カテゴリ:社会( 74 )

 京大入試のカンニングについて。
 対応の難しい問題だと思う。
 法的には、カンニングは犯罪ではないと私は思う。犯罪だとする法解釈は、強引すぎる印象がある。だから、逮捕もおかしいし、さすがに起訴はされないと思うけれど、逮捕後に被害届を出す京大以外の大学の姿勢もおかしい。私は、カンニング者が特定された時点で、警察は手を引くべきだったと感じている。その後の事情の調査は大学側に任せれば十分で、処分や手口の詳細は、大学がしかるべき時期に会見で発表すればよい。その人の情報を警察がメディアに広報するのは、どう考えても行きすぎだ。そしてだいそれた犯罪であるかのように報じるメディア。もはやバッシングと化している。であるがゆえに、カニングした人の精神的なケアも必要だが、それを逮捕の口実にするのもおかしい(そのような報道を読んだ)。
 では、特定されるまでの過程はどう判断すればよいのだろう? どの立場に立つかで、この判断がまったく違ってくる。
 発覚して公に知られた以上は、カンニングを犯した者が特定され、合格を取り消されなければならない。これができないと、カンニングはやった者勝ちとなり、入試は崩壊する。
 今回は、プロバイダが持つ個人情報があればその特定が容易となるため、大学側は警察に訴えた。私は、大学側の努力だけで今回のカンニング者を特定するのは不可能に近かったと思う。だから、プロバイダに個人情報を求めるのはやむを得なかった。そして、現状のルールでは、それは警察にしかできない。
 もちろん、警察が介入すればプロバイダが持つ個人情報が提供される、ということ自体に、疑問は大いに感じている。だから権限の歯止めが必要なのだけど、それが曖昧で、ケースバイケースの形をとりながら、前例を作る形で警察の権限が拡大しているのが現状だ。
 ネットの時代になって匿名性が格段に増している以上、その匿名性を利用した不正に対しては、その不正で被害・損失を被った側に不正を犯した者の個人情報が明かされるのは原則的にはやむをえないと、私は思っている。そのためのルールが必要だが、存在しないから、いたずらに警察を頼ることになる。その中には、そうして明かされた個人情報を、別の目的に使用するのは厳しく制限する事項も含まれるべきである。この兼ね合いが難しいことが、個人情報の取扱をめぐって混乱し続ける原因だろう。モラルを明文化しろ、と言っているようなものなのだから、解決のつく話ではない。
 一方で、今日あたりから問題視され始めているのが、「大学が入試をきちんと監督していなかったのではないか?」という点である。今回のカンニングの状況を始め、当然、検証されなければならないとは思う。
 だが、この点については、小中学校で問題化している、「教師が堕落しているのか、親がモンスター化しているのか」という議論と似たものを感じる。どちらも、間違ってはいない。どちらかに責任転嫁することはできないと思うのだ。カンニングをする側が悪い一方で、大学の意識が現代についていっておらず、対策が後手に回っているようにも感じるのだ。
 今の大学の教員は、小中学校ほどではないにしても、大学生の質の変化により、以前では考えられないほど学務に忙殺されている。親への対応を強いられる度合いも、格段に増している。大学の教員は、学生への教育を担うだけでなく、研究というのも大きな仕事である。だが、こんなに忙殺されて、まともな研究などできるのだろうか、と思わざるをえない。研究の質の低下は、日本社会の知的な蓄積の低下であり、やがてはあらゆる分野でのレベルの低下を招く。日本社会の豊かさは、この方面に負うてきたところが大きいのだから、これが低下することは、社会の劣化でしかない。入試だけでも、年に複数回行われるAO入試、推薦入試、本番の入試、それぞれに試験作成や面接実施、判定会議と、大変な労力を割かれている。大学は今では年中入試を行っている。結構限界に近い状態だと思うのだ。なので、「大学がいい加減なのであって、もっと試験監督を増やしてしっかりやれ」と言うのは、現場の実情を知らない言い分かもしれないとも思う。これもバッシングと化しそうで、嫌な気分である。
 加えて、このような不正に、「監督強化」というだけでいいのか、そのあたりも本当は疑問を感じる。それでは、テロリストがいるのだから空港での監視強化は当たり前、という議論と同じではないか。
 大学が後手に回ったと感じるのは、一般的に、日本の大学がITに弱すぎる点である。教育を見ても、学生に、これから起訴として必要なITの知識、スキル、考え方を教えることなど、まるでできていない。全般として、大学の教員のうちの権限を持っている層は、ITを理解しないどころか、敵視する傾向がある(特に文系)。一部の若い層だけが、ものすごく詳しい。この格差とアンバランスが、大学をして今回の不正をワケのわからぬ恐怖として感じさせ、パニックを起こさせた要因の一つではないか。
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by hoshinotjp | 2011-03-04 12:49 | 社会
 作家、学者、評論家、ジャーナリストといった言論人がメジャーになったときに陥る罠がある。
 言論人がメジャーになるということは、その発言を多くの人が注視していて一定の影響を受けるということであり、いわば、一人の人物が一個のメディアとなることを意味する。そして現在ではインターネットやデジタル技術を使えば、文字通り一個人がメディアとなれるわけだから、メジャーな位置にいる言論人は、小さなマスメディアである。
 誰もが個人としてそのままメディアになれる時代であるとはいえ、メジャーな言論人と、無名の一般人ではその規模が違う。メジャーな言論人は、その発言力において「マス」メディアであり、ちょっとした権力を手にしたと言える。そして、その権力性が、罠なのである。
 多くの言論人は、自身が言論活動を始めた無名な時代には、その発言が強いマイナー性を帯びていたはずだ。人の目に触れない現実や情報や考え方を、何とか人の目に触れさせようともがいただろう。無力だからこそ、言葉にしようとしたのだろう。
 罠とは、メジャーになって、自分の発言に耳を傾ける人が増えたにもかかわらず、マイナー意識をそのまま持って発言するケースである。マイナー意識にはどうしても、被害者意識に起因する攻撃性が含まれることが避けられない。顧みられないマイナーな立場の者がその存在を主張するには、ある種暴力的な力を借りないと、アピールできないからだ。その力を借りないと、依然として無視され存在はないままだからだ。だから私は、マイナーな言論に含まれるある種の攻撃性は、過剰にならない限り、やむをえないと感じている。
 だが、メジャーな位置を確保した言論人が、依然として過剰なマイナー意識にかられて、攻撃性を含んだ言葉を繰り出してたら、どうなるか? その人にはすでに、個人メディアとして発言力があり、権力がある。その人の攻撃性には、言論に耳をかたむける者を煽動するいかがわしさが生じるだけでなく、弱者を抑圧する結果になることもある。だが、自分がマイナーの側にいるという意識をいまだに持っているものだから、自分の言論の権力と抑圧性に気づかない。本人は、かつてと変わらない姿勢を続けているつもりなのに、外から見ると、「あの人は変わった。偉くなったら抑圧的になった」と映ったりする。
 さらに、言論業界の「業界人」の一員に迎えられることによって、それまで自分がその立場にいたはずのマイナーな人々から離脱してしまうケースもある。自分のメジャー性を確保し、さらにそれを拡大することが目的となってしまい、当初の、人の目に触れない現実や言葉を伝えようという目的と、入れ替ってしまう。「状況を変えるために発言する」が、「力を得ることが変えることだ」となり、得た力を失わないことにばかりかまけてしまう。その結果言論は、自分のメジャー性を見せつけ、権力を維持することに使われる。当初の意志をすっかり裏切ってしまうのである。
 こうなると、その言論がどれほど過激で影響力を持っていても、それは現状を維持することにしか加担しなくなる。言葉の見せかけはマイナーなようでいても、作りだす文脈がメジャーだからだ。言っている内容は悪くないのに、どうもあの人は信用できない、という感じを抱いたりすることがあるのも、そういうことだ。言論が本当にメジャーの暴力を打ち破り、マイナーの存在を肯定させられるようになるのは、言葉面ではなく、文脈と心根の問題なのだ。
 言論の業界にいると、そんな人をいろいろと見ることになる。それはそれで悲しいことだ。こないだの東京マラソンに喩えるなら、才能はあるのに「のうのうと飯を食っている」実業団のランナーを見るような気持ちかもしれない。言論人は、川内選手のようであり続けなければいけない。
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by hoshinotjp | 2011-03-01 11:38 | 社会
 ツイッターを本格的に使うようになってから1年ちょっと過ぎたが、次第に意義の感じ方が変わってきた。
 去年の前半ぐらいまでは、大手のメディアに流通しない・大きく取り上げられないような情報を、さまざまな人の解釈とともに知ることができるのが、最大のメリットだと思っていた。さらに、その速報性、驚異的なスピードでの伝播力、いずれも、情報独占のヒエラルキーを崩す破壊力であり、その点にも魅せられていた。
 だが、昨年の秋あたりから、情報発信の独占というヒエラルキーが崩されていることに気づき始めた。
 ちょうど1年前(1月12日)、ハイチで大地震が起こった。ツイッターを通じて、報道陣に限らず、一般の人たちから次々に世界中へ情報が流され、ハイチ出身の著名人らが募金を呼びかけ、たくさんの支援があったことは、記憶に新しい(かな?)。ツイッター上では、クリックすると1円寄付されるというサイトが、このときに登場した(ように記憶している)。
 そのとき私が夢想したのは、被災者たちのナマの声がもしツイッターを通じて届いたら、ということだった。YouTubeでもUstreamでもいいのだけど、やはりツイッターのナマの声ほど持続的でリアルでメッセージとして伝わりやすいものはない。
「ライフリンク」の清水さんはよく、「声なき声に耳を傾けたい」と言っているが、私が最近感じているのは、この「声なき声」がツイッターを通して聞こえるようになってきている、ということだ。これまでその存在が一般社会の目に触れることもあまりなく、存在を示したところでちまたの視界に入ってこないような、マイナーな位置にいる人たちが、ツイッターで自分の日常をぽつぽつとつぶやいているのである。
 そんな人のリツイートなどをたどっていくと、何とさまざまなマイナー性を持った人たちが、つぶやき始めていることか。セクシュアル・マイノリティ、路上生活者、失業者、難病者、外国籍の人、犯罪被害者、その他書き上げきれないほど。その人たちが、それぞれの日常の喜怒哀楽、日々考えざるを得ないこと、人生観など、当人にとっては普通のことが語られていく。身近にいるのに私が知らなかった何らかの当事者、声を出しても聞き取られることのなかった当事者の声が、ツイッターだとどれも同じ大きさの声として聞こえてくる。目に入ってくる。
 私の持論では、誰もが何かしらの当事者である。どんなに平凡だと自分で思っている人でも、ごく普通だと思っている人でも、何かしらのマイナー性は持っていて、つまりそれを他人と共有するのが難しい箇所を何かしら持って、生きている。ただ、マイナー性の部分が小さいので、日ごろは気にしないでいられるのだ。
 マイナー性の部分が大きいと、それを見ないで日常を過ごすのは難しくなる。生きるうえで、マイナー性を、共有されないなりに理解される必要が生じてくる。そのための努力は、それはもう大変なエネルギーと労力を要する。なぜなら、声はなかなか届かず、聞かれないからだ。
 ツイッターは、この壁を突破しうる、強力なメディアだと私は思うのだ。
 こんなにたくさんの、さまざまな当事者の日常を語る声を、毎日、いっぺんに読み続けるなんて、初めての体験である。正直なところ、私の意識の奥のほうで、世界観が変わりつつある。自分が生きている社会のイメージが、具体的に共存しているさまざまな人の日常を知ることで、激変した。マイナー性を抱えるいろいろな当事者の、日常を語る声を読むというのは、その人たちの訴えや主張を聞く以上に、こちらの意識を変えるだろう。それぞれの立場の人にとっての「普通」や「日常」を知ることこそが、共有しきれないなりに理解することの鍵だと思う。
 もちろん、ツイッターは端緒にすぎない。それでわかった気になるような安易さは避けねばならない。それでも、隣人や友人であるかのように、その声に親しみを持って接し続けるというのは、画期的なことだと思うのだ。
 ただし、これを毎日たくさん読んでいると、いつの間にか仕事の時間がなくなっていたりする。それで、最近はほどほどに抑えるようにしているが。
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by hoshinotjp | 2011-01-12 23:55 | 社会
 権力は、金・暴力・人事という形で現れる。
 暴力を管理しているのは国家(のみ)で、例えば会社の中などでは暴力による支配は一応、成り立たないことになっている。けれど、家庭内など小さな共同体では、それが大きな権力の源泉となったりする。DVや幼児虐待など、アビューズがそれである。
 会社など、公共の組織の場合は、金と人事が権力を作る。予算配分を決める権限と、人事を決める権利である。人事については、人間関係の事情通であることも、権力を生む。
 日本社会の特徴は、この「人事」による権力が異常に肥大していることである。昨今の既存のメディア報道を見ていると、ほとんど人事の話ばかりだという気がしてくる。自民党政治は基本的に人事政治だったが(派閥だとか族議員だとか)、適材適所を掲げ、政策の側に重心を傾けるはずだった民主党も、今や完全に人事政治にハマっている。小沢問題がその大きなきっかけだった。だが、民主党の政治が人事政治へと落ちて行っている原因には、かれらの未熟さと同時に、この政治を見守っている有権者、そしてメディアの関心が人事ばかりに集中している、ということも大きい。
 海老蔵問題の呆れるほどの報道が落ち着いたのは、大桃美代子の話が飛び出したからだった。芸能情報というのも、一種の人事情報である。芸能ニュースがどんどんふくれあがっているという気がするのは、日本の世がますます人事社会化しているせいでもあろう。
 人事社会のなれの果てとは、いじめ社会である。理由なき力関係の序列だけをひたすら気にする社会。20代の若い人が書いてくる小説(プロでアレアマチュアでアレ)に、学校内の微細な序列とそれに怯え続けるサバイバルが描かれたものが非常に多いのは、そんなグロテスクな人事社会が極まっているからだろう。
 人事社会は、業界社会とも言い換えられる。あらゆる集団や組織、コミュニティが、業界化している世の中。学校でさえも。業界の中では、キャラを立てることによってようやく居場所が与えられる。そのキャラは、極端なフィクションである。キャラは他人のものであって、自分のものではない。つまり、自分のものではない人生を生きねばならない。仕事として。
 どの世界でも人事社会の要素は必ず存在しているが、自分の生を放棄せねばならぬほどに人間関係だけが存在理由になる今の日本社会は、行き着くところまで行ってしまっている。
 他人のことは気にしない。他人の存在を自分の存在の前提にしない。これらの姿勢は、今の日本社会で、社会生活を営む上で最も難しいことである。他人を前提にしている限り、自分が責任を取る主体になることができないのは、当然である。自分はそれに与しないという態度を取る人が増えれば、自然に解消されることなのだけど、そういう態度を取ることが極めて困難な社会なのだ。
 来年とは言わないが、強まり続けるこの傾向が、いつか飽和して弱まらんことを。
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by hoshinotjp | 2010-12-31 22:22 | 社会
 柳田法務大臣の、聞いた自分が愚かにさえ感じられるほど馬鹿げた発言。あのような発言が生まれる背景を考えるに、「ウケを狙いたい」というメンタリティが異常なまでに肥大した社会であることが関係しているような気がする。
 ウケを狙うと言っても、何でも笑いに変えてしまう芸人の精神を指しているのではなく、象徴的に言えば、「1980年代的なメンタリティ」となろうか。笑いを取れる者は「ネアカ」とされてもてはやされ、その笑いを共有する・しないで線引きが行われ、笑いを取れない者・笑いを共有できない者は「ネクラ」とされる風土である。
 じつはこれは、小学校や中学校の教員と生徒の間で、非常にわかりやすく機能している。「セクハラさいころ」事件だとか、特定の生徒をいじめ的にからかうような教師の言動や、非常識な例を試験問題にするなどといった事例が相次いでいるのも、この風土の力ではないかと私は思う。それ以前には予備校のカリスマ講師にこのタイプがゴロゴロしていた。つまり、聴衆のウケを取ることで、その集団からもてはやされたいのだ。
 集団の中で笑いを共有できないという事態は、その人に恐怖をもたらす。マイナスの意味で目立つため、いじめ的な目線の対象になりやすいからだ。だから、たいていは無理して笑う。そしてその次の段階として、同調して受け入れられるために、心にもない冗談を放言したりする。「笑いを取れる者」というレッテルは、たんに集団内の人気者というだけではなく、日本社会では社会的地位にまで関係してくる決定的な評価基準なのだ。
 この態度が身に染みついてしまった結果が、「セクハラさいころ」であり、「法務大臣は二つの形式的で無内容な答弁だけしていれば済むという楽な仕事」という「ジョーク」(のつもりだろう本人は)なのではないか。それが大臣の職務にある者(しかも法務!)の口から出るのだから、いじめなどなくなるどころか、苛烈になる一方なのは当然である。
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by hoshinotjp | 2010-11-17 23:17 | 社会
 ライフリンク主催の「メメント・モリ」というイベントに行ってきた。20代30代の自殺率が増加を続けている現状を受け、何となく苦しさを抱えていたりする若い人たちが集まり、「死」をカジュアルに語り見つめられる場を作れたら、という思いで、ライフリンクの若者や大学生のサークルなどが立ち上げた企画だ。手探りなので、最初はぎこちないところもあったが、その思いは立ち見まで出るほどの会場中で共有されていたように感じた。
 ゲストとして語ったのは、女優の松田美由紀さん、二人組のミュージシャン「心音(しのん)」、桂城舞さん(「あのねの会」代表、自死遺児)。当初予定されていた内藤佐和子さん(難病東大生 著者/株式会社Yasasee代表取締役)は、体調を崩されて参加されなかったが、すばらしい文章を寄せてくださった。
 いろいろと心に響いた言葉はあったのだが、私に最も印象的だったのは、「主体的に動くことに関心がない/どうしたら主体的に動けるのかわからない若者に、どうしたらその楽しさを伝えることができるのか」という質問が、大学生から出たときだった。ライフリンクの清水康之さんが、家庭や学校で、同調し期待に応えることしか強いられてきていない人たちが、どうしたら主体的に生きればよいのかわからないのは、当然とも言える、と、現在の同調圧力が強烈な環境を説明しつつ、その中で何ができるのか、ゲストにひと言ずつ意見を求めた。
 桂城舞さんの答えに私は思わずうなずいた。「答えがないなら自分で探すべき。その方法としては、きらきらした大人のもとへ行け」。裏を返せば、「きらきらした大人」が身近にいないから、若い世代は主体的に生きる生き方を知らない、ということになる。つまり、「きらきらした大人」とは、主体的に生きている大人、である。子ども社会に登場する大人に、自分の意思を基準に生きている大人があまりにもいないのだ。モデルケースがないから、知らないだけなのだ。だったら、モデルケースを待たずに自分から探して、それに接すればいい。そして探せばモデルケースは存在している。桂城舞さんは実体験から、そう言っているのだ。
 女優やミュージシャンという、いわば自分の身を頼んで生きるゲストの方々には、そのようなモデルケース、あるいは自分の主体を認めてくれる大人が、存在していた。そのことが、身近な人の死を始めとする喪失体験を、正面から受け止める力を用意してくれた。私にはそのように見えた。特に、体張って生きている女優の生命エネルギーには圧倒された。これは松田美由紀さんのみならず、私が接したことのある女優さんに共通している。
 こういう話を若い人同士で気軽にできる場が、普通に存在すればいいと思う。そういうモデルケースに、このイベントはなっていたのではないだろうか。これが若い人たち自身の手作りであることに、私は楽観的な気分をもらった。
「メメント・モリ」はこの日が初回。第5回まで予定されています。
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by hoshinotjp | 2010-08-13 01:26 | 社会
 NHK特集「無縁死」を見た。東京新聞では「介護社会」という特集を長らく組んでいて、今連載中の第4部「百万遍の南無阿弥陀仏」が、老母の介護に追いつめられた息子の孤独を描いている。この記事は毎回、心を激しく揺すぶられて、平静な気分では読めない。まるで自分のことのように、胸に痛みを感じる。さらに、ちょうど上野千鶴子『男おひとりさま道』を読み始めたところだった。
 十年ぐらい前に私は、自ら選択したにせよ、やむを得なかったにせよ、これからも一人で生き続けるであろう中年期の男が、どうしたらよりよく老いていけるかを、『毒身』という小説を書きながら考えた。私のまわりに、そのような覚悟を決めようともがいている男たちがたくさんいたからだ(現在では、私を含め、その半数ぐらいは家族を築いたり、誰かと共同生活を営んでいるけれど)。
 そのとき考えた答えの一つは、疑似家族である。独り者の男が集まるだけでなく、いわゆる一般的な家族像から外れた男女子どもたちが集い、緩やかな共同生活を送れる場を思い描いてみたのだ。そのイメージの原型としたのは、メキシコで貧困層が住む地域の共同性である。メキシコ人らは思いきり迷惑をかけ合いながら生きるので、そのような関係性は日本社会では難しいが、それを薄めた、軽い迷惑を少しずつかけ合うような小さな共同体なら可能だし、必要だろうと思ったのだ。もちろん、そのような疑似家族には影の面もあるが、それ以上に、一人で生きるためには、絆やつながりの感覚が欠かせない。
 もう一つ、一人で、特に男が一人で生きるために必要なのは、権力を捨てることである。既得権益層から降りることである。いわゆる「男のプライド」を捨てること、と言い換えてもよい。さもないと、弱い自分を受け入れられず、だから他人にも弱さを見せられず、いかんともしがたい孤独に陥ることになる。疑似家族を築くためにもっとも必要な態度は、男の常識を捨て、人間として責任を取れるようになることである。
 このテーマは、3万人を越え続ける自殺とも密接に関わっている。生活の苦境が、なぜ自殺へ至らねばならないのか。そこには、絆の切断が深く関わっているからだ。
 孤立へとばらばらにされていく傾向が強い世の中にあって、どうしたら、表面的ではない絆を築けるのか。また、その絆を、人生80年以上の時代に、長く維持するには、どうすればよいのか。そのカギはやはり、「権力」と「プライド」をご破算にすることにあるだろう。
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by hoshinotjp | 2010-02-03 06:07 | 社会
 ツイッター、リストの怪。
 自分のツイッターでも他人のでもよいのですが、ブラウザでツイッターを表示させてみてください。右のコラムに、フォローされている数字が示されていますね。その右には、「リスト」の数字が表示されています。その二つの数字を照らし合わせてください。例外もありますが(巨大な数のフォロワーがいる人など)、おおむね、「リスト」の数字は「フォローされている」の数字の1割ほどになっているでしょう。
 いろいろな人のケースを見れば見るほど、これがまあじつにきれいに1割になっています。誰の命令でもないし、ツイッター界の住人たちが示し合わせて1割を維持しているわけでもなく、自然とこうなるのです。不思議です。
 ひょっとして、これが「集合知」の正体なのかもしれません。この「1割」という現象には意味はありません。その理由を一生懸命考えても、たぶん、正解を見つけることは無理でしょう。ものすごく細かな原因が複雑精緻にからみ合い、かつ偶然が加わっているのだから。
「集合知」自体にはもしかしたら意味はないのかもしれません。そこに意味を見るのは、人間の文化だということになります。だから、集合知はおおむね正しい答えを導く、と信じるのも、そんなことはありえないと懐疑的になるのも、性善説と性悪説どちらが正しいかと議論するようなもので、人間はどちらでもないしどちらでもあるし、そのことを考えるのが人間の文化なのだ、と思います。
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by hoshinotjp | 2010-01-28 19:39 | 社会
 ハイチの地震が気になって仕方がない。ちょうど同じころ、Googleが中国での検閲を解除し、「天安門事件」などを検索すると中国内でもサイトがヒットするようになっていた。そして、google.cnでこんなのまで検索できているという例で、天安門事件での遺体の写真がたくさん掲載されているサイトが示されていた。
 それは一年前にガザが攻撃されたときの写真や、さらに一、二年前のジェニンの虐殺の写真、原爆投下後の広島の写真などとそっくりだった。つまり、戦場の実態の写真だった。
 ハイチの地震でまず想像したのは、そんな光景だった。放置されているに等しいと言っても過言ではないインフラの都市で、阪神淡路級の大地震が起こったのだ。その壊滅の度合は、都市を徹底爆撃されたのに等しいだろう。木造建築は少ないから火事の被害は阪神淡路ほどではないかもしれないが、がれきに埋められている割合は高いだろう。斜面をびっしりと埋め尽くすバラックのスラム街は、街ごと地滑りして土に帰ったという。
 とりあえず、各国の支援や人々の募金により、当面の資金は集まるかもしれない。だが、問題は、迅速にそれらを生かすのが難しいことだ。インフラも万一の備えもきわめて貧弱な都市では、被災地に水を届けることだけでも困難を極める。迅速に対応できなければ、それだけ死者は増えていく。
 私はここ数年、日本社会を目に見えない戦場として考えてきた(そしてそれを「無間道」「俺俺」といった小説に書いている)。平和に日常が送られているように見えて、他国との戦争でも内戦でもない、得体の知れない戦争が進行しているのが、この社会なのではないか、と。それを、目に見える形にしてみたら、とても正視できないようなことが起きているのではないか。その氷山の一角が、3万人を越える自殺者が11年も連続しているという事実だ。ハイチの地震は、死者5万人とも10万人を越えるとも言われている。その数字と比べると、3万人の自殺者という事実がどれほどおぞましいか、少し実感できる。
 ハイチの地震は、脆弱なインフラ、災害時の対策の手薄さにより、その被害の拡大は人災によるものだと言える。この人災は、ハイチという国家だけが負うものではない。アフガニスタンがああなったように、そこには、世界からの無視という要因がある。無視が人災を招く。日本社会の自殺の多さも、かれらが目に見えない存在になっているせいでもある。
 日ごろからボランティアで災害救助に関わるといった訓練をしているわけでもないのだから、せめてハイチに関心を保ち続けようと思う。
 ちなみに、昨日の夜9時のNHKのニュースでは、「小沢氏周辺家宅捜査」翌日の政治状況、がトップニュースだった。10分以上もかけて、何も大きな進展のないことが報じられた。明らかに価値判断がおかしい。地震大国として、ハイチ地震がトップで報じられるべきではないのか。政府の対応と合わせるように、鈍く、内向きだった。もしこれがロスやサンフランシスコで起きた大地震だったら、NHKもトップにしただろう。東京新聞は、昨日の夕刊も、今日の朝刊も、ハイチがトップである。
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by hoshinotjp | 2010-01-15 11:56 | 社会
 ツイッターを始めてから3か月。ようやく最近、面白くなってきた。フォローする先を、自分の友人知人、必要な情報をもたらしてくれるサイト(主にラテンアメリカの社会政治情報、日本国内の政治情報)、それに、私が知らない分野の人たちに限ったところ、急にタイムラインを読むのが楽しくなったのだ。フォローしてくださる方たちも、文学好きが多いのだが、なかなか千差万別で、こちらからフォローし返しはしないけれど、ときどき拾い読みするのが楽しい。本棚からランダムに本を取り出してランダムなページを開いて読むのが楽しいように。
「業界化」するのが嫌いなので、自分の属している業界のにおいが強いつぶやきはあまり読まない。文学についてのつぶやきならいいのだけど、文学業界の人事情報的なつぶやきは、まるで自民党時代の政治情報みたいで、うんざりする。文学に限らず、政治でも、映画でも、社会活動でも、その手の内輪の情報で盛り上がっているつぶやきは避けるようにしている。ここで言う「業界」とは、その内輪での情報を共有することで特権意識を持ち合うような集団のことである。日本社会全体がどことなく業界化していて、例えばランキングが全盛であることや、人気の集まった商品はさらに爆発的にヒットする、といった現象も、自分も「業界」から漏れてはいけないという焦りみたいな意識と関係しているように思う。
 ともかく、面白くなってくると、ツイッターというメディアのプラスの面も多々、感じられてくる。中国政府が厳重にツイッターを禁じているのは、このメディアの威力をある意味で示している。
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by hoshinotjp | 2010-01-14 22:37 | 社会