カテゴリ:サッカー・スポーツ( 61 )

 サッカーという競技のよい点の一つは、誰でもどこでもできるということである。11人制のサッカーに限らず、フットサル、適当な人数での草サッカー、ブラインド・サッカー(盲人のサッカー)、聾唖者のサッカー、車椅子のサッカー、ボールのないエア・サッカー……。
 私がこのところ肩入れしているのが、ホームレス・サッカー。路上生活者の活動で、ビッグイシュー・ジャパンが支えている。じつはホームレスサッカーにはワールドカップまである。しかも毎年。2008年の南アフリカ大会の模様はドキュメンタリー映画にもなって、日本でも今年、公開された。
 日本からも過去2回、代表が出場している。その名も、「野武士ジャパン」。侍ジャパンなどより強そうではないか。最初が2004年のイエーテボリ大会(スウェーデン)、2回目が去年のミラノ大会。ミラノ大会の野武士の姿は、フジテレビの「NONFIX」で放映された。毎年は出場できないのは資金の問題である。
 そして現在、ホームレス・サッカーのプレーヤーたちは、来年秋のパリ大会目指して、練習を積んでいる。コーチは、サッカーを本格的にやっていた若い衆がボランティアで務め、ただいまディフェンスの猛特訓中である。ここふた月ほどで劇的に上達したと思ったのだが、今日はCITIグループのフットサル大会に参加して、まだまだであることを思い知らされた。
 私は夏にたまたま参加してから、荷担するようになった。最初は応援しているという気持ちから、サポートのつもりで顔を出したのだが、最近はあたかも自分がフットサルをしたいだけのような感じになっていて、どう関わったらよいのか思案していた。
 で、思案した結果、このままでいいや、と結論した。
 ホームレス・サッカーも、「路上文学賞」と同じじゃないかと思ったのである。要は、ピッチという同じ地平の上で、誰であろうが構わずサッカーを楽しんでいることが肝心なのだ、と。ピッチの上に立つ者たちの間に線引きはなく、ただサッカーをしたい人たちがいるだけ。
 そのような意識を持つことは、なかなか難しい。でも回を重ねて一緒にプレーしていると、いつの間にか、そんな心境になるのだ。野武士の連中が上達して嬉しいと私が感じるのは、同じサッカー仲間が上達しているからだ。
 さらに私が未来のビジョンとして妄想するのは、そのような線引きのないサッカーが、路上のあちこちで展開されている図である。まるでホコ天のように、ある特定の曜日の特定の時間に路上が開放され、サッカーをしたい者が集まって、そこここでサッカーをしているのだ。そんなストリート・サッカーが日常の光景になればいい。
 路上の開放は、今の私たちを縛っている目に見えない網から解放されることである。路上が公共の名のもとに自由に使えない社会は、いつも何者かの目に怯えて生きる社会である。日本は今、業界だったり世間だったり学校だったり、それぞれのコミュニティ内部の目に怯えてみんな生きている。路上を開放するということは、その視線の縛りを無効にすることだ。
 そんな気持ちと考えから、「フットボール・ゲリラ」という短編小説を書いた。来週発売予定の新しい文芸誌「In The City」(ビームス刊)に掲載されています。
 ホームレス・サッカーや野武士ジャパンに関心を持った方は、こちらのブログから担当者にご連絡ください。
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 小学5年で見たモントリオール五輪以来ずっとオリンピック・フリークだったが、近年はどこかに冷ややかな気持ちがある。それでも、テレビをつけて放映していれば延々と見てしまいかねないが、現在は忙しくてそれどころではない。その中でも、サッカー東アジア選手権の日韓戦は見たのだから、今の私にはやはりオリンピックよりサッカーのほうが重要だということだ。結果は無内容の試合で1-3の敗北。
 私がこれまで見てきた日本代表で、最弱のチームだと思う。なぜなら、可能性と意志の強さが皆無に等しいからだ。これ以上何もできないだろうと、見ている者に思わせる、ネガティブで知性のないチームだからだ。オシムが教えた、走ること、考えること、はすっかり忘れてしまったというのか? その両者がじつは不屈の闘志を意味していたことは、オシムのジェフ時代に証明されていた。そしてそれは、ワールドカップに出場するチームならどこも最低限の資格として持ち合わせている条件である。
 やはり、予選突破した時点で、監督交代すべきだった。頭打ちであることは、サッカーファンの目には明らかだった。個人の闘志がもっとも薄い日本に、それを教え込むのは、日本の監督ではまだできない。
 ミルチノヴィッチの名が上がったりしているようだが、私は、シャムスカがよかったと思う。ブッフバルトでもいい、Jリーグが培ってきた外国の監督なら、あと3か月でも何とかなるのではないか。と言うか、何とかならず、監督を交代して失敗しても、今の監督のままでいるのと変わらないのだから、代えたほうがいい。「リスクが大きい」とかではなく、もはや冒せるべきリスクさえ残っていないのが、このチームなのだ。「リスク」を侵すとは、攻めの姿勢で臨むという意味で、現状の代表はリスクが何かもわかっていない。
 むろん、これは岡田監督のみの責任ではない。岡田監督は自分の存在を賭けて、自分にできることを必死に行ったと思うが、たんに力が足りなかっただけだ。より悪いのは、プロとしての責任や自覚や、サッカーをすることへの情熱の足りない選手が、代表にいることだ。それはドイツワールドカップでも証明されていたのに、なぜまた同じことが繰り返されているのか? それがこのチームの知性の低下を招いている。
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 昨日のサッカー、ナビスコカップ決勝、川崎フロンターレ対FC東京は、石川や長友を欠くFC東京が、劣勢と自認した結果、とても集中した厳しいサッカーで優勝した。フロンターレは関塚監督の言うように、「弱点が出た」。能力は高いが自信過剰なところがあり、情勢をやや安易に捉える傾向がある。安易に考えていたとおりにはうまくいかないと、平常心を失って強引に力業を発揮しようとする。そして自滅していく。ACLの名古屋戦もそうだった。
 この弱点は、試合後の表彰式にまで出てしまった。叱られて逆ギレした子が開き直るかのように、思いきりふてくされた態度を取ってしまった。
 この未熟さ幼稚さがフロンターレの弱点であり、優勝を妨げ続けている原因のひとつだろう。運が悪いのではない。勝つために必要なメンタリティをまだ身につけていないのだ。それさえあれば、今ごろ4冠を達成していてもおかしくないチームなのに。
 悔しさを表すのが悪いとは思わない。何よりも、自分たちのふがいなさが許せなかったのだろう。だが、そういうままならなさを受け入れるのも、プロの条件である。勝てなくて癇癪を起こす選手が、大きな成果を手にできるだろうか(1990年のワールドカップ準優勝を受け入れられずに泣いて悪態をついたマラドーナはどうなんだと言われると、天才は例外としか言いようがないが)。
 オシムは、「サッカーで起こることはすべて、人生でも起こる」と言った。アルゼンチンでは、子どものころはリーベルプレートのサポーターだったという映画監督が、人生で味わうあらゆる感情をサッカーで学んだ、歓喜も絶望も、と言っていた。受け入れがたい敗北を受け入れることは、自分の人生を受け入れることだ。
 敗北を受け入れる精神力を身につけなければ、日本のサッカーはいつまでたっても大舞台では弱いままだ。強豪フロンターレの選手たちのメンタリティは、じかに日本代表のメンタリティに反映される。私はたまに等々力競技場にも観戦に行くフロンターレのシンパでもあるので、フロンターレに優勝してほしかったが、残念ながらまだ時期は早かったようである。
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 Jリーグ、首位がめまぐるしく変わる。
 私がいま最も敬意と共感を持ってその文章を読んでいるサッカーライターの、大住良之さんが、東京新聞の連載コラム「サッカーの話をしよう」で、次のようなことを書いていた。
 ドイツのリーグ(ブンデスリーガ)では、年末でだいたい前半戦が終わるのだが、その時点で首位に立っているチームがそのまま優勝する確率が非常に高い。首位に立っていることが自信となり、さらに強くなり、勢いを増していく。おおむね、海外の強豪とはそうした傾向を持っている。
 ひるがえってJリーグを見ると、勢いに乗って首位に躍り出たチームが、そのとたん緊張して固くなり、それまでの勢いをなくし、歯車の噛み合わないサッカーで負け、首位を陥落していく。そうやってめまぐるしく首位の譲り合いをする優勝争いを、頻繁に繰り返している。見ているほうは面白いかもしれないが、これは成熟したサッカーの姿ではない。そろそろ、成熟した首位争いをしようではないか。
 そんな趣旨のエッセイで、私は大変共感した。浦和が圧勝した年を除くと、たいていはそのように優勝が決まっているとさえ言える。特に今年はひどい。
 これが日本のサッカー文化の現状である。ジーコ監督は、日本の選手はどうしてゴール前で普通にシュートが打てないんだ、と理解に苦しみ続けた。オシムは、日本人は失敗して責任を問われることを極端に恐れるメンタリティが身に染みつきすぎていて、適切なリスクを冒す習慣がないから、ゴール前で落ち着きを失う、と指摘した。
 浅田真央もしかり。これは、日本の社会を覆う、過剰な同調圧力の結果だと思うのである。円谷幸吉の時代から変わっていない。
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 2016年のオリンピック開催都市、東京は落選。
 この件をめぐる、ここ何日かの報道を見ながら、何だかなあと思う。石原都知事が「東京招致」をぶち上げたとき、経済状態は苦しく格差社会はひどくなる一方でオリンピックなんか呼ぶより他にするべきことがあるだろう、という空気は強かった。だから、都民の支持も日本国民の賛同も今ひとつ得られず、盛り上がらなかった。メディアの多くも、同じような論調で、オリンピック招致に距離を置いていた。
 それが、開催都市がいよいよ決定するとなったとたん、そんな空気を忘れたかのように、急に「開催大歓迎」一色になった。メディアはもちろん、ちまたの人々も。そして落選が決まったら、招致が長年の夢だったかのごとく落胆している。
 またもや「納豆ダイエット」か、と思う。なぜこうも、ちょっと流れができると、それまでの自分の態度や意見などなかったかのように消し去り、まったく別の態度を平気で取れるのか。まともな人が常にそんな環境に置かれたら、ダブルバインドに陥り、心の病になってしまうはずだ。事実、そのような人が続出しているのが、いまの日本社会である。当然だと思う。
 オリンピック招致は、スポーツ関係者はいざ知らず、そもそも、石原都知事が自分の都合で打ち出した政策だ。自分の都合とは、都市銀行の失敗を取り返すためと、ナショナリズム教育に大変よろしいこと、である。そんな都合でスタートした招致に、メディアが何のてらいもなく乗っていいのか?
 そんなわけで、私は東京開催にならなくてほっとしている。アメリカ開催のオリンピックは強烈なアメリカ至上主義に覆われるので、シカゴでなくてよかったとも思う。
 ではリオは?
 オリンピックが大好きだった昔なら喜んだかもしれない。けれど、今はオリンピックそのものから気持ちが離れてしまった。ドーピングや水着や器具の祭典は、白けるばかり。北京五輪もまったく見なかった。
 リオデジャネイロは、ブラジルの中でも最も犯罪の多い都市である。その原因は、極端な貧困層が分厚く存在していることだ。スラム街(「ファヴェーラ」という)はさまざまな映画の題材にもなっている。
 オリンピック開催のため、犯罪を減らすため、行政はこのスラム街を力ずくで「浄化」するのだろうか。これまでのオリンピック開催の陰では、常にこの浄化が行われてきた。ラテンアメリカには、1968年のメキシコ五輪開催直前、学生の反対デモを軍隊が銃撃して殲滅するという、暗い歴史が刻まれている。
 ブラジルやリオの政府が、力ずくの排除ではなく、社会福祉や経済的な支援政策によって貧困層を解消し、治安を改善するならば、リオ五輪は後世に名を残すことになるだろう。そうなってほしいものだ。
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 Jリーグ、また審判が試合を壊した。首位争いの鹿島対川崎戦だったので、リーグそのものの意味を壊したといっても過言ではない。1-3で川崎リードの後半30分ごろ、豪雨のため岡田主審が試合を中断、30分後にゲームそのものが中止となった。何とルールによりノーゲーム、再試合となるのだそうだ(追記・再試合にするのかどうか、このゲームの扱いは15日に決めるそうだ)。
 雷が鳴っていたのなら仕方がない。けれども、ただの豪雨。確かにピッチは池状態で、ボールは転がっていなかったけれど、そんな中でゲームをすることなど、サッカーではごく普通のあたりまえのことではないか。雪のグラウンドでだってゲームは行われているのに、あの程度で白熱した好ゲームを中断したあげく、中止とは。せめて、1時間ぐらいは待ってもよかったのではないか。中止にするのは、選手か観客の健康をいちじるしく損なうような場合のみではないのか。観客の帰宅のことは観客に判断させればよい。フットボールを理解しないこの事態にあきれるばかりである。
 ルールもおかしいのではないか? 何年か前、リーガ・エスパニョーラで、ベティス対レアル・マドリードの試合が、照明の故障で前半のみで中断となり、後日後半のみが行われたことがあった。45分1本勝負となったため、両者冒頭からセーブをかけずに全力で打ち合い、ものすごいゲームとなったのを覚えている。たとえ15分だけでも、中断した部分からのゲームとすべきではないか。
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 8月は仕事と夏休みで、ほとんどこの日記を書けなかった。
 遅ればせながら、今日、サッカーのオランダ代表対日本代表の試合を録画で見る。結果を知らずに見たのだが、驚きの大変少ない内容で3-0の敗北。
 確かに前半は悪くなかったけれど、オランダが日本を脅威に感じたかというと、そうではないだろう。よくやったので手こずった、という程度ではないか。優勝候補になり得るチームとの対戦はいい経験にはなっただろうが、本当にこの経験が生かされるのかは、私は疑問だ。経験が生かされるようになるのは、こういう試合を何十何百と重ねた果てだろう。
 この日本代表が、これから劇的に変化するとは思わない。ワールドカップまでに積み重ねをして少し精度は上がるかもしれないが、ゴール前で相手の守りを待ってあげるかのようなのろい判断、相手が日本のサッカーに慣れてくると打開策を持たずに単調になり逆に押されていくパターン、そして押し切られてミスから失点するとそのまま失点を重ねて負けるメンタルの弱さ、といった弱点はこのチームでは克服できないように思える。なぜなら、それらは日本人に染みついた文化だからだ。これを変えるには、異文化が日本に入り込む必要があるのだが、残念ながら岡田監督はそのような異文化を体の中に持っていない。だから、オシム監督の時のような、何か見たこともないものが持ち込まれることで未知の領域を進んでいくようなことは起こらない。異文化との衝突がなければ、日本のサッカーを「日本化」することはできない。現状は「日本化」ではなく、ただ内輪化しているだけのような気がする。それは、Jリーグのレベル低下を見ても明らかだろう。
 でもサッカーはどんなことが起こるかわからないので、私はワールドカップ本番を悲観しているわけでもない。
 ところで今、別のワールドカップが行われ、日本チームも戦っている最中である。ミラノで行われている、ホームレス・ワールドカップである。日本代表は「野武士ジャパン」というニックネームで参加。今のところの戦績は6チームでの第1次グループリーグを1勝4敗で終えたところ。初戦、対ウェールズ戦は0-14で負け、2戦目のカザフスタン戦で3-0の初勝利をあげるも、南アフリカには1-17、ハンガリーに1-15、ナイジェリアに4-16と、やはり世界は厳しい。野武士ジャパンが参戦するのは2回目なのだが、まだまだサッカー文化が浅い日本、これからである。今日からは、グループを組み替えての第2次グループリーグが始まる。
 大会に向かうまでの様子はこちら。日本チームの試合結果はこちら(英語サイト)。
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 Jリーグ大分トリニータ、シャムスカ監督解任。オシムが日本代表を去ったことの次ぐらいに無念な出来事。これほどまでにチームと一体になって、サポーターに愛され、チームを誇れるブランドにまで育てたシャムスカ。大分の監督になるさいの姿勢からして、私は尊敬してきた人物だった。大分をリーグ優勝に導いてから勇退してほしかったのに(そしてやがては日本の代表監督に)、まさか今季、こんな形で去ることになるなんて。解任は仕方ないと思うけれど、そういう合理的な考え方が受け入れられないような悲痛を感じてしまう。大分には、何が何でもJ1残留してほしい。
 サッカーで起こることはすべて人生でも起こりうる、というオシムの言葉をまた噛みしめる。
 それに引き替え、前シーズン終了後、強引に松田監督を切った神戸は、今やどうなったか? 何となく、ここのフロントはヴェルディの失敗を追っている気がする。もっとサポーターや人材を大切にすべきである。
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 Jリーグ、優勝争いのキーポイントとなる川崎フロンターレ対鹿島アントラーズ戦。私は今はアンチ鹿島なので、比較的シンパシーを感じている川崎に肩入れしていたが、途中から、このチームが優勝してはいけないと思い始めた。
 先取点を取るまではよかった。ホームで、勝ち点差8を5に詰めるチャンスという試合で、フロンターレは最初から攻勢に出た。勝つ意志が、それなりに表れていた。しかし後半に入ると、一人退場を出して数的不利の鹿島に対し、フロンターレはちんたらした試合運びをする。本当に鹿島に勝って優勝したいのなら、ここでは単に勝ち星を挙げるだけでなく、鹿島を圧倒しなくてはならない。なのに、運動量で鹿島に劣り、追加点を無理に取るより逃げ切ろうという姿勢を丸出しにする。
 このようなチームは優勝するには値しない。勝つという意志がチームにみなぎっていない。まして、10人でも点を取るすべと経験を持つ鹿島相手である。守勢に回ったら、必ずやられる。その不安どおり、ちんたらした守備ラインでのパス回しをマルキーニョスに狙われ、カットされ、興梠の同点弾を食らった。
 鹿島はどのチームからも狙われる王者にふさわしい力とタイトなサッカーをしているとは思う。だが、アジアチャンピオンズリーグでは決勝リーグに進むことさえままならない、対外的な試合には精神的にとても弱いチームなのだ。そのチームが、Jリーグでは圧倒的な王者として、首位をぶっちぎっている。つまり、Jリーグというリーグは、その程度のレベルだと言われても仕方がないのだ。
 内輪では強いのに、外では緊張して実力を出せない。日本代表とおんなじではないか。当然である、日本代表の大半はJリーグの選手なのだから。鹿島は日本サッカーのメンタリティを象徴している。この鹿島を強烈な意志と力で突破するチームが登場しないと、Jリーグのレベルは上がらないし、日本代表が抱える弱点も変わらない。にもかかわらず、2位の川崎がホームでこのていたらく。コンフェデ杯でアメリカが見せたようなサッカーを、日本は真似して近づくことはできても、本番でそれを発揮するメンタリティは非常に薄いままだ。
 鹿島に勝つ意志を見せられないで、ワールドカップで勝つことはできるのか?
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 日産スタジアムに、マリノス―レッズ戦を見に行く。
 私は当初、2つの物語を設定していた。1つは、去年の開幕戦だったこのカードを私は見に行き、浦和の時代の終焉をまざまざと見せつけられたわけだが、それを覆すこと。浦和は新たな時代に入って上昇中であることを、ほかならぬこのカードでの勝利で示せれば、去年の呪いは解かれるのだ。
 もう1つは、中村俊輔の復帰したマリノスに対し、山田直紀がその力を発揮し、日本のエースの交代が始まろうとしていることを告げる試合になること。こちらは、中村俊輔の復帰が破談になったので、かなわなかった。
 で、前者の目的を果たしに出向いたのだが、結果は2-0の完敗。去年の呪い(オジェックのかけ捨てていった呪い?)は解けず、浦和はまだまだであることがはっきりと示された。まだ若いチームなんだからこれからだと虚しくつぶやいてみる。
 その新生浦和の象徴、山田直紀ばかりを、私は試合の流れすらも見えなくなるほどに注視していた。そしてここで私はいま一つの物語を見てしまう。中田英寿がブレークしたころとの類似である。山田直紀は何度か、スペースにパスやスルーパスを出したのだが、そこには誰も走り込んでいなかった。そのさまが、中田のスルーパスに味方が反応していないということのよく見られた、10年ちょっと前を思い出させたのである。
 もっとも、今日の浦和は全体が動かず走らず、山田直紀のパスも意表を突くようなキラーパスでもなく、たんに山田暢久などが怠惰だっただけだが。Jリーグの選手は必ずしも運動量が多いわけでも俊敏なわけでもないと前回書いたけれど、その格好の例だった。山田直紀も今日はすごくいいわけではなかったけれど、あまりにひどい浦和の中で独り、気を吐いていたのは確かだ。
 ただし、致命的なミスもした。1点取られて浦和が思いきり前がかりになっているときに、ハーフウェーラインあたりからスルーパスを狙って、横浜の選手にカットされたのである。一瞬にして横浜は人数をかけて襲いかかり、浦和は2点目を奪われた。苦い教訓となっただろう。
 闘莉王、阿部勇樹らの代表組のコンディションの悪さは当然として、なぜほかの選手まで鈍かったのか。守備はザルで、横浜の選手の飛び出しを何度も許した。もっとも、マリノスだってよかったとは言えず、前半の30分は視野の狭い感じで浦和陣内になかなか入り込めず、浦和の守備のまずさに助けられて押してからも、シュートはことごとく枠を大きく外れ、このままではマリノスも自滅するぞと私は思っていた。それ以上に浦和が自滅したので、マリノスはきれいな2点を決められた。
 それにしてもレッズは、対マリノス戦となると元レッズの選手にやられることが多い。河合とか山瀬とか。
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