カテゴリ:身辺雑記( 39 )

 今年の目標。
●大長篇に取り組む。そのために必要なことを、何よりも優先する。
●第2回路上文学賞を実現する。
●ホームレス・フットサルの日本代表「野武士ジャパン」を応援する。今年夏には、ホームレスワールドカップ・パリ大会が開かれ、出場を目指しているので、応援も力を入れていく。
●些細な迷惑など許容し合うラテン系の社会作りを目指す(つまり、人にちょっとした迷惑をかけることなんて気にしないで生活する、ってこと。ただし、自分もちょっとした迷惑をかけられても大らかでいるべし)。

 上記のうち、大長篇には昨年後半から取りかかっているのだが、のっけからつまづいて停滞中。その打開が当面の目標である。
 第2回路上文学賞の打ち合わせも、すでに今年に入って行った。いろいろな困難はあるが、楽しいから何が何でも実現させる。
 そして、ホームレスサッカー「野武士ジャパン」の初練習が、昨日(1月10日)、四谷ひろばで行われた。昨年の夏から、私もときおり練習に顔を出すようになったのだが、確実に上達はしている。でも上達って、同じペースでうまくなるわけではなく、停滞と急上昇を繰り返すもので、昨日見た感じでは少し停滞しているところかな、と思った。
 野武士のプロジェクトを支えるビッグイシューのスタッフやボランティアのコーチ陣は大変感じのよい人たちばかりで、じつに個性的な野武士のメンバーたちとのボケと突っ込みも可笑しく、集まってフットサルをしていること自体が楽しい。が、今年の目標はパリ大会である。本番である。ゆるさは失わず、しかし馴れ合わずに関わっていきたい。
 パリ大会へ向けては、大阪でもビッグイシューの販売者たちによるホームレスフットサルチームが練習を行っており、今後もいくつかホームレスフットサルチームが作られていく模様。代表である「野武士ジャパン」のメンバーに選ばれるのは、そのうちから8名。厳しい選抜が5月ごろに待っている。私もサポーターとして、その様子をレポートしていきたい。
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by hoshinotjp | 2011-01-11 13:40 | 身辺雑記
 寒い日が来るのを待っていた。夏の終わりに購入したRIVORAという新しいブランドのジャケットが着られる日を、心待ちにしていたのだ。そして木枯らしの吹いた今日、ジャケットのデビュー。
 ジャケットを着て出かけた先は、来年のRIVORA春夏コレクションのエキジビション。このジャケットですっかりRIVORAの虜となった私は、わくわくしながら出かけた。その期待は裏切られず、どれもこれも魅力的な服ばかり。また、今回から、メンズだけでなく、レディースの服も作り始めたとのこと。これもまた素敵だった。
 RIVORAの服で私が気に入ったのは、まず、デザインが大人なこと。これ見よがしの子どもっぽさはなく、奇を衒う前衛でもなく、しかし保守性とはほど遠い洗練の極み。
 以前にもツイッターで書いたが、あまりにファッショナブルなので、さほど服飾に縁のない私が着てもよいのかと、初めて見たときは腰が引けた。けれども、勧められるままに羽織ってみて、びっくり。
 ものすごく着心地がいいのだ。肌触り、体を締めつけない柔らかさ、そして軽さ。スタイリッシュなのに、楽なのだ。
 今年の冬物としては、ジャケットと手袋(これまたとっておき)だけを購入したが、次のシーズンは買い込んでしまいそう。
 おしゃれな人間ではないので、あまり服は買わず、10年前の写真を見ても今と同じ服を着ていたりする。それもあんまりだなと思い始めたところに現れたRIVORA。これを定番としてあれこれそろえることに決めたのだ。
 素材が選び抜かれ、細部まで丁寧に考えられて作られている(made in Japan)ので、安くはない。でも、このクオリティとデザインのレベルで、同等の既存ブランド製品と比べると、とてもリーズナブルである。デザインの好みがRIVORAと同系統なら、迷わずこちらを選ぶ。
 東京では、表参道ヒルズ2階に8月にオープンしたばかりの「MINDTRIVE」で、買うことができる。
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by hoshinotjp | 2010-10-27 23:18 | 身辺雑記
 最近のテーマ。「なぜ、男は上半身ハダカになりたがるのか?」
 夏休みにバルセロナに行ってきました。そこで異様に目についたのは、上半身ハダカの男たちでした。カタルーニャ人たちはむろん、夏休みゆえ訪れている大量のヨーロッパ人の観光客も、上半身ハダカ。
 確かにスペインはヨーロッパ内では南国です。日なたは暑い。でも、日本に比べれば(特に今年)、まだまだです。スペイン国内でも、40度を軽く超え「フライパン」と呼ばれるアンダルシアや、内陸性のマドリードに比較すると、バルセロナの気候は穏やか。なのにハダカマン率はバルセロナのほうが高い。
 どうしたことでしょう。抵抗の地カタルーニャでは、カウンターカルチャーが栄え、60-70年代にヌーディストの拠点となったりしたのだろうか?などと考えてしまいました。
 帰国後、友人が、「バルセロナはあまりにハダカになる人が多いので、罰金200ユーロという法律ができた」と教えてくれました。にもかかわらず、いまだにハダカマンだらけ。旅行客も、「ようし、この夏はバルセロナに行って脱ぐぞ!」と意気込んで来るのでしょうか?
 でも待てよ、よく考えると(よく考えなくても)、日本だってハダカマンだらけじゃないか! 私の属している文学業界でも、酔うとすぐハダカになる男たちというのが一定の割合で存在しています。昔は日本社会にもたくさんいたけれど(タモリや赤塚不二夫など、芸能人たちもよくそういう話をしていた)、もう絶滅寸前と思いきや、私より若い世代でもハダカマンは何人も現れ、威勢よくやってるそうです。
 さらによく考えると、私がメキシコにいた20代のころ、集まった日本人たちが酔って、何人かがハダカになっていました。侯孝賢の映画なんかを見ると、台湾ではランニングマンだらけです。タンクトップ、ではありません、下着のランニングシャツ。老いも若きもランニング一丁。高度成長期までの日本でも、割合よく見られた光景だと思います。
 手っ取り早くハダカマンを見たければ、サッカーの試合を見ればいい。ゴール裏の最もコアな地帯にハダカマンを見つけるのは、さほど難しくはないでしょう。でもやはりゴール裏のハダカマンの量は、ヨーロッパやラテンアメリカのサッカーのほうが断然多い。2002年に日本と韓国でワールドカップが開かれた際、イングランドのサポーターたちに、「日本ではハダカになる習慣がないので、公の場で服を脱いではいけません」と厳重な注意が言い渡されたのは有名な話です。
 いったい、この文化はどこから来ているのでしょう? 普遍的なのでしょうか、それともグローバル化したのでしょうか? 男子たるもの、何歳ごろにハダカになることを学んだのでしょう? 誰が教えるのでしょう? その衝動はいつ覚えるのでしょう? 私は教わったことはありません。母子家庭のせいでしょうか? 謎です。
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by hoshinotjp | 2010-09-16 00:15 | 身辺雑記
 ぎっくり腰もようやく治ってきた。まだ違和感はあるが、何とか日常生活を気にならずに送れるようになった。かかりつけの鍼の先生の治療のおかげである。
 その鍼灸院にはもう一人先生がいたのだが、先月お辞めになったという。ここ2年、私が苦しい時期を助けてくださった方である。本当に支えられた。先生の独自の癒し能力はどなたにも代え難いものがあったので、残念だけど、そんな時期だったかも、とも思う。
 お世話になりました。本当にありがとうございました。そしてこれからの活躍もお祈りしております。
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by hoshinotjp | 2010-04-30 23:03 | 身辺雑記
 世の中の連休とはまったく無関係に仕事をする。カレンダーと関係ないスケジュールが、いいのか悪いのか。
 twitterを本格的に始動させてから、ひと月ちょっとがたった。その特徴や魅力をまだいまひとつつかみかねてはいるが、何となく続いてもいる。今のところ、さまざまな情報のインデックス(ニュースの一行見出し、とか)としては有効だなあと感じているが、その程度。
 なぜ、いまひとつ魅力をつかみ損ねているのかと考えると、twitterがきわめて「話し言葉」のメディアだからではないかと思う。普段、饒舌だったり、しゃべるのが得意な人ほど、使いこなせるメディアだという気がするのだ。
 ネット上の双方向性のメディアは、「書く」という作業を使うけれど、実態は「話す」媒体だろう。ブログも本当はそうなのだが、私のように一方的に書いているぶんには、「書く」メディアである。私はいろいろな意味で書く人間で、書くかぎりはそれなりに饒舌になるが、話すのはあまり得意でない。
 twitterはブログと違って、徹底して話し言葉のメディアである。たとえ一人で勝手につぶやいていても、それは独白というか私語というか、一人での話し言葉だ。書き言葉で書いてみたが、どうにもそぐわない。
 ここで悩むのが、一人称の問題である。私は、書き言葉での一人称は「私」を使っているが、男がカジュアルな話し言葉で自分を「私」と称することはあまりない。すると、「ぼく」か「俺」あたりを選択することになるが、普段、書き言葉の人間として「私」と書いている者が、いかにもあざとく、素の自分ですよと言わんばかりに「ぼく」「俺」と書くことに、抵抗があるのだ(実際の私生活ではむろん「ぼく」や「俺」を普通に使っているけれど)。といって、IDを使って「hoshinotとしては○○だと思う」などと書くのも、鳥肌が立つ。例えばいとうせいこうさんのように、書き言葉の一人称を「俺」として定着させるとか、一人称を決して書かないとかすれば、問題は消えるだろうが、こういうとき、女性やヨーロッパの言語がうらやましく感じたりもする。
 その結果、どうにも中途半端だなあと居心地悪く感じながら、twitterでも「私」でつぶやいている。書き言葉と話し言葉の中間のような、収まりの悪い言葉で、ぼそっとつぶやいている。なので、ひと月ちょっとたってもまだ100に達していない。
 では、なぜ話し言葉で書くことに抵抗があるのかと考えると、何となくだが、それによって「キャラ」を決定されるような空気が存在するように思えるからだ。これは今の社会の中に強く働いている強制力で、それが「書く話し言葉」の世界で特に顕著に作用するように感じるのである。
「語り」であれば、芸である。それはコミュニケーションのきわめて洗練された形のひとつである。そういう「話し言葉」も、twitterではしばしば見られる。そういうものは読んでいても面白い。でも、しゃべりで決まるキャラが対人関係の評価基準という傾向は、むしろコミュニケーションとは逆方向を向いているように思う。別にtwitterが悪いのではなく、この社会に働いているその強制力が問題なのだけど。
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by hoshinotjp | 2009-11-21 22:14 | 身辺雑記
 昨日、路上に立って高松英昭写真集『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス)の販売活動をしてきました。朝9時から夕方6時近くまで、途中小一時間の休憩を挟んだほかは、ずっと立って宣伝。まあ、路上で売っている本をいきなり買う、なんて習慣は、私を含め日本にはありませんから、予約を除けば、そうそう売れるとは思っていませんでしたが、これがわずかながら売れたのです!
 といっても、私や高松の力ではなく、ビッグイシュー販売者の力。ビッグイシューの販売者と並んで売ったわけですが、地道に販売活動を続けている路上生活者にはなじみの客ができていて、その方のうちの何人かが買ってくださったのです。ありがたさが身にしみました。そして、ビッグイシュー販売者の力のすごさを思い知りました。
 新宿に始まり、信濃町、飯田橋(2カ所)、本郷三丁目、虎ノ門とまわり、途中では版元である太郎次郎社エディタスのスタッフやこの本のブックデザイナーまで参加。とても楽しかったです。まだまだこの写真集の路上販売は続きますので、ぜひ販売者に声を掛けて、できれば購入を考えてみてください。
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 実際に体験してみると、路上で雑誌を売ることがいかに過酷か、多少でもわかります。もちろん、仕事をしている人は誰でも同じぐらい大変な労働をしているわけですが、その労働で得られる対価を考えると、路上生活者の仕事はまだまだ報われていないなと思います。これは、路上に出るしかなくなっても、経済的にそして精神的(人とのつながりが持てるという状態)に生きていられるための、最低限のセイフティネットです。でもビッグイシューを買ってくださる人たちがこれだけいるのを実感して、そのセイフティネットへの理解がここまで浸透してきたのだなあと感じました。私もその理解を最近得たばかりなわけですが。
 ただ、路上でビッグイシューを売るという形態は、路上生活者への自立支援というだけではないと私は思っています。唐突ですが、ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんは、自主制作でドキュメンタリー作品を作り、それを上映希望者の招きに応じて全国(まさしく世界中どこでもという意味での全国)どこへでもおもむき、自らも立ち会って自主上映会を開くという、商業映画の流通とまったく無縁のやり方で、作品を公開しています。そしてこれは失敗するどころか、ものすごい規模で広がりを見せています。これが、現在のグローバル化された商品流通システムをなし崩しにしうるやり方であることを、私は強く感じています。この方法がメジャーにはならないだろうけれど、一定の割合で広がれば、勝ち組負け組の構図が成立しにくくなるのではないかと思うのです。
 ビッグイシューの流通形態には、岡村さんの自主制作自主上映会方式にどこか通ずるものを感じています。だから、路上生活者が社会復帰する場となり得るのではないか。どちらも、損得勘定からは解放された、小さなコミュニティがそこに成立しています。そしてそのコミュニティに参加していることに、参加者が充実を感じています。今苦境にある出版および文学は、このことを少し考えてもいいのではないか。真似をするというのではなく、ここにある世界観、物事を捉える感覚から、状況打開のために学ぶことがあるのではないか。そう思うのです。
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by hoshinotjp | 2009-06-02 23:09 | 身辺雑記
 新しく麦芽100%になったキリン「一番搾り」を飲んでみた。
 旨い。
 これはプレミアムモルツに本気で対抗しようとしているビールだ。私は今のところまだプレモルの味のほうが好きだが、第2の定番となりそう。まあそんなにビールを飲むほうではないけれど。値段はプレモルより安いので、厳しい争いが展開されて、プレモルの値段も下がったりしないかな。

 ブログのデザインを変更。桜の写真は月曜日の満開時に近所で撮ったものです。
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by hoshinotjp | 2009-04-07 23:21 | 身辺雑記
 近所のスーパーで買い物をしたところ、鮮魚売り場に次のような貼り紙が。
「広告でお知らせしていましたアジは、近海での漁獲量激減のため、本日入荷できませんでした。このため中止とさせていただきます」
 いつもの特売であれば、発泡スチロールに氷が入って、獲れたての刺身用アジが120円とかで売っている。けれどこの日は、冷凍イカのみだった。
 このお知らせを見るまでもなく、この1、2年、近海のアジが高くなっている。これまでなら困ったときのアジの干物だったのに、いまやとても小さい干物が2枚で300円したりする(エボダイも同様)。たまに大きめのものがあると、ほぼ間違いなくオランダ産。刺身にせよ、塩焼きにせよ、干物にせよ、アジやイワシを大好物とする私は、とても悲しい。
 マグロの例を考えるまでもなく、海産物は緊急的な危機に瀕している。もはやアジまでもかと考えると、養殖どころか、生き物の肉を食べられない日が、私の生きている間に来るかもしれない。つまり、合成タンパク質で栄養を取るような日が。人間は今や、明らかに地球の規模を越えて生息している。
 海産物危機の衝撃的なリポートととしては、ブルース・ネクト著のノンフィクション『銀むつクライシス』がスリリングな展開で、面白かった。
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by hoshinotjp | 2009-04-02 23:01 | 身辺雑記
 先週末は花粉のない土地へ逃れていた(案内してくださった方々に深く感謝しています)。帰りの飛行機が着陸するときは、まるで腐海に突っ込んでいくかのような気分になり、飛行機の中でマスクをした。たちまち意識が朦朧とする。
 この異様な暖冬のせいで、ブルーベリーが2月末に花を咲かせ始めてしまった。本来は4月ごろの予定なのだ。3月の前半は寒くなったので、蕾のまま中休みだったが、ここ数日の暖かさで開花ラッシュとなっている。困ったのは、ブルーベリーは自家受粉しにくく、異なる品種間で花粉のやりとりをしなくてはならないのだが(わが家のは「ブラッデン」と「ケープフィアー」)、ブラッデンだけ先に咲いてしまったことだ。仕方なくケープを2週間ほど家の中に入れて、何とかブラッデンに追いつかせた。今は両方がちょうどよく咲いている。ただ、マンションのため蜂が来ないから、毎日、私がせっせと刷毛で受粉させるという手間がかかる。去年、青い実が付いた状態で購入した株なので、今はまだ試行錯誤だ。
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by hoshinotjp | 2009-03-20 22:06 | 身辺雑記
 8日ぶりの快晴(関東南部)に強い北風で、杉花粉が猛威を振るう。私にとっては粉の台風が上陸したようなもの。恐ろしくて外へ出られない(こういう時は、引き籠もっていられる仕事でありがたいと思う)。重度杉花粉症の私は、この季節になると、ぐずついた雨模様の日よりも、晴れた日のほうが憂鬱になる。だから先週は、マスクもつけずに安心して外出できる日が続いて、気が休まった。今週もこの先はずっと雨か雪が続くそうで、お出かけ日和、「好天」の毎日を歓迎したい。
 去年も愚痴った気がするが、この無策、どうにかしてくれ。杉林を広葉樹などに植え替えると成長まで20年かかり難しい、とはよく言われることだが、私は杉花粉症歴20年以上である。あのころ植え替えていればどれだけ杉が減ったことだろう。目の前の改善だけ考えずに長い目で対策を立ててほしい。
 先日、ananで『水族』著者インタビューを受けたのだが、顔なじみのインタビュアーである瀧井さんに、「何だか、毎年寒い時期にインタビューしている気がするんですけど」とご指摘を受けた。実際その通りで、要するに私は冬に新刊を出すことがとても多いのだ(特に年明け)。意図しているわけではまったくなく、おそらく文芸誌の担当編集者に「年明けにはもう取りかかります」と約束して、春にせっせと書き、初夏に文芸誌に掲載されて、単行本化されるのがその半年ぐらい後、というサイクルに陥っているせいではないかと思う。このため、頭が朦朧としているからできれば仕事を避けたいと願っている花粉症の季節に、根を詰めて執筆するという結果になる。今年もしかり。来年の目標:この「輪廻」から解脱すること。
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by hoshinotjp | 2009-03-02 23:05 | 身辺雑記