そこで、情報を握って整理しそれを示す力がある者が、一番の権力を持つことになる。流通の権力から、情報の権力へ。その権力を握ろうとしたのが、アマゾンでありグーグルだった。けれども、ツイッター時代に入って、情報の流れを特定の権力者がコントロールするのが、難しくなっている。つまり、ツイッター的な情報の流通と、Ustreamや電子出版が結びつけば、作品を発信する権利を、特定の組織や業界が独占することは不可能になるのだ。
 誰もが発信し、誰の発信もが多数に認知される可能性がある、ということは、機会の平等につながる。ただ、それはポピュリズムを待望するような空気の中では、全体主義的な熱狂をとてつもないスピードで煽る役割も果たす。
 だから私は、希望と恐怖を両方感じている。加えて、紙の本で育った私は、これからいくら電子書籍も利用するようにはなっても、紙で本を読むことの楽さ楽しさから離れることはできないだろう。
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by hoshinotjp | 2010-11-04 23:29 | 文学
 拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。
『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現実には普通の存在なのだ、ということを可視化し、メジャーな存在との軋轢を描こうとしてきた。さもないと、自分が生きるのが苦しかったからだ。
 だが、メジャーな存在、つまりマジョリティは、本当にマジョリティなのか、ということが一方で気にかかっていた。メジャーな立場とは、マイナー立場に対し、権力を持っている側である。強く立てる側である。
 差別や排除が起きたとき、一見、そこにある境界こそがメジャーとマイナーを分けるラインに見える。けれど、そのラインの前線に立っている者、すなわち、差別や排除を行っている当事者たちを見ていると、必ずしも何らかの権限を持つとは限らない。実際には、マジョリティの中で最下層に位置し、マジョリティからこぼれ落ちないことに必死で、あっぷあっぷで、その中では何の力も権力も持たなかったりする。この必死さが、具体的な排除行動となり、あの異質な連中とは違うという叫びとなる。自分がマジョリティであることを常に証明しなければならないのだ。照明に失敗したら即、こぼれ落ち、自分が今まで排除していた側に組み入れられてしまう。
 となると、前線に立たされているのは、どちらもマジョリティではないとも言える。そもそも、マジョリティなんてあるのか、という気にもなる。私はそれと見えないところに存在していると思っているが、それは数でいえば圧倒的に少数の権益者たちだ。つまり、圧倒的多数は現在、マイナーな立場に本当は置かれているのだ。マイノリティたちが、幻想のマジョリティの椅子を奪い合い、線引きしあっているのだ。
 そのように感じ始めてから、この前線を書こうと思うようになった。それが『無間道』であり、『俺俺』である。この2作はそれぞれ別個の作品であるが、私の中では2部作である。
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by hoshinotjp | 2010-10-30 23:23 | 文学
 ※この試みはすでに終了しました。
 昨年の秋から考え続けていた、「ツイッター小説」を思いきって始めてみることにしました。http://twitter.com/orex2 で展開中です。
 私も書きますが、読んでいる皆さんにも書いてもらう、というのが、その核心です。
 まずは私がツイッター上で導火線となる小説を書き始めます。私の新著『俺俺』の外伝という形をとっていますが、『俺俺』を読んでいなくても、わかる独立した小説です。(ちなみに、『俺俺』の冒頭5ページはこんな感じです。サイト内の「立ち読み」をクリックしてください)。
 皆さんには、適当なところで乱入して、小説を枝分かれさせていただきたいのです。つまり、私の文章の合間から、それぞれ小説を書いてみてほしいのです。
 枝分かれのさせ方は、思いつく限り、どんなやり方でも構いません。
 例えば、
・ちらっと出てきた通行人に焦点を当てて、その人の物語を書き始める。
・私が書いている主人公の、眠っている最中に見ている夢の内容を書く。
・まったく新たな登場人物を作って、私の書いている主人公を脇役とする。
・私の書いている話がいつの間にかパラレルワールドに入ってしまった作品を書く。
・私の書いているツイッター小説を読んでいる人物の物語を書く。
 などと、好き勝手でいいのです。
 これは遊びです。ですから、気楽に試してみてください。誰もケチはつけません。レベルがどうのと、気にする必要もありません。書いたことがあるかどうかの経験も関係ありません。面白そうだなと感じたり、読んでいるうちに思いついたり、空想が広がっていたり、時間つぶしに新種の遊びをしてみようかと思ったりしたら、とりあえず書いてみてください。
 私の希望としては、プロの小説家だろうがそうでなかろうが構わず入り乱れ、枝分かれした話からさらに枝分かれして、もう全体像が誰にもわからないぐらいに膨れあがれば楽しいな、と。
 とりあえず、最低限読めるように、ルールというか、仕様を考えました。参加の仕方は以下の通り。

1、まず、枝分かれさせる部分を、リツイート(RT)する。
2、続けて、自分の小説を展開する。1ツイートだけでもいいし、長く展開してもいい。
2、できれば、冒頭に続き番号を振る。
3、末尾に必ずハッシュタグ 「#orex2」をつける。「#」の前の半角空きを忘れないように。このタグを忘れると、この企画の一部としては読めなくなります。
 以下、私が自分の小説を枝分かれさせてみた例です。
c0104199_15134211.jpg


 参加者まで含めて全体を読むには、「#orex2」で検索してみてください(なお、ツイッターの不具合で、肝心の私の冒頭の書き出しが、ハッシュタグ検索では表示されません)。
 私も折に触れ、皆さんのツイート小説を読みます。そして場合によっては、枝分かれさせます。
 ともかく多くの方が参加してくれないと、成り立ちません。皆さんの関心が頼りです。ぜひ、アホな遊びにつきあってやるかという気持ちで、やっちゃってみてください。
 ぜひ、ご協力、ご参加をお待ちしています。ご意見、ご質問がありましたら、気軽にツイッター上で @hoshinot 宛てに尋ねてください(すぐにお返事できない場合も多々ありますが)。
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by hoshinotjp | 2010-07-16 12:56 | 文学
『俺俺』 収録外のまえがき その5「編集者の存在について」

 昨夜は、『俺俺』の担当編集者と打ち上げをした。この本一冊作るのに、雑誌「新潮」の担当編集者二人(育休のため担当が途中で替わる)、「新潮」の編集長、雑誌掲載時の校正者、単行本の担当編集者、単行本化の際の校正者、装丁のデザイナー……と、何人もの人が携わっている。さらに、それぞれの責任を取る上司や、本屋へ売り込む営業の人、本屋で売る人、と考えると、たった一冊のためにものすごい量の人が関わっていることがわかる。
 要するに、私一人で書いているのではないのだ。書かれた小説については私が全責任を負うが、それを本という形にして読者に届けるには、深く関わった人だけでも10人ぐらいいるのだ。
 ありがたいのは、その人たちが皆、真摯に多大な労力を費やして、この本を少しでもよいものに、完成度の高いものにしてくれようとしたことである。そのような環境で小説を書けることは、ものすごく恵まれていることだ。このことは忘れてはいけない。
 繰り返すが、自分一人で書いているのではない。これは一種のチームなのだ。チームの中に信頼があれば、どれほどよい結果が生み出せるかは、ワールドカップの日本チームで見たばかりだ。幸い、私はこのチームを深く信頼して仕事をすることができた。だから、今はとても充実感がある。もし、自分のことばかり考えて傲慢になり、チームの信頼をなおざりにするとなると、敗退していった強豪チームのような結果になるだろう。
 だが、いつまでこのようなチームとして本を作る形が維持されるのか、不安もある。基本的に、書籍が電子化されてもこのチーム作業は必要不可欠だと思うのだが、現実には、電子化に伴いこの労働が安く買い叩かれる懸念がある。現に、同じフリーのライターが記事を書いても、電子媒体の原稿料は、紙媒体の原稿料より数段安い。フリーの編集者も同様の扱いである。つまり、電子媒体にしてコストを下げる際に、これまでの編集の労力を「自由化」(「新自由化」と言ったほうがいいか)するということが行われうるのだ。
 執筆自体は一人の孤独な作業だけれども、それを本という形にすることは一人二人ではできない。そういう複数の関係性がコンテンツの完成度を保証していることを、私は大切にしたい。
 ちなみに、『俺俺』は、そうして自由化されて安く買い叩かれた交換可能な人間の生態を書いたものである。そのときに、自分を自分たらしめるべく、自分の価値をどこに置こうとするか、それを間違ってしまったのが「俺」である。だから「俺」は男とは限らない。でも圧倒的に男が多い。
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by hoshinotjp | 2010-07-10 16:56 | 文学
『俺俺』 収録外のまえがき その4「結末について」

 この作品の結末について書くわけではありません。ネタバレの心配はございません。

 ここ何年か、文学にかかるようになってきたプレッシャーのひとつに、「前向きな結末を」というのがあります。作品の締めくくりは前向きに明るい印象にしてほしい、ということです。
 私にはこれがまったく理解できません。なぜなら、日常やこの社会からの重圧から解放されたくて文学作品を読む、といった経験がないからです。私にとって、文学作品を読むことは、日常や社会と格闘したり何とか屈せずに折り合いをつけるための知恵でありトレーニングなので、そこから解放されたり癒されたりするためではありませんでした。
 もちろん、そのような目的にかなう芸術作品が存在するのは悪いことではないと思います。時にはそれも必要だと思います。私もそれを必要としています。
 けれど、重要なのは、目を逸らさない、真正面から受け止めることです。そしてその力になるのが、文学作品の役割だと私は思っています。
 実際、私が読んできた小説は、大半が「前向きな結末」などではありません。ドストエフスキーもフォークナーもカフカもウルフも、ガルシア=マルケスもプイグもルルフォも、たいていは重く苦しく暗い終わり方をしています。ただ、ネガティブとも言えません。そう見えても、じつはとてつもない爆発力を持っています。
 要するに、結末がネガティブかポジティブかなんて、どうでもいいのです。その小説のパワーによって、自分の中の、自動化したものの見え方・感じ方が動かされることが重要なのです。
 これだけ希望や明るい見通しのない社会に生きていると、「前向きな結末」を欲する気持ちはわからないではありません。でも、それは癒しを求めるこの十数年の風潮と軌を一にしていると思います。依存症が蔓延する傾向と同根です。なぜ、希望や明るい見通しが消えていく一方なのか、その原因からどこかで目を逸らしてしまっているからではないでしょうか。せめて、文学の場では、それを見極める努力を、苦しくてもすべきでないのか。
 文学は、嫌なものを隠したり、口当たりよく変えたりする媒体ではありません。見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを、見えるように聞こえるように感じられるようにする媒体です。
 もし文学までもが、結末のカタルシスを要求する風潮になびいてしまったら、ただその場の心地よい忘却を与えるだけの薬物に成り下がってしまいます。その結果は、私たちがさらに強い刺激物を求めるようになる、という中毒症状の深まりしかありません。現在のネガティブな社会は、依存症社会の結果だとも言えます。
『俺俺』は陰惨なテーマを扱っていますが、ことさら陰惨に書いたつもりはありません。結末も、見かけはどうあれ、ネガティブともポジティブとも言えないものです。ネガティブ/ポジティブという分け方自体が、何かによる洗脳であり、依存へ追い込む力である、ということを、作品を書きながら考えました。
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by hoshinotjp | 2010-07-08 23:13 | 文学
 『俺俺』 収録外のまえがき その3「わかりやすさ、について」

 21世紀に入ったころから、文学にはいくつかのプレッシャーがかかるようになっています。その一つは、「わかりやすくしろ」「読みやすくしろ」。
 いたずらに難解だったり、これがわかるわれわれ、みたいな特権意識を持つ読者のための作品であったりすることには、私もうんざりです。けれど、読み手のほうは歩み寄ろうともせず、「自分たちにわかるように書いてくれ」という傾向には、唖然とするほかありません。基本的に文学とは、いや文学に限りません、芸術作品というのは、わからないから作る(書く、演じる)のであり、わからないから読む(見る、聴く、触る)のです。わかっていることを確認したり、自分の常識を疑わずに、自分に合わせて書かれた作品で納得するのであれば、それは引き籠もりです。スペインを旅行したいけれど、あの国のことはわからないから、スペインのほうからこっちに来てくれ、というようなものです。それが無理なので、国内のスペイン村へ行って、「自分はスペインがわかった」と思い、「スペイン行ってきたよ、よかったよ」と吹聴するようなものです。あるいは、隣駅まで歩いていくのがしんどいから、車で迎えに来てくれ、あるいは籠でも用意してくれ、と要求しているうちに、足が萎えてしまうようなものです。サッカーで言えば、俺はディフェンスもしないし、スペースにも走らないからな、俺に完璧なシュートを撃てるやさしいパスを出してくれ、と要求しているようなものです。こんな選手たちのいるチームはどうなるでしょうか?
 もちろん、わかりやすくできた読み物も必要です。それぞれの役割があります。文学は、書き手にも読み手にも考えさせることが役割です。文学が提出するのは、言葉にならないある感覚や空気や感触です。それを感じてから、考えるのです。
 文学作品を読むのは、一筋縄ではいきません。労力のかかる作業です。でも、その労力こそが、文学から得られる果実なのです。文学とは経験です。経験値をあげるトレーニングにして、出来事なのです。
 しかし、世は、「ひとことで言うとどういうことなのか?」という要求ばかりを苛烈に突きつけます。政治も、メディアも、小説も、音楽も、演劇も、美術も。人々は、140字以内で、あっという間に飲み込める言葉しか、受け付けられなくなりつつあるのです。自分の持てる能力を、驚くほど退化させているのです。
 その結果はどうなのか? 簡単に騙され、簡単に怒りを爆発させ(先日の敗戦の時のブラジル戦のように)、そこにつけこまれてまた簡単に洗脳され、ということを繰り返しているだけではないでしょうか。
 いたずらに難解であることと、そうではない「わかりにくさ」とは、まったく別物です。文学に正面から向き合い続けていれば、その違いはすぐにわかるようになります。つまり、簡単には騙されなくなります。
 作品と読者がそれぞれ歩み寄る場所が、文学空間です。書き手として、私も歩み続けるので、読者もこちらへ歩くという労力をさいてくださればと願っています。
 次回は、文学にかかるもう一つのプレッシャーについて考えてみます。アップロードがいつになるかは、ワールドカップ次第です。
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by hoshinotjp | 2010-07-05 23:19 | 文学
 『俺俺』 収録外のまえがき その2「テーマについて」

 基本的に小説はどのように読まれても構わないのだが、私が書くに当たって考えたことは、ちまたですでに出回っている言葉で言えば「生きづらさ」についてである。
 ここ数年、私に取り憑いて離れないテーマは、自殺の問題である。年間の自殺者が3万人を越える年が10年以上続いているが、3万人の背後には、自殺の瀬戸際にいる人がその10倍はいると言われている。さらに、その瀬戸際の近くにいる人はもっと多いだろう。そうやって考えていくと、誰もが自殺の渦のすぐそばに立たされていることがわかる。
 ほとんどの自殺のケースでは、自分の意思で死を選択しているのではなく、死以外の選択肢を奪われ、追いつめられるようにして死へ至っている。
 にもかかわらず、自殺した者たちは、社会の中で「負け組」と見なされる。そのことが自死遺族を苦しめる。じつは多くの人が自殺の近くにいながら、自殺した人を「負け組」として自分たちとは切り離そうとするのは、さもないと自分たちも自殺の渦に巻き込まれそうだからだ。だが、現実には、苦しい者同士がどんなに蹴落とし合ったところで、「勝ち組」には上がれない。この図式を作った「勝ち組」たちは、そんなことを許しはしない。
 この、苦しい立場の者が、さらに苦しい立場の者を蹴落とすことで、苦境から這い上がろうとする、という図式が、今の社会の「生きづらさ」を支えていると、私は思う。苦しい者同士が、互いに貶め合う競争社会。それが今の日本社会の風土だ。「自殺」とは、自分たちが殺し合う、という意味なのだ。
 文字通り、自分たちが殺し合う社会を、ちょっと極端にすることで目に見える形にしてみたのが、この小説だ。
 そんな負のスパイラルから抜けるには、どうしたらいいのか? 私自身が何とかそこにたどり着きたかった。その過程が、この小説を書く過程そのものだと言える。
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by hoshinotjp | 2010-07-03 22:05 | 文学
  『俺俺』 収録外のまえがき その1「装画について」

 新しい長篇小説、『俺俺』(新潮社)が昨日、発売されました。装丁の絵は、石田徹也さんの「燃料補給のような食事」。この小説には何としても石田徹也さんの絵を使いたい、石田さんの絵以外にはありえない、と思っていたので、この絵の使用を許可してくださった石田さんのご家族と静岡県立美術館には深く感謝しています。
 というのも、ちょうどのこの作品を構想している最中だった去年(2009年)の初めごろ、「アートコレクター」という芸術誌で画家の小野田維さんと対談したとき(小野田さんとは『水族』で、小説と絵のコラボレーションをした)、たまたま編集部の方に最近作った号として見せていただいたのが、石田徹也さんの特集号でした(雑誌は「美術の窓」)。
 ぱらぱらとめくるなり、世界は停止しました。私はその絵に釘付けになり、まわりの時空の一切がかたまっています。その絵は、青年が床にうつ伏せに丸まり、緑の毛布をかぶり、薬に溺れ、その丸まった背中の緑の毛布は小さな丘をなし、木が生え、芝生に覆われ、子どもが遊んでいる、「草食竜」という絵です。
 さらにページをめくって、また衝撃を受けました。室内に「石田家」と書かれた墓石があり、その前にヘッドホンステレオを付けた青年が体育座りをしています。墓石はベッドのように足がついて少し高くなっており、その下からうつぶせに倒れている男の裸足の足先がのぞいています。あたりには草や木が生えていますが、そこは一人暮らしの男の部屋の中なのです。窓からは半透明な電車が見えます。
 私はすっかり絵に飲み込まれ、自分がどこにいるのかさえわからなくなっていました。自分がそれまでいた現実より、その絵のほうがずっと強烈な現実でした。そして、その絵の世界こそ、私が新しい小説で書きたいと思っている世界でした。つまり、私が視覚的にでなく、五感で見ている現実の姿です。
 帰宅するのももどかしく、私はその特集を読みふけりました。そして、石田さんの人生自体に激しく共揺れしました。このような生き方感じ方をしていた人だから、この絵を描いたのだと、理解できました。それは私にとって、別の自分のようでした。
 さっそく、石田さんの遺作集(求龍堂)を買い求めました。あらゆる絵が、石田さんご自身の姿をモチーフにした、同じ顔の人物たちでできています。登場人物が男であれ女であれ、子どもであれ大人であれ老人であれ、全員が同じ顔。無表情の虚ろな顔。
『俺俺』は、帯の紹介文にあるとおり、「俺」が増殖する話です。自分が増えていくというより、人間は皆「俺」だったという発見の物語です。その発見は幸福でもあり、おぞましくもあります。
 当初は「俺」同士が抹殺し合う作品を考えていました。けれども、石田さんの絵に触発されて、「俺ら」の様態をつぶさに描く作品へと変わっていきました。常に石田さんの絵を傍らに置いて執筆を続けました。浜松美術館での回顧展にも行って、実物に触れてきました。だから、この小説は、石田さんとの共作だと、私は勝手に思っているのです。
 ツイッターで、作家の盛田隆二さんも書斎に石田さんの絵を貼っていらっしゃると知って、同じような意思で小説を書いていらっしゃるのだと、心強く感じました。
 石田さんの絵に感ずるところのある人にも、ぜひとも読んでいただければと思っています。
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by hoshinotjp | 2010-07-01 17:36 | 文学
 5月15日に「路上文学賞」なる賞を発表した。応募資格は、路上で生活していること。応募する作品は、川柳でも詩でもノンフィクションでも小説でも何でもよく、選考委員である私が独断で受賞者を選んだ。
 この賞は、写真家の高松英昭が有志と企画し、雑誌「ビッグイシュー」の協力を得て、実現したものである。賞金は、高松英昭が昨年出した写真集『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス・刊)の印税の一部が当てられている。
 高松英昭はかれこれ20年近く、路上生活を撮り続けてきている。妙な言い方だが、路上生活に寄り添うことは、彼の生活の一部である。彼は写真家であり、路上生活の記録者であるが、ジャーナリストではない。『STREET PEOPLE』を見ても、そこには人が期待する路上生活者の姿はない。ポップな背景や服装で、ちょっとお茶目なポーズを取った人たちの写真がそこにはある。言われなければ、路上生活者たちだとは思わないだろう。
 これは「悲惨な路上生活者の実態」とは違う。だが、それ以上に、路上生活者の日常を活写している。どんな日常か? 路上生活者だって楽しむ瞬間はあるのだ、という日常である。
 それは変だと思う人は、路上生活=悲惨というイメージで捉えている。私はテレビ関係者から、「ホームレスの明るい話題は視聴率が取れない」と聞いたことがある。
 だから、路上で生活している人たちは、自分たちが楽しむ姿を、公にあまり見せない。非難されて叩かれるのがオチだからだ。高松英昭は、日々つきあいを続けている路上の人たちと、楽しむことを企画した。撮るほうも撮られるほうも楽しい写真を目指した。彼らの間に信頼があるから、そんなことができたのである。だから、この写真には、両者の信頼も写し表されている。
 路上で生活する羽目に陥るのは、たんに経済的に困窮したからではない。金がないだけなら、友人知人などから借りることもできる。助けや金を借りることのできる人間関係も失い、どうすればいいか考える余裕も失い、生のふちまで追いつめられたときに、人は路上に出るのだ。路上しか行くところがないからだ。それは路上生活に身をやつすことでもあるが、一方で、追いつめられた状況から路上に避難したという側面もある。生きるか死ぬかの瀬戸際で、路上は最後のシェルター(一時避難所)である。これが高松英昭の考えである。
 だから、楽しみを取り戻すことは、路上生活の重要な要素なのだ。すべてを失った状態から、何かほんの些細なことでも楽しめる余裕を取り戻すこと。それは、生に前向きになり、厳しい現状と何とか向き合い、努力をするために、最も必要な精神状態なのだ。
 だから高松英昭は、路上の人々と楽しむことにこだわる。
 そうやって得た印税なので、やっぱり路上に還元しよう、しかも楽しむことに使おう。ということで、今度は文学賞というお祭りを考え出したわけだ。ノーベル賞に至るまで、あらゆる賞は祭りである、と私は思っている。本気で情熱を傾ける祭り。路上文学賞も、例外ではない。高松英昭が写真で楽しんだように、今度は私もその楽しみに加えてもらった。
 総勢約30名が、たくさんの作品を応募してくれた。感動したのは、そのほとんどが、自分の日常の言葉で書いていることである。高松ともども心配したのは、「ホームレス=悲惨」と思っている人たちに向けて、その人たちの期待する物語を書いてしまうのではないか、ということだった。だが、まったくの杞憂だった。もちろん、自分の人生を語っている作品は多い。だが、それを描く言葉と視点は、あくまでも極私的なものなのだ。
 三十人それぞれの人生観、世界観。なんと世は豊かなのだろう。
 本当はこれらの作品が広く読まれてほしい、と私は思っている。だが、先ほども述べたように、楽しむ路上生活者の姿は、ちまたの攻撃性を誘発しやすい。日ごろ、波風立てないように、目立たないように、おとなしく、悲惨な面だけを見せ、ようやくちまたからの理解や協力を得ている現状を考えると、安易にネットなどで公開するのははばかられもする。
 それで、とりあえずは、すべての作品を収録した冊子を作り、路上の人たちに共有してもらうことになった。この祭りを、定期的に続けていきたいからである。ひょっとしたら、ビッグイシューを売っている路上生活者の中には、この冊子を常連さんに配る人もいるかもしれない。
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by hoshinotjp | 2010-06-01 23:42 | 文学