カテゴリ:映画( 18 )

 7月10日の日記で書いた、岡村淳さんの「下手に描きたい」。サウダージ・ブックスの淺野卓夫さんが、ブログですばらしい評を書いている。
 これを読んで、いきなり思い出したのは、10歳前後のころ、アルファベットの記された乾パンみたいな木片を組み合わせて単語を作る遊びに熱中したことだ。そのころ、私の父親は病気がちで、しょっちゅう入院していた。母親はその看病に忙しく、私が帰宅しても不在であることも多く、それを心配したのか、私は同じマンションでごく小さな英語教室を開いている、アメリカ帰りの年配の女性のもとに、友だちとともに週一で通わされていた。そこには、アメリカで生まれた私に英語を覚えさせておこうという意図もあったと思う。
 だが、英語の勉強は退屈で、すぐに飽きてしまった。それで先生は、クロスワードパズルを積み木にしたような、アルファベットの木片を組み合わせて英単語を作るおもちゃを持ち出したのだ。
 私はハマった。いつもその遊びばかりをしたがった。おかげでちっとも英語は覚えられなかったが。
 2歳半でアメリカから帰ってきたころ、私は日本語の文章に英単語をところどころ交ぜてしゃべっていたという(赤ん坊の荒川修作かよ?)。両親は日本語ネイティブなので、テレビや近所の子といった環境の影響で覚えたのだろう。まあ、gunとかmoonとか、その程度だけど。それで、1歳上のいとこを途方に暮れさせていたという。
 何しろ記憶がないので、事実かどうか、確かめようがない。あくまでも親の記憶にすぎず、40数年の前のことだから、それも物語化されていることだろう。
 ただ、そのような思い出を聞かされた小学生の私は、不安に陥った。私には決定的な欠落があると、漠然と感じていた。アメリカ生まれ、ということを、ないことにしたい気持ちがあった。
 まあ、こう書いていること自体、物語化にすぎないとも言える。今の私との因果など、わかりようもない。
 ともかく、「下手に描きたい」を見てから、何のスイッチが入ったのか、自分の忘れていた幼少期の感覚が次から次へとよみがえる。しかも、淺野さんの文章からさらに喚起されてしまうことの不思議さ。一体、何が起こっているのだろう?
 16日(金)は、岡村淳さんフェスティバルの千秋楽である。まずは押さえたい3強、「郷愁は夢の中で」「ブラジルの土に生きて」「あもーる・あもれいら 1&2」で幕を閉じる。横浜のシネマ「ジャック&ベティ」へ急ぐべし。
 ちなみに、14日に岡村さん2時間一人語りを聞きに行き、飲み会にも行き、どうしたら豊かに生きられるのか、またひとつ、人生で大切な姿勢を教わった。
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by hoshinotjp | 2010-07-15 23:51 | 映画
 今日から横浜のシネマ「ジャック&ベティ」で始まった岡村淳さんのドキュメンタリー映画祭(16日まで)。私は、今現存する世界中のドキュメンタリー映画作家で、最も最前線にて、最も妥協なく闘っているのが、岡村さんだと思っている。こんなに妥協なく筋を通している表現者を私は他に知らない。
 でも岡村さんの作品は、一見、そんな過激には見えない。ちまたの目からこぼれ落ちる人々を、きわめて辛抱強く長い時間をかけて追い続ける。とてつもなく優しく、かつ打たれ強いまなざしで。そうして対象となる人との信頼が築かれていくさままでもが、映像に収められる。
 岡村さんの長篇全作品が一挙に映画館で上映される機会は、じつは初めてだ。これは画期的な出来事なのだ。この機会を逃さず、ぜひとも岡村ワールドと、岡村さんという人間を体験してほしい。すべての上映で、岡村さんのトークがある。このとてつもない魅力を持った岡村さんを生で見るだけでも、価値があるぐらいだ。誰にも似ていない異才である。
 どの作品もお薦めだが、ひとつだけ見るとしたら、「あもーる・あもれいら」2部作は必見だ。これは岡村作品のひとつの到達点だ。また、長篇第一作である「郷愁は夢のなかで」も強烈な作品。自作の浦島太郎を一人で誰にともなく語り続けた孤独なブラジル移民の記録だ。この作品には、岡村さんのすべてが詰まっている。「ブラジルの土に生きて」は、前半は夫、後半は妻が主人公。私は後半の主人公である敏子さんに私淑した。この方の生きざまは、本当に人に勇気を与えてくれる。……と書いているとすべての作品に言及してしまいそうなので、詳しくは上映の案内を見てください。

 さっそく私も今日の夜の回の『下手に描きたい』を見て、即興で岡村さんとのトークをしてきた。
 ネタバレも何もない映画なので、率直に感想を書く。トークで話しそこなかったことも。話してしまえばよかったのに日記。
 画家の森一浩さんが、その場で抽象画を描く「ライブ」の様子が記録されるこの作品。岡村作品初の「密室劇」で(舞台と言ってもいいかも)、ただならぬ緊迫感が漂う。そして絵を描く合間に、森さんが絵と人生を語る。
 森さんの語る絵画の話は、私の考える文学と重なるところがあって、そこは人ごとでなく感じたのだが、じつは森さんの語る人生も、人ごとではなかった。ブラジル移民のことしてブラジルで生まれ、5歳で日本に移り住んだ森さん。移民の子ではないが、私はアメリカで生まれ、2歳半で日本へ移る。森さんのようにいじめられはしなかったが、自分がアメリカで生まれたことを口にしてはいけないという怯えとともに子ども時代を過ごした。違っていることはまずい、何とか「上手く」合わせていかないといけない。この「上手く」の対としてあるのが、「下手に描きたい」の「下手」だ。その意味で、私も「上手く」生きることから脱落するために、小説を書いている。つまり、小説を書くことが、「下手」であることなのだ。
 そんなわけで、やたらとシンクロしてしまう作品だった。ただ、絵を描いている場面を撮しただけとも言える作品なのに、その奥行きははてしなく深い。岡村作品の醍醐味である。
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by hoshinotjp | 2010-07-10 23:31 | 映画
 ユーロスペースでこれから公開される映画の予定を見たら、ほとんど邦画ばかりで驚いた。「ユーロ」スペースなのに。洋画配給が今ピンチにあるとは聞いていたが、ここまでとは。むろん、邦画が活況を呈するのはいいことなのだが、テレビドラマの延長みたいなものばかりが主流を占めているとなると、何だか喜べない。わかりやすさを要求し、自分たちと距離のあることにはあまり触手を伸ばさない観客たち。この邦画ブームと、文学が減って読み物ばかりが増えていることとは、同じ現象だ。
 今、活躍している日本の監督たちは、おそらく、メジャーな作品と同時に、ものすごくたくさんのメジャーではない邦画とメジャーではない洋画も見てきたと思う。それが映画を作らせているのだと思う。
 多様性を支えるのは、消費者なのだ。
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by hoshinotjp | 2009-10-22 22:10 | 映画
 ピクシー、すごい!!

 飯田基晴監督のドキュメンタリー映画『犬と猫と人間と』を、渋谷のユーロスペースで見てきた(監督のティーチイン付き)。心をわしづかみにされた。最初は、犬たちの、さまざまな感情を表した表情で。それから、その犬たちの感情の原因となっている、人間の行動に。
 このドキュメンタリーは、捨てられた犬や猫たちはその後どうなるのか、犬猫を処分する施設と、里親たちを探す人々の活動を追った作品である。
 そう言うと、自分は猫や犬は好きだけどそのテーマはちょっと映像では見られない、と思う人が多いだろう。私もそうだった。でも、この映画を見て本当によかったと思っている。私はますます犬が好きになった(最近、それまでの猫好きから犬好きへと変化しつつある)。犬はなぜあんなに可愛く、人の心を豊かにしてくれるのか、この映画に登場する犬たちを見ながら、その理由がほんの少しわかった気がした(この作品では、犬のほうによりスポットが当てられている)。
 長らくホームレスの支援活動を続け、映画『あしがらさん』も撮った飯田監督は、捨てられた犬や猫の立場がホームレスと同じように見えたという。私が上映中にすぐに連想したのは、虐待された子どもたちだ。親に暴力を受けたり見放されたりしたら、子どもたちはどう生きていけばいいのか?
 だが、子どもたちは施設に入ったとしても、処分はされない。犬や猫は処分される。そこまで同一に考えたくなるほど、この作品は、捨てられる側を通しながら、捨てる側の内面を見ようともがいている。その視線は少しも弾劾調ではなく、むしろじっと待っているような感じ。だが、けっして目は逸らさない。
 実際、捨てられる理由には、離婚や失職により自分たちが生きていくだけで手一杯になり、泣きながら飼い犬を手放すというケースがけっこう多いことが示されている。また、捨て犬猫を助ける活動に長くたずさわってきた登場人物は、人間の経済生活が最低限満たされ、紛争などもなく穏便な生活が営めて初めて、犬や猫に対しても優しくなれるということを強調している。
 映画によれば、日本では年間30万匹の犬と猫が処分されているという。1日1000匹の割合。日本社会では、1日平均100人の人が自殺している。
 胸の締めつけられる映画だったが、同時に、自分の感情が豊かになる作品でもあった。映画を見ている最中は、「人間であることが嫌になる」(飯田監督)のだけど、見終われば、「捨てるのも人間、でも助けるのも人間」(飯田監督)という言葉が自分の実感でもあることを知る。
 23日まで、16時10分の回の終了後、監督のティーチインがある。31日にもトークショー。渋谷のあとは全国各地でも上映が予定されている。
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by hoshinotjp | 2009-10-21 23:49 | 映画
 先日、お知らせしたキューバ映画祭。弾け飛んだ作品の連続で、度肝を抜かれっぱなしだ。
 まずトマス・グティエレス・アレアの「ある官僚の死」。埋葬した叔父の遺体を、官僚的な手続きのために、掘り返したり、今度は埋め直そうとしたら、手続きが間違っているということで埋められなくなったりと、滑稽などたばたが続く。不条理で笑えて主人公が気の毒で、カフカみたいな世界だけど、よくよく考えれば、日本の年金制度もこれとまったくおんなじじゃないか、と思い当たる。
 続いて「12の椅子」。キューバ革命で屋敷も財産も没収された元富豪が、自分の叔母が12脚の椅子のうち1脚の中に宝石類を隠していたことを知り、たまたま再会した元使用人とともに、その椅子を探し求める。競売で離散した椅子を探してキューバ各地を渡り歩くという、一種のロードムービー。元使用人が、うさんくさくかつお調子者のやり手で、世間知らずの元富豪と珍道中を繰り広げる。革命直後のキューバの町や田舎の風景がすごく色気に満ちている。間違いなく楽しめる一本。
 いずれの2本とも、歯に衣着せぬ態度で行政をも批判するような作品で、キューバでもこんな作品を撮れたのか、と驚く。革命後のキューバはじつは何でもありだったのだ、と再認識させてくれる。アレナスもそうだったし。
 ガルシア=マルケスの脚本教室から生まれた作品「愛しのトム・ミックス」、これもぶっ飛んでいて元気になれる作品。私は公開時にメキシコで見ていたが、まさか日本でも見られることになろうとは思いもしなかった。一種の「ドン・キホーテ」ものと言おうか。舞台は20世紀初頭のメキシコの小さな町。初老のおばさんホアキーナは、町の映画館でかかる西部劇「トム・ミックス」シリーズを愛するあまり、いつかトム・ミックスに略奪されてこの閉塞した老後から救い出され冒険に出ることを夢見て、しばしばトム・ミックスの気配を幻視している。一方、町には初老のカーボーイふうの男が流れて住み着く。何者かはわからない。ただ、体にはガタが来ていて、銃も投げ縄ももはや手につかない。ある日、非情な盗賊団が町を襲う。なすすべもない中、トム・ミックスが救出に来てくれると信じたホアキーナは表へ飛び出し、俺の出番だとばかり武装した流れの男も飛び出し、町の男たちは自警団を組織して乗り出し、入り乱れてしっちゃかめっちゃかの対決が始まる。
 ホアキーナと流れ者を演じるのは、メキシコとアルゼンチンの名優。ご都合主義のファンタジーなのに、見ているととてつもなく愉快な気分になって、終わりのほうはもう自分でもよくわからずじーんと涙ぐんだりしている。「12の椅子」や「ある官僚の死」もそうだが、話はぶっ飛んでいてめちゃくちゃなのに、そこに流れる感情はすごくリアルで生々しくて血が通っているのだ。だから大ボラなのに嘘くさくない。
「コロンビアのオイディプス」は、ガルシア=マルケス書き下ろしの脚本を映画化したもの。内容自体は思い切りマルケスの世界である。タイトル通り、物語はオイディプスそのもの。ゲリラとの内戦の最前線にある村で、村長として赴任した若い男は、高潔な正義感を持って停戦を実現させようとするが、内戦の現実に深入りして行くに従い、恐るべき真実を探り当てていく。マルケスの小説「予告された殺人の記録」やマルケス脚本の映画「死の時」などと共通する、神話的な運命の世界が好きな人は必見。ブニュエル映画のキーパーソンだったフランシスコ・ラバル(「ナサリン」の神父)が、ものすごい怪演を見せる。やはりブニュエルに見いだされたアンヘラ・モリーナ(「欲望の曖昧な対象」)も準主役で、その演技に私は度肝を抜かれた。
 以上は、この映画祭でないと絶対見られないであろう異色作なので、ぜひともこの機会を逃さぬよう。東京以外での上映の予定もあって、映画祭を一人で主催している(それ自体がすごい!)アクション・インクの比嘉さんのブログによると、
「名古屋シネマテークで10/31(土)から。
詳細は現在、調整中ですので、決定次第、
お知らせいたしますね~。
予定としては、
京都シネマ(12月予定)
大阪第七藝術劇場(時期未定)
神戸アートビレッジセンター(詳細未定)」
とのこと。お楽しみに。
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by hoshinotjp | 2009-10-01 16:11 | 映画
 今週末、9月26日(土)より10月9日(金)まで、渋谷のユーロスペースで、「キューバ映画祭」が開かれる。
 今回のは選りすぐりのラインナップで、ちょっとした集大成と言えるもの。どれも見応えがある作品ばかりだ。「低開発の記憶―メモリアス―」、「永遠のハバナ」、「苺とチョコレート」、「ルシア」などは、キューバ映画の基本中の基本の名作。熱いのに爽やかというキューバ社会の特質がよく伝わってきて、魅了されること間違いなし。
 上記の作品をもう見たという人には、「ある官僚の死」「12の椅子」が掘り出し物。キューバ映画の代名詞である、「低開発の記憶」「苺とチョコレート」を作った監督、トマス・グティエレス・アレアの代表作だが、日本では初公開。
 ガルシア=マルケスに関心のある人は、「コロンビアのオイディプス」「3つの愛の物語」などが必見。映画という観点からは、「彼女を見ればわかること」のロドリゴ・ガルシアのお父さんと言うべきなのか。「愛しのトム・ミックス」では、駆け出しのロドリゴ・ガルシアが撮影を担当している。
 見逃したら機会はなかなか訪れない作品ばかりなので、ぜひともユーロスペースへ出向くべし。
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by hoshinotjp | 2009-09-23 14:50 | 映画
 岡村淳さんのエッセイを久しぶりにアップロードいたしました。「ブラジル学の巨人・中隅哲郎伝 中隅みつ子夫人に聞く」の(下)です。タイトルは「ブラジル学と寅さん」。(上)の「アマゾンが原因です」と会わせてお読みいただくと、巨人・中隅さんの等身大のお姿がうかがえるでしょう。
 最後の段落が胸に来ます。得てして、昔に偉業を達成したり、尊敬されるべき高潔な生き方を貫いた男性は、伴侶である女性から、「生まれ変わっても一緒に? うーん、ちょっと考えますね。でも、やっぱりかわいそうだから。他の人にはまかせられないし」と言われることが多いですね。それがその時代の夫婦像だったのか。今の時代に生まれ変わって、お二人で生き直したら、どうなっていただろうかと夢想したりします。きっと、よりすてきなパートナーシップを築いていたんだろうなあと思います。
 さて、岡村さんはまもなく来日され、各地でライブ上映会を行います。夏らしく、合宿あり、オールナイトあり、レアな岡村淳研究もあり。かなりバラエティに富んだ企画満載です。ぜひ、「上映会実施のお知らせ」をチェックして、ご都合の合う企画に参加して、岡村ワールドを堪能してください。
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by hoshinotjp | 2009-08-04 23:58 | 映画
 今年2度目の訪日中である岡村淳さんの新作『さまよう人とともに マルゴット神父にきく』を、松原教会での上映会で見る。マルゴット神父は『あもーる あもれいら』の舞台であるアモレイラ保育園を設立した方。ベルギーで生まれ、カトリックの神父として日本に赴任、20年の布教活動ののちブラジルに渡ってアモレイラの町で活動、晩年の世紀の変わり目のあたりにはまた日本でデカセギの日系ブラジル人支援に奔走、ブラジルで生涯を終えた。岡村さんはマルゴット神父のインタビューを90年代後半に行っていて、このたび『あもーる あもれいら』3部作制作に当たって、メタレベル的な作品としてまとめたのである。なので、『あもーる あもれいら』と合わせて見ると、とても効果がある。
 マルゴット神父の言葉を聞きながら私が思い出したのは、スペインの映画監督ルイス・ブニュエルの言葉である。フィルムの寿命はたかだか50年程度、人間の世がまともになるなら自分の作品など消えてなくなっても構わない。私の記憶がアレンジしていると思うが、確かそんな言葉だったと思う。稀代の倫理的嘘つきであったブニュエルのこの言葉は、半分は嘘だと思うが、半分は本気も本気だったと思う。マルゴット神父にとってのカトリックは、まさに、「人間の世がまともになるならカトリックなど消えても構わない」というようなものであったのではないかと、私には思えた。ここ何年も、私は自分自身は信仰を持たずとも、人間にとっての宗教の必要性を感じてずっと考えてきて、どう理解してよいのかいまだに解答を得られずに来ているが、マルゴット神父の言葉はその疑問に対するとても納得のできる答えであるような気がした。宗教を、権威という概念から遠く離れた地平で実践している希有な聖職者だと思う。その人がアモレイラの保育園を作り、その活動を岡村さんが記録していることに、豊かなハーモニーが響くのを聴いた。
 続いて上映会では『あもーる あもれいら』の第一部を上映。私は約1年半ぶりの再見であるが、やはり『あもれいら』シリーズへの思い入れは特別で、映像が始まるなり自分の体内が柔らかく解きほぐされていくのがわかる。そして、新たにつけられた副題が『第1部 イニシエーション』と現れたのには鳥肌が立った。この言葉の力にガツンとやられた。『あもれいら』の世界を第2部まで見ている私には、入園初日からひと月ほどの間を描いた第1部が、入園した子どもたちにとってまさに園内社会へ入るためのイニシエーションの日々であることを痛感したし(「洗礼」という言葉では足りない)、何よりも、この言葉が日本社会の中で持つ「色」を変えてしまう命名だと思ったのである。
 ご承知のとおり、日本でイニシエーションという言葉がメジャーになったのは、オウム真理教の事件を通じてである。このため、「イニシエーション」には殺人集団の恐ろしい洗脳儀式であるかのようなイメージが染みついた。現に、岡村さんによると、この副題はオウムを思わせるからやめたほうがいいという意見もあったという。けれど私には、通過儀礼を意味するこの言葉の真意こそが『あもれいら』第1部にふさわしいと思われたし、この作品には、「イニシエーション」という言葉に染みついた「殺人集団の恐ろしい洗脳儀式」というイメージを払拭する力があると確信した。つまり、オウム真理教の事件が日本社会に与えたダメージと、日本社会がオウム真理教の事件を封印して見えなくさせようとする力、その二つの呪いを解く力が『あもれいら』にはあって、「イニシエーション」という言葉は呪いを解く呪文のようにさえ感じるのである。この呪文を「詩」と呼んでもよい。
 私たちは、まともに現実に対峙するために、『あもーる あもれいら』シリーズを、自らの「イニシエーション」として、通過する必要がある。
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by hoshinotjp | 2009-02-28 23:28 | 映画
 アカデミー外国語賞を獲った『おくりびと』、私も関心のある作品だから、受賞は喜ばしいことだと思う。しばらくは映画館も混みそうなので、見るのはもう少し先になりそうだけど。
 ただ、NHKのニュース番組で、アナウンサーがノーベル賞と並べたり、「日本映画が世界に認められました」とはしゃいでいるのは、知性を欠きすぎじゃないかと違和感を持った。アカデミー賞とノーベル賞を並べてしまうメンタリティは、WBCやらワールドカップやら、とにかくスカッとする祭りを求める今の世の傾向をそのまま表している。ニュースキャスターが世論と同じ地平で同じ方向を向いて報道をしてよいのだろうか?
 また、アカデミー賞はアメリカ映画業界の内輪の賞であり、「世界に認められました」は間違いである。ただ映画産業はハリウッドが圧倒的に巨大だからアカデミー賞が大きく見えるだけで、ベネチアやらカンヌやら東京やらの国際映画祭とは意味がまったく違う。「アメリカ=世界」と思い込んでいるような、あまりにベタで悲しい認識ではないか。さらに言えば、日本の映画はずっと昔から世界に認められている。あくまでも、世界のマーケティングに与える効果が大きいハリウッドで賞を獲ったことが快挙なのだと認識した上で、喜ぶべきだろう。国営放送のニュース番組なのだから、プロパガンダに乗ったかのような浮かれ騒ぎはやめてほしいものだ。

追記・映画館へ殺到する様子を見ていると、またぞろ「納豆」や「バナナ」の繰り返しかとうんざりする。ニュース番組でのインタビューで登場したおばさんのコメントが、これらの条件反射的殺到のメカニズムをよく表していた。曰く、「見たくないと思っていた映画だけど、アカデミー賞獲ったって言うから、見とこうと思って」。「見とこう(見ておこう)」というのは、「見よう」という個人の意思ではなく、一種の義務感である。つまり、みんなが見るから自分も見ないと、漏らさずに押さえておかないと、という強迫観念を示している。見たくないなら見ない、で筋を通してほしい。自分個人の判断を大切にしてほしい。さもないと、永遠に「世論依存症」から抜け出せず、中毒は深まるばかりだろう。
 ついでに、原作本まで爆発的な売り上げで、これまでの15万部からわずか2日で30万部へと増刷されたそうだ。反射的に一斉に同じ行動を取るこの光景は、やはり異常だ。この社会はまったく自覚のないまま、重度の強迫神経症に冒されている。
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by hoshinotjp | 2009-02-24 23:10 | 映画
  ◆ライブ上映会◆
 今年(2008年)は、日本からのブラジル移民開始百年だった。さまざまな催しが行われたので、ブラジル移民に関心を持たれた方も多いだろう。
 そんな方にお勧めしたいのが、記録映像作家、岡村淳さんのドキュメンタリー映画。約二十年前に自らブラジル移民となった岡村さんは主に、日系移民社会から少し外れて独自の生き方をしているマイナーな一世たちを、自主制作のドキュメンタリー映画として撮られている。
 ユニークなのは、作品の公開方法だ。商業とはまったく無縁のスタイルを確立しつつある。すべてが有志による自主上映会で、一部の例外を除いて、カンパ制(映画の制作費になる)。岡村さんが必ず立ち会う「ライブ上映会」とするため、作品を見られるのは年に何度か、岡村さんが訪日している期間のみ。その期間には、上映のオファーがあれば岡村さんは全国どこへでも赴く(上映会情報は、サイト「岡村淳のオフレコ日記」で見られます)。
 このネットワークは、驚くべき勢いで広がりを見せた。上映に来た人が、別の地域で上映会主催者になるケースが相次いだのだ。作品がすばらしいだけでなく、岡村さんとのやりとりが楽しいため、作品の世界が隣人のように身近に感じられてくるからだ。
 絵画でも映画でも、何もかもが商品として投機の対象になる現在、利潤を生まないのに成り立つこの方法は、自由化経済とは違う生き方ができることを証明している。
 小説もこれに倣うことはできないかと模索中である。
(東京新聞 2008年12月12日付夕刊1面「放射線」)

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by hoshinotjp | 2009-01-13 23:42 | 映画