カテゴリ:社会( 74 )

 昨日4日の日記に書いた件で、さくらちゃんのための募金活動に携わった友人の話で、次の3点のことを確認した。
1.募金活動に関わったメディアの人たちは、それぞれ矛盾する考えや疑問は抱えながらも、最終的に「さくらちゃんの命を救うために」協力した。
2.さくらちゃんのご両親のみならず、この募金活動に関わった他の人たちの個人情報も、2チャンネラーたちによって調べ上げられ、ネットに公開された。むろん、ネット上で協力を訴えた自発的なサイトなどは集中砲火にあった。
3.そのような被害に遭った人の中には、元2チャンネラーや今でも2チャンネルを愛用している者たちもいた。

 4日の日記で私は「2チャンネラー的」という言葉を使ったが、これは象徴的な言い方である。すべての2チャンネル使用者がそこに含まれるわけではないし、むしろ私の想定する「2チャンネラー的2チャンネラー」は少数派だろうし、2チャンネル以外にも「2チャンネラー的」な行動をする集合はたくさんいる。2チャンネルというわかりやすいイメージの言葉ではなく、もっといい表現を探せばよいのだろうが、今のところ見つからない。でも、2チャンネル的な性質はやはり2チャンネルという環境が用意したと私は思うのである。利用者がそれに感化されるかどうかは別として。

 しかし、こういうことをここに書いていると、ものすごく虚しくなる。複雑な思いはあったがそれを横に置いて、助かることを優先し、私は募金をした。だから、その複雑な思いを公に明かすことはやめ、助かることを願っていたはずなのに、結局、こうして書いている。
 移植が必要な子に協力をする、という目的が、別なことにすり替わってしまったという虚脱がある。イラク人質事件のときもそうだった。人質が助かるために何をできるのか、人質はなぜ拘束されて何を要求されているのか、という観点が成立せず、「人質の家族、何様だ」というどうでもよい国内問題に変わってしまった。
 命を救うためには何もかもカッコにくくってよい、とは思わない。命を救う、という問題は、無数に政治的な手続きを伴う(国に訴えればいいのか、メディアを駆使すればよいのか、草の根的に訴えるべきなのか、どういう言い回しなら共感してもらえるか、どの金なら受け取れるのか云々)。「命を救う」という言説自体が、非常に政治的でもあるのだし。
 でも、その政治性を避けようとしたり、政治性に捉われてしまうことばかりを批判したりしていると、肝心の目的が消滅してしまう。それらを考えてある程度議論することは必要だが、どこかでその政治性を主体的に引き受けることでシャットアウトしないと、つまり、「いろいろな落とし穴や問題があることは理解したが、それが現実に問題を引き越したら自分が責任を引き受けるので、とりあえず踏み出そう」という態度に出ないと、「するべき必要なこと」は失われてしまう。これはこの募金のケースについてだけではなく、社会のいたるところで起こっていることで、文学の世界も例外ではない。
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by hoshinotjp | 2007-01-05 13:22 | 社会
 毎日新聞で「ネット君臨」という興味深い企画が元旦より連載されている。毎日新聞社会部は、この社会をヒビのように分断しつつある細かな境界(差別)の実態を、非常に力を入れて報道している。例の「縦並び社会」を始めとして、重要かつ優れた企画が多い。
「ネット君臨」初回で取りあげられたのが、移植でしか助かる道のない心臓疾患を持つ子どものための募金活動が、ネット(2チャンネルを中心とする)で狙い撃ちされた事件だった。まずは記事を読んでほしい。
 さくらちゃんというその子のための募金に、私もごくささやかながら協力した。私の友人がさくらちゃんのご両親とNHKの同僚であり、この募金を教えてくれたのだ。
「さくらちゃんを救う会」のサイトを読んで、正直なところ、最初は私も複雑な思いではあった。募金の目標額は1億数千万円。ご両親は記者会見をし、各大手メディアに大きく取りあげられ、募金は驚くほどの短い期間で目標額に達した。私は、既得権益層だからなせるわざだと思った。メディアの関係者たちがその優良なネットワークを駆使して募金のお願いを協力に訴えたがゆえに、可能だったのである。それ自体はいいことだが、誰にでもできるわけではないことは確かだ。これが例えば何の人脈もない中小企業の平社員の家庭であったら、メディアがどこまで取りあげてくれるかわからないし、1億円を超える募金を集めるのは絶望的だろう。
 通貨価値のずっと低い地域だったら、この額で一体何人の人間を救えるだろうか、とも考えた。むろん、そう考えたところで、無意味である。この日本社会で生まれ育ったさくらちゃんが、助かる可能性のある移植手術を受けるためには、この額がどうしても必要なのだから。そしてご両親にとっても、これはそのような比較が意味をなさない、絶対的な手段なのだ。
 そう考えて、私は募金をした。ただ、この社会のトップクラスの特権階級に属しているがゆえにこの募金は成立しているということだけは、よく認識しておきたいと思った。私とて大手メディアに多少は知り合いがいて、もしかしたらこのようなケースで優遇を受ける立場にあるかもしれないのだ。
 さくらちゃんのご両親が、ネットで当初から大非難を浴びていることは知っていた。しかし、自宅の登記簿や自宅の写真がネット上にさらされたことまでは知らなかった。自宅前に携帯電話のカメラをじっと構えている者もいたそうだ。
 イラク人質事件の時と同じである。内容はどうでもいい、批判に論理もない、とにかくバッシングできる対象であるなら徹底的に叩きのめして、恐怖のどん底に突き落としてやりたい。そういうネット上の盛り上がりを、「祭り」と呼ぶらしい。
 もはやネットでの誹謗中傷は、ネット上のことに留まっていない。この記事では、やはりターゲットにされた人の個人情報、すなわち本名、夫の名前や勤務先の電話番号、住所、自宅の写真にいたるまで、2チャンネラーによって洗い出され、次々とネット上に公開されていくさまが描かれている。
 もちろん、違法な行為であり、裁判で争われた場合には、2チャンネル管理人が有罪となるものの、行方のわからない当人の元に判決文が届かないという理由で、判決は執行されていない。
 つまり、匿名とは、責任の主体になることを拒否する態度と言える。責任を取らずに、違法な行為に及び、自分たちの力に屈しそうな誰かを叩きのめすというのが、ネット上の悪意の「腕力」ということになる。この社会そのものの前提を拒絶している、ある意味でテロ集団とも言えるし、ネオナチ的な存在とも言える。それらと違うのは、お互いの構成員すら知らず、構成員であることも一瞬一瞬で変化するという、徹底した主体のなさだ。
 この傾向は何も日本だけの特徴ではなく、ネットが爛熟した情報化社会ではある程度共通して起こっていることだとは思う。けれど、悪意の質と、その悪意を発露させずにはいられない異常な執着に関しては、日本社会の問題であると思う。オウム真理教教団は、日本社会のグロテスクな鬼子だったが、2チャンネラー的な集合も私には日本社会のデフォルメされたネガ像として映る。日本社会と表裏一体であり、日本社会が現状のようである限り、切り捨てることはできずにつきまとう存在が、2チャンネラー的集合ということだ。
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by hoshinotjp | 2007-01-04 12:36 | 社会
 いじめ(恐喝)のあった小学校の校長が自殺した。このひと月で何人の校長が自殺しただろうか。これが下の世代にとって最も身近な生き方のモデルケースとなることを、社会はよく認識しておくべきだ。
 今のいじめをめぐる報道や対応は、それそものもがいじめと似たようなメンタリティによって動いているようにさえ感じられる。世の多くが流れる方向にみんな一斉に流れ、同じようなコメントをし、誰かをスケープゴートに祭りあげて「けしからん」とぶっ叩く。何度も言うけれど、いじめ的な、集団による排除という処世術しか、今の日本社会は知らないかのようだ。それを根本から変えるには、個々人がそれ以外の生き方もありうることを身をもって示そうと努めるしかない。
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by hoshinotjp | 2006-11-12 22:23 | 社会
 「いじめ」問題がエスカレートし、問題の本質から離れていっている。伊吹文科大臣宛に自殺予告の手紙が届いたとき、メディアはこんなに巨大に報道していいのだろうかと私は不安になったが、今日、2件目の自殺予告の手紙が届いた。また、いじめの現場を録画しネットで流していた高校に、抗議の電話を2チャンネルが呼びかけたところ、その高校が今日電話攻めにあったという。
 自殺予告が本当に切羽詰まってのものか、あるいはイタズラか、いずれにしても一種の悪乗りであり、歯止め無くエスカレートする悪意の発露であり、「いじめ」という現象に根本的に取り組むという姿勢からは最もかけ離れた態度である。
 こういった行為に歯止めが掛けられないのは、例えば履修漏れ問題で相変わらず校長が自殺するだとか、談合などの汚職が発覚すると県幹部が自殺するといった「実例」が後を絶たないからだ。彼らの行為は自殺をしてよいというメッセージになり、死ねば校長という地位と引き換えに本当は負うべき責任を果たさなくてよいとGOサインを出しているようなものだ。ここで歯止めとして必要な「信用」というものが、むしろなし崩しにされていく。悪意に対し、つけ込む余地をせっせと提供しているようなものである。
 この連鎖はもう少し続くだろう。やがて飽和すると、忘れられていくのだろう。肝心のいじめの構造には少しも踏み込まれないままに。そうやって、誰からも関心を向けられないままいじめが続くという状態が再び繰り返され、事態は秘かに悪化していくのだろう。オウム事件以降、この社会は反省という行為を忘れたようだ。
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by hoshinotjp | 2006-11-09 23:25 | 社会