カテゴリ:社会( 74 )

   ◆薄くなる新聞◆
 仕事で夜を明かした朝、向かいの団地に朝刊が配られる様子を眺めていて、愕然としたことがあった。新聞を取っている戸数があまりにも少ないのだ。百戸ほどあるうちの半分にも及ばない。
 このショックを体験したのが一年前のこと。今、新聞各紙は大幅にページを削減している。広告を取れないので、紙面が余ってしまうせいらしい。なぜ広告が取れないのかといえば、購読者が減少の一途をたどり、広告効果が薄くなったからだ。
 新聞を読まない人たちの情報源として急拡大しているのが、ネットや携帯のニュース。一行見出しのようなあの記事も、じつは大半が新聞各紙の配信による。つまり、手間暇かけて取材して書いたプロの記事が、IT企業に買い叩かれているわけである。
 これでは記者は育たない。私も記者経験があるが、その活動の半分以上は、記事にならない基礎的な情報収集で占められる。経営が厳しくなると、そんな余裕は許されなくなり、すぐ紙面になる取材ばかりが求められかねない。手っとり早く既成の枠組みに当てはめただけの記事が増え、文章からは批判的な視点が失われていく。
 格差を生んだグローバル経済が、新聞も駆逐しようとしている。スピードとコストダウンが至上命題とされる社会で、時間と労力のかかる文学が読まれなくなり、新聞も読まれなくなった。行き着く果てが、ワンフレーズの号令で大衆がいっせいに動くような社会でないことを、祈るばかりである。
(東京新聞 2008年10月24日付夕刊1面「放射線」)

 昨日の報道によると、朝日新聞が赤字に転落した。広告の減少、販売部数の落ち込みによるものだという。これは朝日新聞の問題ではない。日本テレビとテレビ東京も赤字となっている。出版社でも、看板雑誌の休刊が相次いでいる。既存のメディアすべてを覆う、構造的な危機である。むろん、だいぶ以前から進行し、予測されていた事態であった。既得権益層と化したメディアが、それに対応できないでいるという面もあろう。だが、やはり歓迎すべき事態だとはとても思えない。
 私の感じる危機は、メディアの経済的な問題ではなく、受け手の感性の変化にある。紙の新聞を読むことは常に、ニュースが誰かの手を経てこちらの手元に届くことを感じさせてくれる。そこには、取材して記事を書いている記者の存在感が、まだ残っている。つまり、世界が物理的に存在しているさまが、痕跡として留められている。インターネットは、その「媒介」の感触を無にする。自分が世界とダイレクトにつながっているという錯覚を、リアリティにすり替えてしまう。世界との関わりは、物理的なものではなくなり、感覚的なもの(神経の刺激だけに寄るもの)に変わる。つまり、本当は自分の物理的な肉体の感覚器官を通してつながっているのに、物理的な自分の肉体はあたかも存在していないものであるかのように感じられるのだ。
 こうやって自分という物理的存在を消していく方向へ爆走していって、本当によいのか?
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by hoshinotjp | 2008-11-22 23:11 | 社会
   ◆人事社会、日本◆
 一九八〇年代末、私は駆けだしの新聞記者として、地方支局で県政を担当していた。見よう見まねで覚えた政治の取材とは、ひたすら政治家及び役人の人間関係や力関係を把握する、というもので、どのような政策が実行されているかなどは二の次だった。黒幕は誰か。県議Aと県議Bは犬猿の仲だから、Aが賛成するあの政策はBが反対して実現しないだろう云々。
 今にして思えば、私はただただ「政局」の取材にだけ力を注いでいたことになる。人事に精通することが、県政を掌握することだと、勘違いしていたのだ。
 だが、悲しいかな、この勘違いは、現実にはかなり有効でもあった。なぜなら、多くの政治家が、自分の利権以外は人事にしか関心がなかったからだ。政治を動かす大きな原動力は、その人の思想以上に、人間関係だったのだ。
 この構図、何かに似ていないだろうか。そう、大分県教委である。能力よりも人脈がものごとを決するという原理は、ほとんど同じなのだ。
 さらに視野を広げてみれば、私の所属していた会社だって、同様の人事原理が大きな力を働かせていた。おそらく、日本の組織はどこも似たり寄ったりだろう。
 日本社会は、その人がどんな仕事をしたか、ではなく、その人が誰と関係あるのかで動く。派閥への配慮によって作られた福田内閣は、人事優先社会である日本の象徴にすぎない。そう考えると、政治家に限らず、既得権を持つ業界が二世三世四世ばかりなのも、説明がつくだろう。有利な人間関係を最初から持っているのだから。
 いじめ体質もここに一因があるだろう。表面上の人間関係の維持がすべてなのだから。
 (東京新聞 2008年8月29日付夕刊1面「放射線」 一部改稿)


「自民党総裁選」という内輪のオヤジ的な余興も、人事異動後に温泉宿で行われる社員旅行みたいなものだ。その会社の社員以外には関係ない余興。
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by hoshinotjp | 2008-09-12 12:08 | 社会
  ◆自殺という戦争◆
 終戦の日がお盆のさなかにあることにはいつも、巨大な追悼の意思が働いているような不思議な感慨を覚える。だが、近年は「終戦」という言葉が少し空しく感じられる。確かに爆撃などはないけれど、本当に平和なら、どうして年間三万人以上もの一般人が、自殺していくのだろうか。 十年連続で三万人超、合計三十万人が自ら命を絶っている。一つの都市が消えたようなものだ。自殺志願者や未遂者を含めると、数は十倍にのぼるとも言われる。つまり、少なくとも三百万人以上が死の瀬戸際まで追いつめられている社会なのだ。
 数字で言ってもピンと来ない人は、自分の周囲を注意深く見回してみるといい。該当する者が必ずいるはずだ。私は、この五年で、四人もの知人を自殺で失った。
 自殺者の苦しみは、周囲の者に受け渡される。私は、戦時中に生き残った人が死者にやましさを覚える気持ちを、少し理解できるようになった。この感情は、死者が返らない以上、消えることはない。
 三百万人が、生きづらい社会から自らを消す代わりに、自分を追いつめた社会を壊す、つまり他人を破壊しようとしたら、どうなるか。その兆候は、無差別殺人の増加という形で現れている。現状ではこの傾向は強まるばかりだ。
 死者を追悼するとは、その苦しみを理解しようと努めることだ。今年のお盆には、身近で自殺した者たちの、表明されなかった言葉に耳を澄まそうと思う。
(東京新聞 2008年8月15日付夕刊1面「放射線」)

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by hoshinotjp | 2008-08-27 21:53 | 社会
     ◆子どもをカモにする性とカネ◆
 中学二年生の男子生徒がバスジャックを起こした事件。現時点での報道によると、意中の女子に交際を迫り、「十万円くれたらつきあってあげる」と言われて、周囲の生徒たちから十万円を借りようとし、トラブルに発展したらしい。
 性とカネ。動機を即断するのは避けなければならないが、古いようで新しいこの要因が、十四歳の少年に事件を起こさせたとすると、とても寒々しい気持ちになる。
 今の社会で男が起こす事件のうち、「性とカネ」のからんだ事件がどれほど多いことか。私の目には、秋葉原の無差別殺人を起こした加藤容疑者が、「彼女がいない非モテ」である自分に絶望したことと、十万円を払ってでも好きな女子とつき合いたいと少年が欲望することとが、表裏として映る。
 私はこれもグローバル化の結果だと思う。経済の自由化にともない、「性と恋愛」も自由化された。さまざまなパターンの恋愛が商品として売り出され、世界中の「持てる者」たちはこぞって、高級ブランド化した恋愛を買い求めようとする。その恋愛市場からあぶれた「モテない男」たちは、「性」をカネでやりとりする(買春・盗撮……)。さらにそこにも参加できない「持たざる者」たちは、惨めな敗残者として恨みをつのらせていく。ファストフード産業が人々の食欲を飽くなき消費へとエスカレートさせたように、性欲も経済の奴隷となっているのだ。
 このような市場の暴力が、十四歳の男子にまで及んだ結果が、この事件かもしれない。
(東京新聞 2008年7月25日付夕刊1面「放射線」より)

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by hoshinotjp | 2008-08-06 23:33 | 社会
 この記事と写真が気になって仕方がない。
「米東海岸にモンスター?」(東京新聞 2008年8月1日夕刊)
 ヤラセか? それとも、死骸が逃げたのか? チャペックの「山椒魚戦争」みたいなことが起きているのか?

追記・以下のようなサイトがあることを教えていただいた。
http://www.cryptomundo.com/cryptozoo-news/mm-newpic/
判断はご自由に。
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by hoshinotjp | 2008-08-03 23:13 | 社会
 毎週金曜日の東京新聞夕刊1面で、7月4日より半年間の予定で、「放射線」というコラムを連載している。1、2週遅れになるが、こちらにも転載していくことにする。
 以下、初回のエッセイ。

「嫌がらせの連鎖」
 梅雨時は教育実習の季節である。私が子どものころは、実習の若い先生が来ると、教室が非日常空間に一変するので、楽しみだった。
 その教育実習の現場で異変が起きていると、大学で教えている友人から聞いた。
 友人の教え子である四年生が二人、母校で実習に臨んだ。期間が終わるころ、友人は教え子たちの授業を見学。なかなかいい授業をしているし、担当の指導教諭は「自主的に遅くまで仕事してくれているんですよ」と評価しているしで、安心して引き上げた。
 ところが、実習を終えた学生たちは、顔を合わせるなり悔し涙を流し、次のような報告をしたという。
 いわく、先生(私の友人)が挨拶に来たとたん、指導教諭の態度が豹変して優しくなった。それまでは一人はまったく放置され、授業もろくに見てもらえなかった。もう一人は理不尽なことを言われ続けた。例えば、ノルマを終えたので夜七時に帰宅したところ、翌日には「勝手に早く帰るな。どうせ教師になるつもりもないくせに、もう来るな」などと罵倒された。
 このような、指導教諭による実習生へのハラスメントは、増える一方だという。
 中学高校の教育現場では、親からのクレームや上からの管理、生徒のトラブルなど、教師に過重な負担がかかっていることも現実だろう。だが、そのストレスを、より弱い立場の実習生に向けてしまうような現状は、ひたすら悪循環を繰り返しているだけだ。子どもは無意識に、そんな生き方を真似していくのだから。
(東京新聞 2008年7月4日付夕刊1面「放射線」より)

 この後に大分県教委の唖然とする事件が発覚。ただし、「教育はどうなっているんだ」と腹を立てるのはお門違いだ。教育現場で起こっていることは、日本社会のどの現場でも起こっていることだと考えてよい。ここで書かれた姿にせよ、大分県教委の様子にせよ、私たちのグロテスクな似姿なのだ。他人事のように腹を立てるよりも、今、自分は鏡を見ているのだと思って戦慄すべきである。
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by hoshinotjp | 2008-07-18 21:10 | 社会
「逮捕」について考える。
 今日は、捕鯨肉を盗んだとしてグリーンピースのメンバーが逮捕された。
 宅配便の配送所に忍び込み、他人の宅配物を持ち去る、という行為が、「証拠品として確保した」という理由で正当化されるのかどうかは、私もわからない。これが成り立つとなると、告発さえすれば郵便物を無断で抜き取ることは罪に問われなくなったりするかもしれない。これを権力を持つ人間に濫用されると怖ろしいことになる。グリーンピースのやり方は微妙な問題を含んでいるとは思う。
 ただ、私が違和感を覚えたのは、逮捕して身柄を拘束する必要があったのかどうか、という点だ。どうも、この「逮捕して身柄を拘束し、家宅捜索をする」というパフォーマンスのほうに重点があったように感じられもするからだ。つまり、警察の威力をこれ見よがしに見せつけたわけだ。
 最近、この手の逮捕が増えている気がするのである。先ごろ有罪が確定した、立川の自衛隊官舎でのビラ配布事件。4月には、早稲田大学文学部で、キャンパス内で演説をしていた早稲田の学生が、教員によって警察に突き出され現行犯逮捕されている。
 いずれからも感じるのは、「思想犯は抹殺しろ」というような雰囲気である。現在の日本では、思想信教の自由が憲法で保障されており、思想犯という犯罪はありえない。にもかかわらず、時の政権・実権を持つ側にとって目障りな考え方をする人間を、言わば別件逮捕に近い形で弾圧しようとしている。
 この傾向が強まっている背景には、世間がそれを許しているから、ということが間違いなくある。これらの事件で逮捕されるような思想の持ち主は、いずれも「特殊」で「過激派」っぽくて「普通ではない」人たちだと、世間は見なす。つまり、「あちら側」の人間だとして、「われわれ普通の人」との間に線引きを行ってしまうのだ。
 世論が線引きをして「あちら」と見なした人間には、もう何をしてもよい。とにかく犯人は罰せよ。
 そういうムードの中で、逮捕劇が演じられる。見せしめの暴力が、堂々と振るわれる。
 排除すればするほど、排除した側はやましさにさいなまれる。復讐されないかと不安になる。だから、過剰な自己正当化が必要になってくる。自分たちを正当化するために、さらに「間違っている連中」を作り出そうと、苛烈な排除を繰り返す。
 いったいこれで誰の気が休まるのだろうか。
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by hoshinotjp | 2008-06-20 22:51 | 社会
 連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の死刑が執行される。新聞記者時代にわずかでもあの事件を取材した私にとって、とても虚しい死刑執行だった。死刑を執行しなければ何かが解明できたのか、と問われれば、たぶん現状と変わらなかっただろうと思う。それでも、これでこの事件が過去のものとして終わる、少なくとも世間ではそのように整理されてしまうと思うと、「いったい何だったのだ」と虚脱したくなる。あれほどの残虐さと非現実性に、私たちは背筋を凍らせ戦慄し、本当におぞましいと感じ、二度と起こってほしくないと強く願ったはずではなかったのか。それなのに、私たちは宮崎勤を「あちら側」へと追いやることで、事件を生みだした要素も見ないようにし、歯止めを掛けることに失敗した。
 あの事件以降、20年の日本をつぶさに見つめれば、宮崎勤のような人間が育ち、あのような犯行に及んだ原因は、間違いなく私たちが作っている社会にあることが、いやでも理解できる。つまり私たちも当事者なのである。「あちら側(異常)」と「こちら側(正常)」という線など引けないはずなのだ。だが宮崎勤をあちら側に置くことで、私たちはその事実から目を逸らしてしまった。
 その結果が、今の社会だ。連続幼女誘拐殺人事件と性質を同じくする事件が、普通に起きるようになっている。そのたびに、さらに線を引いて、私たちは、このような事件を成り立たせている要因から逃げ続けている。
 何だったのだ、私たちがあのとき嫌悪感を感じたという事実は。あの嫌悪感・恐怖は警鐘だったはずだ、嫌悪感をもたらすものが自分たちの中に潜んでいるという。ついにそれに目を向けることなく、当事者を葬り去ることで、事件を忘却の中に放り込んでしまった。
 きっと、オウム真理教の事件でも、麻原彰晃の死刑を間もなく執行して、同じことをするのだろう。そして、秋葉原の通り魔事件では済まないようなさらに悲惨な事件が、これからも続くのだろう。
 結局、司法も世間も、罰することにのみ終始し、再発を防ぐための努力は怠り続けているのだ。「イスラム過激派」の暴力を阻止するために、アフガンを攻撃し、イラクを攻撃し、イランを今度は攻撃しようと考えるようなものだ。それによって阻止できるどころか、むしろ拡大する一方なのに。
 それにしても、ハードルを低くして死刑判決を連発し、さらには大量の死刑執行を行う社会で、はたして生命の実感など子どもに感得させることができるのだろうか?と思う。私には、互いが殺し合っているようにしか見えない。冷静になって想像力を働かせれば、これはとてもまともな光景ではない。
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by hoshinotjp | 2008-06-17 22:27 | 社会
 今、私たちは二種類の恐怖に襲われています。一つは、ご承知のとおり、いつ誰に突然殺されるか、という恐怖。もう一つは、いつ、自分が他人を殺してしまうか、殺したくなるのか、あるいは気づかないままに死なせてしまうのではないか、という不安です。私には断言するだけの自信がありません、自分が絶対、殺す側に回らないとは。
 理由が何であれ、私は殺されるのはいやです。しかし、それを防ぎきれる自信はない。防ぐ自信がないから、いつでも襲われる覚悟を決めておこう、と、いつもいつも二十四時間、襲われたケースを先取りして考えてしまいます。そして、どう覚悟し対策を考えようとも、殺されるときは殺されるのだ、と思うと、死んでしまっても仕方ないかもしれない、と諦めてくるのです。まるで私はもう死ぬ運命にあるかのようです。私だけではない、みんながそうでしょう。人間いつかは死ぬ、といった寿命の話は別にして。
 死ぬ運命が決まっている人にとって、自分を殺すことと他人を殺すことに違いはあるでしょうか? 「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」と、どれも同じ行動のバリエーションでしかないのです。私の実感としては、殺されるにしても自殺するにしても、死ぬことはもうタブーでもネガティブなことでも悪いことでも暗いことでもなく、息や排せつのように誰もが普通にする行為で、どんなに偉い人でもそれを邪魔したり非難したりする権利はない。それを決めるのは、当人の気持ちだけです。
 本当の本当は殺されるのはいやなのに、私たちは進んで死に向かって突進しているみたいに感じます。
 どうしてこんなことになってしまったのでしょう?
 この疑問に答えはありません。いろいろな人がいろいろなことを言っているけれど、どれも嘘っぽい。少なくとも私はそう感じます。必要なのは、この突進を止めてくれる歯止めなのだけど、それがないのが致命的です。
 最初に言ったように、私には自分が殺す側に回らない自信がありません。私は自分におびえ、自分を信用できなくなっています。まして他人を信用できるはずがありません。あれほど好きで、バカだけど信じていた彼とも、最近、別れてしまいました。誰か他人と一緒に死なないで過ごすためには、ものすごいエネルギーと労力、緊張や工夫が必要だけど、疲れきっている私にはもうそこまでがんばる気力がない。誰かと生活を築いていこうとすることも、もうないでしょう。普通にしていたら死ぬのであれば、もうそれでいい、という気分なのです。投げやり、と非難するのはやさしいですが、はたして私を非難できる人はどれだけいるでしょうか。
 この疲れきった情況で、せめて私は自分が殺さないでいるよう努力するのが精一杯です。
 私はこれが現実だと思います。皆さんも目をそらさずに、現実を見てください。すべてのエネルギーを殺さないことに注いでほしいのです。それで、こんな文章を書いた次第です。


 上記の文章は、私が4年前に書いた長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』(中公文庫)第2部の一節である(176~178ページ)。「きさらぎ」という、脇役である20代の女性が、新聞投書という形で発表した文章だ(現実の新聞ではこんな長い投書は載らないと思うが)。
 無差別の通り魔殺傷事件が起こるたびに、私はこの登場人物と同じ無力感を覚え、諦念に侵蝕されそうになる。この小説の第1部は、自死がちまたを席巻する。その自死の理屈が暴走して、第2部のタイトルである「心中時代」が出現する。この「心中」とは、誰かを巻き添えに死ぬことである。
「「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」」という気分を漠然と抱えている人が、この社会にどれだけたくさんいることか。そのほんの一部の人が、事件を起こす。それは無差別の殺人であるかもしれないし、グループでの自死かもしれないし、簡単に死ねる方法での自死かもしれない。
 この作品を書いてから3年後の去年、私は現実はもはや、『ロンリー・ハーツ・キラー』よりもひどいありさまになってしまったと感じていた。それで、よりいっそう殺伐とした『無間道』という長篇小説を書いた。これは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という気持ちで書いた作品で、実際に自分へのダメージは覚悟していた以上に大きかった。
 今の私たちがさらされている暴力は、自分たちが認識している以上に巨大なのだ。その暴力とは、通り魔をするしかないところへ人間を追いつめていく暴力である。それは平凡に暮らしていると思っている人々の日常にも潜む。私たちの周囲にも、私たちの胸の内にも。さもなければ、生まれも育ちも違う、それぞれ別個の事情を抱えた人間が、いっせいに同じような行動を取って自死や殺人を犯すはずがない。ただ、普段は目に見えないから、そんな暴力などないものと信じ込もうとしているだけである。その暴力の根源がどこにあるのか。私たち一人一人が全力を尽くしてそれを見きわめようとしないと、このような事件の連続に、歯止めがかかることはないだろう。
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by hoshinotjp | 2008-06-09 23:38 | 社会
 このところの報道で耐えがたいと感じるのは、硫化水素自殺である。この問題がクローズアップされてから、硫化水素で自殺をすると報道されるため、新聞紙面には自殺の記事が急増した。
 日本では自殺者が年間3万人を越し、それがすでに10年も続いている。年間3万人とは、単純計算で1日80人である。40人のクラス2つぶんの人が、毎日自ら死んでいく。けれど、何か目立つ事由(いじめだとか著名人だとか)でないかぎり、自殺は報道されない。だから、身近な人が自死しないかぎり、毎日80人もが死んでいくという実感を得ることもない。
 それが、この「硫化水素」問題により、逐一報道されるようになった。そのとたん、新聞の社会面は自殺に覆われることとなったのだ。
 私はこの、無関係な人たちが何人も同じ1日に自死していく、という実感に打ちのめされている。現実には、硫化水素以外で死ぬ人がさらに何倍もいるのである。そのすべてが報道され、紙面の何ページにもわたってその記事が羅列されている様子を思い浮かべてほしい。1日に80もの自殺記事を読むことを想像してほしい。しかもそれが毎日、途切れることなく延々と10年以上続くのである。それは、耐えがたいとか気が滅入るといった生やさしい言葉で表現できるような事態ではない。こんな常態にさらされて正常な心を保てる人間はいない。日々の根本的な感覚や常識が変わるだろう。自死していない自分を不安に感じ、風邪薬を飲むかのように死のうとすることになるだろう。
 それが今の現実の、正確な姿なのである。そのような社会に、私たちは生きている。ただ、自殺が目に見えないから、自分とは隔てられた出来事のように感じるだけだ。本当は、自死はすぐ隣にいて、誰にでも声を掛けようとしている。
 毎日80人を自死に追い込む社会は、一見そう見えなくても、怖ろしくゆがんでいる。チベットやビルマやウイグルとは違う形にせよ、無形の、得体の知れない強権に抑圧されている。その「強権」とは、いったい何なのか? それを直視しないと、自殺は減らない。
 硫化水素自殺が急増する中、まずはこの方法での自殺を阻止する当面の措置が必要なのはいうまでもない。でも、問題の要は、「硫化水素」にあるのではなく、「自殺」にあるのだ。だが、報道を始め、この話題をめぐる言説は、「硫化水素」ばかり見て、自殺で死んだ者の具体性をカッコに入れてしまっている。死ぬ人をとりあえず脇に置いて、目を逸らしている。そしてそのまま放置している。死人など存在しないかのように。
 私はこのことに強い違和感を覚える。それが自殺社会を作り出している「強権」ではないのか、と問いたくなる。耐えがたいのは、そのことだ。
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by hoshinotjp | 2008-05-11 11:09 | 社会