カテゴリ:社会( 74 )

 ヒトラー政権に投票する人が過半数を超えるだとか、対独宥和政策をとるだとか、市場の力を信奉して大恐慌が起こっても民間経済に介入しないだとか、アメリカとの戦争を勝算もなく始めてしまうだとか、歴史を学んでいると、何でそんな愚かな選択をしてしまったのだろう、と思うことはよくある。それはあくまでも自分が渦中におらず、歴史上の出来事となったから、客観的に「愚かだ」と判断できるのだと思ってきた。
 だが、21世紀に入ってからは、自分が渦中にいても、「なぜそこまで愚かな選択をするのだ」と思うことが激増した。日本で行われる各種の選挙についても同じだ。そのように思う自分が絶対正しいとは思わない。けれど、選択をしている民意も正しいとは思えない。市場が過つように、民主主義下の民意もしばしば誤る。ただ、数が多く主流派を形成するため、誤りが見えにくくなるのだ。だから、私は権力を持つ者を信用しない一方、民衆だとか大衆といった一般人をも信用はしない。人間は自らに生来の性質として備わる愚かさをどうやっても克服はできない、と思っている。ただ、努力すればその愚かさを最小限に抑えることはできるはずである。
 民意が誤りを犯すケースの一つは、人々が集団化して、一体感のもと、熱狂している場合である。白けているときの選択は、正解を選ばないかもしれないが、決定的な間違いも犯さない。しかし、熱狂しているときの積極的な選択は、決定的な過ちにつながりうる。
 では、人間はどうして熱狂してしまうのか。熱狂するとなぜ恐ろしい間違いを犯すのか?
 最近はそのことをよく考える。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-03-30 23:05 | 社会
 WBCの劇的連覇のあと、急に「サムライ」「侍」という言葉がメディアで濫用されるようになっている。例えば、サッカーでも。
http://southafrica2010.nikkansports.com/news/p-sc-tp2-20090326-475539.html
 まあスポーツ紙なのだから、目くじら立てるほどのことはないのだけど、自己犠牲がサムライ精神?と思ってしまう。じゃあスペイン代表のマルコス・セナとかは? 昔の侍は自己犠牲したのか? 「自己犠牲」という考え方は「特攻隊」の精神であって、侍ではないのでは? 侍の所属は「藩」であって、決して幕府のために命を捨てることではなかった。そして「日本」とは敵対した。
 こんな堅苦しく考える必要は本当はない。「サムライ」はあくまでもイメージにすぎなくて、盛りあげるためのキャッチコピーでしかないのだから。現実の侍も関係ないし、「サムライ魂」「サムライ精神」が何を意味するかも、じつはどうでもよい。そこを空白にしておくことが、イメージが機能するためには大切なのだ。
 ただ、私が何だかなあと思うのは、サムライという言葉の流行の経緯である。サッカーでも2006年のワールドカップのユニフォームは「サムライ・ブルー」という言われ方をした。その前のユニフォームでは、「刀」のイメージが使われた。男子の「サムライ」に合わせて、女子サッカー日本代表は「なでしこ」と命名された。WBCの日本代表は、前回も「サムライ・ジャパン」と呼ばれた。
 このすべてが始まったのは、私の記憶では、トム・クルーズが主演した滑稽なハリウッド映画『ラストサムライ』である。これが世界でヒットしてから、日本人は自分たちのことを「サムライ」と称するようになったのだ。つまり、アメリカ人に「おまえたちはサムライだろ」と言われて、「あ、ほんとだ、われわれはサムライなんだぞ。サムライは強えんだ」と胸を張っているような印象を、「サムライ」という言葉を目にするたびに抱くのである。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-03-26 13:00 | 社会
 このところ放映していたNHK特集「プーチンのロシア」全4回を見終えて、自分がなぜロシアをこれほどまでに気にしてしまうのか、改めてよくわかった。特に第4回目の士官学校を取材した「プーチンの子どもたち」は興味深かった。
 ロシアも、プーチン以降、強烈な愛国教育が行われている。「ロシア」というのは、愛国教育は21世紀の世界の趨勢だからだ。中国しかり、インドしかり、アメリカも宗教を通じてその傾向を強めてきたし、イスラム原理主義は「国」という単位ではないがイスラム民族に対する愛と忠誠を至上のものとしている。日本も例外ではない。共通しているのは、個人よりも共同体の運命を重視し、個人はその共同体のために奉仕する(殉ずる)存在である、と説いていることだ。いわば、世界中で皇民化教育が行われていると言ってよい。ちなみに、愛国すなわちパトリオティズムと、民族主義、ナショナリズムなどの違いは日本では明確ではないが、外国では地域の歴史によって複雑な違いを持っている。
 この愛国精神を最も育てる場が、軍隊とスポーツである。どちらも、「敵と戦う」ことを究極の目標としている。ロシアの愛国精神が高揚し国民が熱狂に包まれたのは、去年の北京五輪のとき。ただし、オリンピックに熱狂したのではなく、その時期に行われたグルジアとの戦争に熱狂したのだ。決して右翼だけが高ぶったわけではなく、ごく一般のロシア人たちが勝利に酔った。外側から見れば、どう考えてもただの残虐な侵略でしかない暴力が、内側の人間たちには褒め称えるべき愛国行為なのである。
 なぜ、愛国精神は戦いの場でこそ発揮されるのか? 国を愛するというのだから、例えば10人の老人が火事で焼け死んでそのうち7人が誰だかわからないといった事態に対し、愛国心を発揮して国民の死を悲しみ、その身元を探してみようとする、といったことがあってもよさそうだけど、そうではなく、なぜいつも戦いの場ばかりなのか?
 要するに、愛国とは常に敵を必要とするのである。と言うより、敵しか必要ではないのだ。敵と戦う自分たちこそが国を愛する国民であり、それを実感することだけが求められているのだ。だから、敵のいない愛国はありえない。敵がいなければ、無理やりにでも敵を設定する。
 愛国に熱狂する集団の恐ろしさは、内部にいる者でさえも敵と見なしうる点にある。近いところでは森達也さんが『東京スタンピード』という小説を書いて、その恐怖をシミュレーションした。何が何でも敵が必要なのだ。この熱狂、止めることはできないかもしれないが、私はせめて近寄らないようにしよう。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-03-24 23:12 | 社会
 あえてこの言葉を使うが、ガザやジェニンでイスラエルの行ったことは「ホロコースト」ではないのか? 数のうえではナチスがユダヤ人に対して行ったホロコーストと比較にはならないとはいえ、質としては同じ構造を持っていないとは言えないのではないか? あの無差別な殺戮ぶりに、パレスチナ人を根絶やしにしようとする衝動がなかったと断言できるだろうか。
 なぜここまでの虐殺を行うのか。ナチスによるホロコーストの記憶がそうさせるのか? 虐殺・虐待された記憶は、それを繰り返させるというのか? だが、繰り返しを断ちきっている例はいくらでもある。それとも、これが人間の習性なのか?

 こういう現実に対し、文学が直接的には無力であることは、承知のうえである。だからといって私は、文学は無用であるとも思っていない。ただ、こういう現実に対して無力であることの言い訳として、文学が存在している現状には、苛立ちを覚える。文学が希望を与えると謳って何かを見えなくさせる役割を果たしているのであれば、文学が消滅してもよい、と思っている。
 何かを表現すれば、何かを隠してしまう。表現には必ず、そのような性質がつきまとう。何者をも傷つけず、何者をもブラインドに置かないよう、すべてに配慮した表現は、もはや表現ではなくなるだろう。私が求めているのは、表現のそのような性質にやましさ、うしろめたさを抱きつつ、それでも表現しようとする意志である。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-19 23:09 | 社会
   ◆「生きるな」◆
 社会には文脈があり、同じ行為でも、例えば時代背景という文脈の違いによって、意味が変わってくる。カウンターカルチャー全盛期の一九六〇年代に大麻を吸えば、反権力の犯罪とも解釈されただろうが、現在の大麻は、麻薬へと続く自己破壊でしかない。
 私は今、「マリファナ」とは書かなかった。「大麻汚染」など、報道は「マリファナ」でなく「大麻」を使う。その結果、「大麻」には犯罪イメージが染みつく。私はあえて犯罪の印象を強めたのだ。
 これも文脈である。文脈を読む能力とは、リテラシーである。リテラシーが低いと、世の中の情報を何でも鵜呑みにしやすくなったり、暴力的な失言が増えたりする。だから、社会的文脈を作る力を持った権力者やメディアには、高いリテラシーが求められる。
 だが、実態はどうか。巨額の利益を上げ体力のある大企業が、非正規雇用者の首切りを、率先して行う。皆やっていることだからと、内定取り消しを平然と行う会社が続出する。加えて、ここ何代かの首相の、無責任なさま。
 これがどんな文脈を作り出すか。損をしないためなら、人を死に直面させても構わない。他人の命など気に掛けるより、自分のことを考えろ。大人は下の世代を壊そうとしている。無用な人間は、強引にでも排除してよい……。
 社会の文脈を読めば読むほど、「生きるな」というメッセージばかりが目立つ。今、権力者に必要なのは、死を促す文脈を断ち切り、「生きよう」と思わせる文脈を作り出すリテラシーではないのか。
(東京新聞 2008年12月19日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-16 23:12 | 社会
 東京新聞(中日新聞)が夕刊の文化面で連載している企画「2009ことば考」がなかなか面白いのだが、特に第3回目の大石紘一郎氏の論考には、深く共感した。大石氏は政治学者だが、オウム真理教の信者たちが、いかに自分たちの「常識」を言葉で作り上げていったのか、「言語ゲーム」という観点から分析している。重要なのは、オウムの信者たちだけが特殊な「言語ゲーム」を展開していたわけではなく、翻って私たちの属している一般社会を見た場合、私たちも同じように言語によって「常識」を作り上げているという点だ。「ポア」といった言葉も、繰り返し擦りこまれていくことで、その社会では「常識」の一つとなり、違和感を覚えなくなる。同様に、「自己責任」という言葉も、繰り返されることで自明化し、その使われた方の異様さを感じずに誰もが「常識」として口にするようになる。

 私も大石氏に倣って、このところ気になっている言葉の使われ方の例を挙げよう。
 殺人や傷害事件を起こした容疑者が逮捕されたとき、新聞を初めとするメディアの報道では、かなりの頻度で、「被害者に対する謝罪や反省の言葉は聞かれないという」といったフレーズが挟まれる。これはごく最近になって急増している現象である。
 私はこれに強い違和感を覚える。報道が、まだ「容疑」の段階で罪が確定しているかも定かでない者に対し、「謝れ」と強要しているかのようだ。容疑者が謝罪や後悔の言葉を漏らしているというのなら、そう報道してもよいだろうが、そういう言葉を口にしていない、ということをことさら書き立てるのは扇動でしかない。事件の背景もわからないのに、「人に危害を加えて誤りもしない異常な人間なのだ」といった先入観ばかりを読み手に与える。そもそも、謝罪や反省ができる状態ならば、最初から犯罪など犯さない。何かに追いつめられて限界を越えてしまうのであって、メディアの役割は、当事者を追いつめているその要因を追究することにあると思う。報道が率先して、司法の判断も待たずに、異分子だと決めつけ切り捨てるような書き方をするのなら、報道の自由は死ぬ。
 メディアが、世論や世間の情動から自由であるとは思わない。しかし、それに流されて扇動者に成り下がるのであれば、それは喩えて言えばオウム真理教教団の中で、信者に教義を洗脳する幹部になるようなものである。
 かくして、外部から見れば異様なのに、内部の人は何のおかしさも感じないというオウム社会的な、内輪の「常識」が蔓延していくのである。

 異様さを異様だと感じなくさせるのは、言葉の力である。逆に、常識だと感じていたことに潜む異様さを気づかせてくれるのも、言葉の力である。文学の言葉とは、後者の力を持つ。読みやすくわかりやすい小説の多くは、じつは前者の力に頼っている。つまり、内部の価値観に基づいて、言葉を使っている。だから、どれほど内部社会での問題を告発するような小説であっても、内部の言葉を使っているために、根本の世界観は揺るがない。むしろ、内部の言葉を繰り返すことによって、「常識」を強化する役割すら果たす。
 私の考える「文学の言葉」は、外部の言葉によって、内部の言葉づかいそのものを浮き立たせる。どんな言語ゲームが行われているのか、洗脳が働いているのか、目に見える形にする。でも、外部の言葉で書かれているので、内部の言葉を「常識」だと思っている人が読むと、読みにくい。この読みにくさこそが、「洗脳」を解く鍵なのだ。読むための苦労は、中毒症状から解放されるさいの苦痛なのだ。
 それを避けたがる今の社会は、世の中じゅうが洗脳に酔い、深刻な中毒症状を呈しているというほかない。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-09 12:33 | 社会
   ◆死をうながす死刑◆
 長いこと、私は死刑を必要悪だと思ってきたが、ここ数年で、死刑はなくすべきだと考えが変わった。
 刑罰には、社会へ対する警告やメッセージという側面がある。乱暴に言えば、死刑は「殺した者は殺される。それでもよいのか?」という抑止だったはずだ。だが、今は本当に抑止として機能しているかというと、私には正反対の効果を及ぼしているようにしか見えない。すなわち、「余計な人間の命は奪ってもよい。生きているに値しない人間は、死んでよい」とでも言うような、人を死や殺人へと駆りたてるグロテスクなメッセージに変わったと感じる。
「誰でもいいから殺して死刑になりたかった」という理由で通り魔事件が相次いだのは、今年(2008年)の前半だった。元厚生事務次官らの殺傷事件も、同類だと私には思える。それだけではない。毎年三万人以上が自殺するのも、死刑執行が発するこのメッセージの圧力と無縁ではなかろう。
 私たちは自覚できないほど深く、自分のまわりにいる人間から影響を受ける。大人が次々と自ら命を絶っていく環境は、「自殺は普通のことだ」というメッセージとなり、死へのハードルを低くする。同様に、死刑判決が乱発され、次々と執行される世では、他人の命を奪うことへのハードルが低くなる。死へ駆りたてられる社会では、「死ぬこと」も「殺すこと」も、同じ行為になってしまう。
 死刑が目立つ社会は、戦争下にある社会とあまり変わらない。だから死刑は廃止する必要があると思うのである。
(東京新聞 2008年11月28日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-07 23:30 | 社会
   ◆死にたくなったら◆
 日本の自殺者は十年連続で三万人を超えているが、この経済危機のもと、年度末に向かって、自殺者がさらに急増するのではないかと危惧されている。
 予測できる事態なのに、黙って手をこまねいているわけにはいかない。そこで、「自殺実態白書」を作成するなど自殺対策に取り組んでいるNPO法人「ライフリンク」は、十二月一日より、「ライフリンクDB」(lifelink-db.org)なるサイトを立ち上げた。これは、経済的な苦境から精神的問題にいたるまで、さまざまなケースで追いつめられている人が、最後にどこへ救いの手を求めたらよいのか、支援機関を教えてくれるサイトだ。検索式になっていて、自分に当てはまる条件を入力すれば、最適な相談機関の情報がヒットする。
 私はライフリンク代表の清水康之さんとお話ししたことがあるのだが、二つの言葉が強く心に残っている。
 一つは、「生き心地のよい社会」。裏を返せば、今の社会は生き心地が悪い。ごく普通に生きることすら難しい。私はたちはじつは、とても異常な環境で暮らしているのである。まずはその異常さを認識しないと、いつまでも自殺は他人事だ。
 もう一つは「声なき声に耳を傾けたい」。自殺した人は本当は生きていたいのに、その訴えを聞いてくれる人が途絶え、死に追い込まれる。だから声を聞くことで、死は避けられるはずだ。それは同時に、この社会の何がどう異常なのかを聞くことにつながる。
 死への衝動を断ち切れるのは、身近な人の力なのだ。
(東京新聞 2008年12月5日付夕刊1面「放射線」)


追記
 年間の自殺者が3万人を越えたのは、1998年である。以降10年間、毎年3万人を越える自殺者が続いている。上記で紹介した「自殺実態白書」では、1998年に自殺者が急増した原因について、「1998 年3 月は決算期であることに加え、この時期は、金融当局の金融機関に対する自己資本比率検査が強化された時期であり、内部留保金を増加させなければならなかった多くの金融機関は、「貸し渋り」「貸し剥し」を行い、多くの中小零細企業の破綻の引き金となったと見られている」と分析している。
 この「98年3月ショック」の状況は、間違いなく今年度の3月決算期に、より大規模な形で繰り返されるはずである。だとすると、中高年男性を中心に、経済的に追いつめられて死を選択する人たちが急増するかもしれないことは、想像に難くない。
 望まない死を選択するさまに、私は耐えられない。その死のダメージは確実に周囲の者に及ぶ。命を最後の一滴まで生き尽くした私の叔父の、「もっと生きるということに真剣になれ!」と死の直前に放った言葉を、死を選択するよう追いつめている当事者たちに向けたい。
[PR]
by hoshinotjp | 2008-12-27 15:04 | 社会
   ◆管理中毒◆
 砂風呂遊びで中学二年生が重態となった事件や、今月(11月)初めの、川崎の中学校で一年生が机に飛び乗り、はずみで窓から転落死した事件。いずれも痛ましい出来事であり、二度と起こってほしくはない。
 だが、二度と起こらないためにはどうしたらいいのかと考えると、私にはよくわからない。転落事故は授業中に起きており、学校側の責任は免れられないだろうが、日常化する学級崩壊やいじめのことを思うと、教師の努力だけで防げるかと疑問になる。まして、休日に他校の砂場で起きた砂風呂事件は、学校側がどうにかできる問題ではない。にもかかわらず、こういう事故が起きると、学校の安全管理不足ばかりが強調される。
 確かにいじめを隠蔽したりと、学校の体質が信用できない面は多々あるにせよ、私はどうも腑に落ちない。ほんの十年ぐらい前までは、学校の過剰管理こそが問題視されていたではないか。いつから、管理が足りないという批判のほうが一般的になったのか。
 変化したのは学校ではなく、世間だと私は思う。大人たちは、自分が厳しい管理下に置かれているうち、中毒症状を呈し始め、自立を放棄して、自ら管理を求めるようになってしまったのではないか。
 これらの事故は、学校に限らず大人が、子どもを管理・干渉しすぎる結果、起こったという気がする。何が危険なのかを学ぶのは、子ども自身だ。大人が安全管理に過敏であるがゆえに、子どもが学んで成長する機会を奪っていると思うのである。まず必要なのは、大人の自立だろう。
(東京新聞 2008年11月14日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2008-12-10 23:48 | 社会
 元厚生事務次官ら殺傷事件は、今年前半に相次いだ、無差別通り魔事件と同類の事件だと、私は感じている。次第に明らかになっていく供述や報道の情報によると、消極的で人間関係をうまく築けなかった小泉容疑者も、人生の大半にわたってきわめて孤独な状態に置かれてきた。そして、職を失ったことから来る経済的苦境。社会的にも経済的にも、まったく無視された状態にあったわけである。
 こういう事件は、一種の表現である。無視された者が、最期をかけて、存在を主張している。と同時に、社会自体が、人間の共同体の生態系が壊れていることを示す指標として、このような事件をあらしめている。温暖化で旱魃や水害が起こったりするように。
 小泉容疑者が感じ続けていたであろう社会からの圧力は、じつは私たちにもかかっている。ただ、どうにかしのぐ術があったり、運がよかったりするがゆえに、その圧力に押しつぶされていないだけだ。押しつぶされてはいなくても、その圧力によって、間違いなくゆがんでいる。小泉容疑者ほどの極端なゆがみではなくても、形としては同型のゆがみを抱えている。だから、彼を異常な他人として切り捨てれば捨てるほど、自分も持っているゆがみに気づきにくくなる。そのことが、このような犯罪に拍車を掛ける。
 小泉容疑者は、宮崎勤や宅間守と同世代だという。この世代は、オウム真理教の幹部たちとも重なっている。もし小泉容疑者がオウム真理教に出逢っていたら、入信していてもおかしくなかっただろう。あの事件を直視しないで封印してしまったことも、小泉容疑者及び私たちをゆがませている圧力の一つである。
[PR]
by hoshinotjp | 2008-11-27 23:30 | 社会