カテゴリ:社会( 74 )

 ブログ更新が少なくなっているのは、ツイッターをしているせいではなく、連載小説の終わりが近づいてきて、執筆で手一杯になっているから。そもそも、それほど関心があったわけでもないツイッターを始めたのも、部屋に籠もってパソコンの前にいるのに小説は書けないでいるという状態に耐えられず、ともかく気を紛らわせようと手を出してみた、という逃避行動の一環だった。だから、連載の終わっていない現在、依然として今ひとつ意義を見いだせないのに、何となく続けてしまう。
 このところ集中して考えているのは、そして現在書いている小説のテーマともなっているのは、依存、自尊感情(の低さ)、オタク的文化といったこと。日本がアメリカに次ぐポルノ超大国であることは、依存の度合いが著しい社会であることと無縁ではないだろう。依存がこれほど深刻なのは自尊感情が損なわれていく一方であることが大きな要因だろう。ポルノ超大国であることと優れたオタク文化の発祥地であることとは同じ根っこを持っているだろう。
 私も執筆に行き詰まるたび、ツイッターだけでなく、あれこれのネットにハマり、軽い依存状態に陥る。近代化された社会で生きるためには、誰もが程度の差はあれ依存症と無縁でいられないが、やはりこれでよいのだろうかという思いは強まるばかりである。
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by hoshinotjp | 2009-12-07 12:17 | 社会
 前々から思っている、大麻について。
 大麻はどの程度、体に毒なのか、と考えると、タバコとどっこいどっこいという気がする。肉体をむしばむという意味では、タバコのほうが毒性が強い面もあるかもしれない。中毒性もタバコのほうが強いだろう。
 精神に及ぼす影響、つまりその譫妄の程度はどのくらいか? これはアルコールとどっこいどっこいではないか? 大麻というと、麻薬的な心神喪失や幻覚が引き起こす暴力などがイメージされるが、アルコールだって強い酩酊状態にある場合は、記憶をなくし、人によっては相当な暴力を引き起こす。依存性の強さも、そう変わらない気がする。アルコール中毒ともなれば、廃人にいたることもある。
 要するに、「体に悪い」「健康を破壊する」という理由だけでは、本当は大麻だけを特別視するのは難しいような気がするのである。それなのに、大麻が特別に法律を作られてまで禁止されているのは、なぜなのだろうか?
 アルコールの場合、ストレスからの逃避として依存し、中毒にいたるにしても、そこで行き止まる。アルコールから始まって、さらに強力な薬物へ進むことは、一般的にはあまりない。
 大麻が問題となるのは、大麻の先に、依存性や精神破壊の度合いがずっと強烈な薬物が待ち受けていることだ。ストレスから大麻へ逃げると、そこでとどまらずに、覚醒剤などへ進むコースが、供給する側によって用意されているわけだ。そこにハマると、アル中よりも深刻な破壊にいたってしまう。それらの精神破壊が社会にとってなぜ脅威なのかは、アヘン戦争時の中国社会を参照すればわかるだろう。社会自体が、麻薬を供給する者たちへ依存することになるのだ。
 つまり大麻は、麻薬への入り口だから、厳しく禁止されていると考えるべきである。健康のためではない。健康のためだというのは、統治する側のレトリックでしかない。
 社会によっては、大麻が個人のたしなむ範囲で許容されている場合もあるが、依存症が百花繚乱となっている日本社会の現状を見る限り、私は禁止されてもやむを得ないと思う。今の日本社会は、より深刻な依存へ陥ることを、かなりの人たちが潜在的に欲求しているような社会なのだ。
 タバコも大麻もコカも、元はアメリカ大陸の先住民文化のものだった。それらは宗教的な儀式や加持祈祷のために、厳格な規律のもとで使用された。依存するための薬物ではなかった。それらを、依存をもたらす「麻薬」に変えたのは、人間中心の世界観を持つ近代主義である。近代の価値観は、その根本に依存症が組み込まれていると言ってよい。
 何かに依存をしないと成り立たない自由とは、一体、何なのだろう。
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by hoshinotjp | 2009-11-16 23:34 | 社会
 平成天皇が即位して20年ということで、昨日、記者会見が行われたのだが、次のような言葉を述べていて、驚いた。
「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年、昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。
 第一次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して、平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって、誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。
 昭和の六十有余年は、私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。」
 政治的な言動を一切してはならない天皇が、ぎりぎりのレトリックを駆使して、表現をしている。
 なぜ、昭和天皇のことを引き合いに出しているのか? 私が読んだ限りでは、このままでは、自分も昭和天皇のような立場に置かれるのではないか? 歴史が忘れられて繰り返されかねない現在、非常に不安である、と語っているように思える。
 学ぶべき過去の事件、すなわち繰り返してはいけない出来事として、天皇は、張作霖爆殺事件、満州事変を挙げている。これらの結果、昭和天皇は不本意な歴史を強いられた、としている。つまり、あのような戦争へつながる出来事が政治(軍部主導にせよ)によって起こされたが、それは天皇の名のもとで行われた、そういう過去の歴史的事実を忘れてはいけない、忘れたらまた同じことを繰り返し、天皇の旗印のもとで国民が戦争に駆り出されてしまう、そういう天皇として不本意な事態を自分としては危惧している、と、こう言っているのだと思う。
 日の丸、君が代についても、それらを刷り込む教育をしていると報告した米長邦雄に対し、「強制はよくない」と答えた天皇である。だが、現実は、国や自治体が強制している。それらは、天皇への尊敬の念を育てているかに見せて、じつは天皇を隠れ蓑にして為政者が国民を扇動するための下地を作っているだけだ、ということを、現天皇は不安に思っている。昭和天皇は、結局、戦争責任を不問に付されたが、もし、今度、そのような事態が起こった時には、天皇はなすすべもなく国威発揚の象徴に祭り上げられてしまうのであり、それは国民を戦争へ送り込むことであり、自分の望まないまったく不本意な悲劇であると、現天皇は感じているのではないか。政治的発言を禁じられている中で、ここまで言うのだから、その危機感は相当なものだろう。自分だけでなく、皇太子が天皇になった時にそんな時代が来ている可能性まで想像しての発言だと思う。
 この天皇は、オールド保守主義者という感じである。伝統、国民、その統合の象徴たる天皇、ということには忠実である。皇室に伝わる極秘の儀式については、きわめて熱心である。けれども、ファナティック(狂信的)なナショナリズムや、強硬な外交姿勢、武力保持については、これを嫌う。一方で、見事までに、天皇が政治や統治に関わらないよう、ふるまっている。
 右翼やタカ派の望む天皇と、現実の天皇とは、何と遠いのだろうと思う。
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by hoshinotjp | 2009-11-12 23:31 | 社会
 秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大被告が、被害者に送った謝罪文(要旨)を東京新聞で読む。
 きわめてまじめで臆病な印象を抱く。物事にいい加減になれない性格なのではないか。だから気にしなくていいことも気にし、傷つきやすくなる。
 最も痛々しく感じたくだり。
「家族や友人を理不尽に奪われる苦痛を想像すると、私の唯一の居場所だったネット掲示板で、「荒らし行為」でその存在を消された時に感じたような、我を忘れる怒りがそれに近いのではないかと思います。もちろん比べられるものではありませんが、申し訳ないという思いがより強くなります。」
 加藤被告は、大切な人を奪われた感情を想像しようとして、本当に精一杯、自分が生涯で最も苦痛を感じた体験を思い起こそうとしたのだろう。そして、ネットで存在を否定された時の体験だと結論したのだろう。彼にはそれしか、人と接して苦痛を味わう場がなかったのだ。それほどまでに、「居場所」がなかったと認識していたのだ。奪われて苦痛を感じるような関係の人間が、彼にはいなかった。
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by hoshinotjp | 2009-11-07 23:31 | 社会
 9月21日の日記で記した、瀬戸内の町、鞆の浦(とものうら)の架橋問題で、昨日、広島地裁は架橋工事の差し止めを命ずる判決を下した。
 湾を横切る大工事をして橋を架けてしまったら、もう取り返しはつかないので、とりあえずはよかったと思う。ただ、交通渋滞など、住民の不便は何らかの形で解消される必要がある。
 架橋は、たんに住民の不便解消だけではなく、開発によって過疎化で荒廃しつつある町に交通の流れを向けさせよう、さもないと陸の孤島になる、という発想から計画されたと思う。
 だが、いま鞆の浦には外部から若い人たちが少しずつ入り込んで、古い建物などを改修、お店や食事処を開いたり、イベントスペースにしたりと、変化が起こっているという。外部からの若者たちが新住民となり、もとからの住民たちと入り交じり、街作りに参加する。これは鞆の浦にかぎらず、全国の古い街で、少しずつ起こっている現象である。
 加えて、例えば、空港を作れば地方が活性化する、といった、地方にも何十年と染みついてきた中央政権とのもたれ合い型発想は、もはや機能せず無効になったという現実もある。
 今回の判決には、そんな文脈も背景にあると思う。
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by hoshinotjp | 2009-10-02 23:04 | 社会
 宮崎駿監督の映画『崖の上のポニョ』が、広島県福山市の鞆の浦(とものうら)という、とても風光明媚で居心地のよい小さな港町をヒントに作られたことは、よく知られている。宮崎監督は、たまたま訪れた鞆の浦を気に入り、ここに滞在して『ポニョ』を構想したのだという。
 その鞆の浦で問題となっているのが、湾をまたぐ橋を架けるかどうか。古くて小さい町ゆえ、交通の流れが悪く、それを解消すべく湾を横切るように橋を架ける案が浮上、工事寸前まで行っているのだ。これをめぐって、町の住民が賛成派・反対派に分かれて対立。架橋反対派は工事を差し止めるよう、広島地裁に訴えており、10月1日にその判決が出るという。(架橋問題については、「こちら」を見てください。あくまでもWikipediaですが)。
 判決を前に、宮崎駿監督が、この問題について読売新聞のインタビューで意見を述べている。架橋は住民の決めることという前提を崩さないながらも、控えめながら架橋を望まない旨を述べている。
『ポニョ』という作品にぞっこんの私だが、じつは『ポニョ』のことなど知らなかった2年前の秋、まったく関係ない文脈で鞆の浦を訪ねている。その静かで落ち着いたたたずまいには、すっかり魅了された。
 町のたたずまい。こんな風景が湾を囲む。クリックすると拡大します。
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 湾全景
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 中央部を拡大すると、
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 この写真のど真ん中を、上から斜め右下方向へと道路が横切ることになるのだ。
 帰りに鞆港から福山駅行きの路線バスに乗ったところ、この問題で、顔なじみの住民であるらしきバス運転手(反対派)と乗客(賛成派)が口論を始めたときは、問題の根深さを実感した。
 唐突だが、自殺が増えていることの背景には、個人が自分に価値を見いだせないという、尊厳の喪失がある。経済的な困窮や社会的な排除により、自分の存在に意味が見いだせなくなり、自分を痛めつけていく。鞆の浦の埋め立て架橋問題も、それと同じだと私には思える。生活のために橋を架けるべきなのか、景観を優先すべきなのか? いずれにしても、鞆の浦という町に住む者に、尊厳をもたらしはしない。鞆の浦という町、そしてそこに住む自分に、意味がある、役割があると思えることが、肝心だと思うのだ。日本全国で起こっているであろうこのような問題は、町や住人の「自死」問題だと私には感じられるのである。
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by hoshinotjp | 2009-09-21 18:43 | 社会
 雑誌の廃刊が相次ぐなか、前回の日記で「雑誌が担っていた文化情報の流通という役割を、果たしてネットは担えるのだろうか?」と考えたが、やはり無理なようである。なぜかというと、活字という文化自体が変質しているようだからだ。どうもメディアの世界でも、ライターなどフリーのプロフェッショナルたちの「非正規雇用化」が起きているからだ。
 どういうことか?
 知人のライターの話によると、まず、ウェッブメディアが支払う報酬は、雑誌などが払っていた報酬に比べると、数分の一程度と格段に安いのである。紙代や印刷代がなくなるわけだから、コストは紙媒体よりかかっておらず、本来ならば報酬はむしろ増えてもよいぐらいだろう。だが、取材費をそこから捻出したら赤字になるような額しか提示されないという。
 ここには、プロの文章の書き手を、それなりの経験を経た職能の使い手とは見ていないという、ウェッブメディアの特色がある。文章を、あくまでもビジュアルに奉仕する記号としてしか捉えておらず、その記号を書くことは誰であっても可能な、代替可能な仕事と位置づけている。
 同じようなことが、字幕翻訳の世界でも起きている。戸田奈津子さんやそれに続く世代の字幕翻訳家たちは、作品世界をきちんと読み解き限られた字数の日本語に置き換えるという作業を、高度な技術と能力の要求されるプロの仕事として完成させてきた。例えば英語などの字幕を見るとわかるが、日本の字幕技術は世界でも類を見ないほど高い。つまり、視聴者が見やすくわかりやすい。
 だが、そんな高度な仕事は今や評価されなくなりつつあり、とにかく二束三文の安いギャラで、配給会社の意向に従った「超訳」の字幕をつける者へ、発注が流れているという。質などどうでもよく、オリジナル作品のセリフをねじ曲げてでも売れればよいという、配給会社主導の字幕作りに奉仕することしか、求められていないのである。もはや、プロフェッショナルの仕事ではない。
 つまり、経験と能力を要求されるプロの仕事が、質を度外視して安く買い叩かれ、その結果、格安のギャラでその仕事を引き受けるプロではない者たちを大量に出現させている。むろん、そのような安いギャラでは食えるはずもない。フリーランスの仕事なので安定もしない。
 これを私は、フリーのプロフェッショナルの「非正規雇用化」と言いたいわけである。
 インターネットメディアは、このように、単に紙媒体のメディアをネットの世界に移行させたのではなく、その質そのものを破壊しようとしている。別の質へと変えるのではなく、たんに破壊して単純作業へと貶めようとしている。その破壊の原理は、すべてを経済効率で計算する自由化経済、つまり格差社会をもたらしている経済原則と同じものである。
 そのような原理にインターネットメディアが支配されている限りは、すべての文章が商業に奉仕する現状を、推し進めるばかりだろう。
 私たちは今、言葉を奪われる危機に直面している。
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by hoshinotjp | 2009-07-30 23:28 | 社会
 生涯心に残るであろう、すぐれたドキュメンタリー作品に触れた。一つは映像、一つは活字。映像は、東海テレビ制作の『光と影』。山口県光市の母子殺人事件で、世間からバッシングにあった弁護団を追った作品である。活字のほうは、清水潔著『桶川ストーカー殺人事件―遺言―』(新潮文庫)。桶川ストーカー殺人事件を取材するうち、実行犯を突き止めてしまったジャーナリストのルポだ。
 どちらもその作品に触れたあと呆然とするのは、それまで自分が抱いていたその事件へのイメージがまったく覆されるからだ。私が漠然と持っていた事件のイメージは、まったく架空といっていいほどの虚像だった。端的に言えば、嘘を信じていたことになる。
 なぜ、そんなことが起こるのか? どちらの作品も問題視するのは、捜査機関(や司法機関)の作る嘘と、報道機関の作る嘘である。両者は無意識の深層で結託して、自分たちに都合のよい虚像を作り上げてしまう。捜査機関と報道機関が嘘を作り上げたら、私たちが実像を知るのはとても難しくなる。だが、この二つの作品では、取材者たちはあるレベルから外れることにより、実像に触れることになる。
 あるレベルとは、警察や検察など捜査にたずさわる公的機関との情報交換の場のことだ。簡単に言うと、記者クラブや記者会見の場のことだ。東海テレビのスタッフは、捜査側ではなく、被告側の弁護人に密着した。その結果、捜査側が作っている無理なストーリーのあらが見えてしまう。「桶川」の清水氏は、フォーカスの記者であったために記者クラブには入れず、警察は一切の取材に応じなかった。このため、独自に被害者の関係者を取材するほかなかった。すると、遺族側の言っていることと、警察の言っていることがあまりに違っていることがわかるのである。さらには警察が、自己保身のために捜査をネグっていた事実、報道機関に嘘をリークし続けた事実までがはっきりしてくる。記者クラブに属して警察情報だけで報道を続ける、大手の新聞やテレビの記者にはそれがまったく見えず、警察の嘘を丸ごと真実だと信じ込んで報道する羽目になった。
 私も二年半というわずかな期間だが記者を務め、記者クラブでの修行が日常だったことがあるわけだが、それがいかに大手のメディアの無意識を形作っているか、思い知らされた。そもそも、記者クラブ制度を疑うことを教えられはしなかった。記者クラブ制度の延長に、警察官や自治体職員、政治家への夜討ち朝駆けがあり、そこから極秘情報を得ることが特ダネを取ること、という図式ができあがる。だがじつは、夜討ち朝駆けに応じてもらえるのは、記者クラブに属しているなじみの記者だけ。多くの会社員としての記者たちは、この図式を常識として内面化し、疑うことなく熱心に仕事をしている。内部にいる者には、自分が権力を行使していることが見えないのだ。
 記者クラブにもよい部分はあるのだが、今現在は、公的権力を持つ機関が大手メディアに権力を分け与え、共犯に仕立てるという機能を果たすことのほうが多い。なぜ、メディアが「第四の権力」と言われるのかは、単に「マス」へ訴えるからというだけではなく、現実に公権力から権力の一部をおすそ分けしてもらっているからなのだ。
 メディアのうち、ジャーナリズムを標榜する報道機関は、せめてそのことに自覚を持って取材に当たるべきである。ジャーナリズムの役割は真実を突き止めて報道することだが、いかに真実に到達するかは、情報を疑う、という姿勢以外にはありえない。現在流通している情報(「世論」と呼ばれたりするものを含む)に、冷や水を浴びせること。すべてはそこからスタートする。そしてこれは、報道機関にだけ求められる姿勢ではなく、情報を受け取る私たちちまたの人々にも求められることである。
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by hoshinotjp | 2009-06-30 15:23 | 社会
 新聞はどうしたらこの苦境を脱せるのか、とよく考えるが、たぶん脱せはしないという結論に落ちるのが常だ。ただ、どうせ脱せないのなら、開き直り思い切り、好き勝手にやったらいいのに、とも思う。
 私の求める今後の新聞像とは、世の中に冷や水を浴びせる役割だ。インターネット時代、メディアとは世の欲望や熱狂を加速させる機能へと特化していくばかりである。今やどうしても遅れるメディアである新聞には、むしろ「スローメディア」として、世の欲望や熱狂に疑義を挟む役割がふさわしいと思うのだ。私のイメージしているのは、現在購読している東京新聞の名物である「特報面」がメインとなった新聞だ。「特報面」は、私の思う「冷や水を浴びせる姿勢」が強く、インフルエンザ騒動でも、いち早く舛添大臣のスタンスを熱くなりすぎではと批判したり、政府全体の対応とメディアの反応を合わせて検証したりした。同じ東京新聞のストレートニュースのページではまさに過熱した報道が行われているその最中にである。そこでは、社会部デスクが、自らの熱くなりすぎてしまった報道姿勢を告白したりもしていた。
 選挙中、報道機関は、アナウンス効果に気を遣う。例えば、大きなメディアが「与党リード」と書くと、与党支援者は安心して気が緩み、野党支援者は気を引き締めて活動を活発化させ、結果的に投票行動では逆に振れたりする、という効果である。
 選挙に限らず、報道には多かれ少なかれ常にこのアナウンス効果が働く。だから、例えばインフルエンザ騒動で、政府がこんなに緊迫して対策をとっていると大々的に報じれば報じるほど、世の中の不安をあおり、マスクを付ける人が増えるといった効果が生じるわけである。にもかかわらず、自らのアナウンス効果には無頓着に、「ちまたにはこんなにマスクを付けている人があふれている」とその現象を報道するとなると、これではただの扇動家ではないか、まるで無自覚なヤラセみたいではないか、と思ってしまう。ベストセラーでも同様で、メディアがいっせいに、初日にすでに80万部、と報道すれば、今の熱狂しやすい社会ではたちまち人々が買いに走るわけだが、何と2週間で100万部、書店では売り切れ続出、この要因は何か、などと、まるで自分たちは無縁であるかのように報道している姿には、「歴史の忘却」とつぶやきたくなる。すべてのメディアがこのような状態になってしまったら、戦時中の大政翼賛報道に行き着くしかない。
 だからこそ、新聞には、これまでのような部数や収益を回復しようという考えは捨てて、小規模でもよいから冷や水を浴びせるメディアとして成熟してほしいのである。
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by hoshinotjp | 2009-06-09 23:37 | 社会
 中央大学の殺人事件。一部の新聞や週刊誌の報道で、家庭環境のことが報じられ始めている。親に(特に母親に)溺愛され、過干渉だったらしいという件である。これがどこまで正確な事実かはわからないけれど、まったくの誤報ではないとしたら、何となく腑に落ちるような気がする。
 自分が大学教員をした経験でも、また教員をしている友人知人の話を聞いても、学校生活に適応できずに脱落したり心の病に陥ってしまったりする学生は、親の過干渉か無関心にさらされているケースがものすごく多い。それらの学生は、入学してかなり早い段階から大学社会での人間関係に入り込めず、誰の視界にも入らずにひっそりと孤立し、大学に行きたくても行かれない精神状態になったり、行っても精神疾患を発症して授業を受けることに差し支えたりしている。
 私が早稲田大学で教え始めたとき驚いたのは、年に1、2回の父母会を開いているということだ。大学で父母会! 学生数が巨大な早稲田では、一人暮らしの学生が授業に出たいのに学校に来られず引き籠もりになっていても、誰も把握できない可能性がある。このため、できるだけそのようなケースを見逃さないよう、父母会を開くというのである。「かつての、いくら倒されても起き上がるような早稲田生を想像しないでください。今はまったく状況が違うのです」と学生担当の先生からは釘を刺された。
 山本容疑者も、一年生のときにほんの数単位しか取得できず、留年をしている。友達もなく孤独だったとの証言を考えると、この時点ですでに大学社会から脱落していた可能性がある。大学を辞めたかったという供述もあるようだ。それでもその後は何とか授業に出席し卒業にこぎ着けられたのは、学費を出している親のことを考えてがんばったためらしい。
 だが就職後も、それぞれの企業社会で溶け込めずに脱落、転職を繰り返す。大学入学時と同じことが起こっていたのではないか。
 意に反して精神的に大学社会から脱落し授業に来られずにいる学生は、いったん自分を立て直す猶予が必要となる。そこで教員は、学費を出している親と相談することになる。ところが、このような苦境に立たされている学生の親と接触してみると、多くのケースで、自分の子どもの苦境を認めず、うちの子は大丈夫ですから通わせます、といった主張をすることが非常に多い。明らかな精神疾患を抱えていても認めようとせず、医者にかかることを拒んだり、医者が問題ないと言ったと嘘をついたりする。あるいは、無関心にほっといてくれと言うケース、おろおろとどうしたらいいんでしょうと決断しないケースもある。いずれも、苦しんでいる当人の立場に立とうとしないのだ。
 このような学生の多くは、とてもまじめで、期待にこたえようとよく努力をし、物わかりもよい。親の考えや欲望をいち早く察知して、どうすれば親が喜ぶかを理解している。つまり親に対しては、空気を読む能力が発達している。その結果、学校社会での空気からはまったく浮いてしまうのである。親と大学、この矛盾を解決できなくなって、身動きが取れなくなる。
 結局は大学を辞めることになる学生は多い。だが、それは解決ではまったくないので、私は暗澹たる気持ちになる。大学を辞めて、では一体どこにかれらの身の置き場があるというのだ? 大学を辞めて家に引き籠もれば、ますます親の呪縛は強烈になる。親の呪縛下にある限り、どこの社会に出ても脱落するしかない。親に社会的に殺される前に、何とか逃げ出してくれ、と思ってしまう。だが、まじめで優しい性格だから、そんな親なのにおもんぱかって何とか期待を実現しようとしてしまうのだ。
 私には山本容疑者がそんな学生の一人だったように思えてくる。就職して親元を離れたりして、彼なりに何とか逃げたのだと思う。だが、それで社会にすんなり溶け込めるようになるかというと、親の呪縛下にいた時間が長い分、一対一での人間関係を作る体験をいちじるしく欠いており、どうにもできない。孤立は深まるばかり。
 高窪教授は、親の代わりに頼れる、唯一の人間だったのだろう。そして、親の代わりに、山本容疑者が抱くべき敵意をまともに受けてしまったのではないか? 山本容疑者が本当に殺意を持って対峙したかったのは、本当は親だったのではないか? 大人になるに当たっての親離れを決して許さない親に対し、象徴的な意味での親殺しを実現できず、孤立が深まるのと比例して殺意だけが膨れあがり、親殺しの代わりに高窪教授を殺してしまったのではないか?
 山本容疑者の親は、まるでモンスターペアレントのように報道されているのかもしれない。けれど、子どもの立場からの想像力を持たず、ずっと子どもを自分の延長として監視し権利を行使し続ける親は、見かけよりもはるかに多い。極端な例が目立つから、自分たちはおかしくないと思っているだけで、本当はおかしいという例がかなりあると思われる。それらの膨大なゆがんだ家庭環境を裾野に持つ、氷山の一角の事件であるように、私には思えてならない。
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by hoshinotjp | 2009-05-29 05:36 | 社会