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 卒論を読むために連日大学通い。今年は去年の倍ぐらい読むので、余裕を持って取りかかったつもりだったが、予想を超える力作が多く、早くも見通しが厳しくなっている。時間との闘い、マラソンをしている気分。じつは成績つけも終わっていない……。メールの返事等も書けずにいる。
 ブラジル在住の記録映像作家、岡村淳さんが、いくつもドキュメンタリーに記録されている在野の植物学者・橋本悟郎さんの貴重な資料群が、NHKの求めに応じて貸し出されたまま戻らず、他へ横流しされていたという事件について、NHK会長に公開質問状を送っています。岡村さん自身、『60年目の東京物語』を始めとする自作ドキュメンタリーが橋田ドラマ『ハルとナツ』に無断で盗用されたまま謝罪も説明もない、という事件を追及中で、これら二つの事件のこれまでの経緯と問題の本質を説明している報告文「緊急報告 NHK「ハルとナツ」の疑惑 その1」と同じく「その2」も、アップロードされたので、詳細を知りたい人、この件をおさらいしたい人はぜひ読んでください。
「納豆ダイエット」捏造のように、表面化すれば会社の存続に関わるような巨大な倫理の逸脱は、社会的に大きな現象にならないだけであって、他にもまだまだ起こっているのです。相手が日本には居住していない、フリーの一映像作家であるがゆえに、現象化することを力業で押さえ込んでいるような状態です。カネをめぐるNHK幹部らの不祥事も許せませんが、私はこのような個々人の言論や表現を尊重せずに収奪する体質や、政治権力に対してどんどん媚びるようになっている体質のほうが、NHKにとってより問題だと感じています。
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by hoshinotjp | 2007-01-27 22:08 | 社会
 確かに、とうなずかされた、可笑しい言葉をいくつか。
◎「物を食べているのにやせるというのは異常なことで、そんなことがあれば体に毒だ。」『あるある大事典2』納豆ダイエットでの捏造について、「納豆キナーゼ」を発見した須見洋行・倉敷芸術科学大教授。(毎日新聞1月21日朝刊)
  →確かに。どんな食物だって、食べた以上は体の一部になるのだから、増えるのは当然。減ったとしたら、それは毒だから。当然すぎて気づかなかった。ダイエット食というのは、痩せる食べ物ではなくて、カロリーの低い太りにくい食物のことだと思い直す。
◎「『ニヒリズムに裏打ちされた都会の孤独』とか言って、自分は知事として弱い立場の住民をどんどん切り捨てておいて、孤独が何だかわかっているのか? だいたいあれは、下落する人気を文壇の石原軍団と一緒に回復しようとする選挙活動じゃないのか?」。芥川賞会見に臨んだ石原慎太郎のコメントを見ての、私の知人の感想。
◎「法は国家にとって、ある意味で足かせとなるものだ。
 というのも、国家は法を措定することで、逆に法にしたがわなくてはならなくなるからである。自分で制定しておいた法を破っているようでは、法そのものが機能しなくなるだろう。民衆にたいしても示しがつかない。
 スピノザはいう。
思うに、統治権を握る人あるいは人々にとっては、酔って、裸で、遊女とともに町を歩き回ったり、俳優のまねをしたり、自らの定めた法律をあからさまに破ったり軽蔑したりして、それでいて威厳を保持することは不可能である。

 スピノザによれば、国家がみずから定めた法をあからさまに破ることは、統治者が「酔って、裸で、遊女とともに町を歩き回ったり、俳優のまねをしたりすること」とほとんど同じレベルにある。」萱野稔人『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社刊、87~88ページ)
  →萱野稔人の本は本当にスリリングで面白い。「俳優の真似をしたり」というところで爆笑した。スピノザがそう言っているのだ。
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by hoshinotjp | 2007-01-22 22:43 | 身辺雑記
 昼間に買い物に行ったら、納豆は少し売っていたものの、普段の1・5倍の値段が付いていた。バカらしい、と思って帰ると、納豆売り切れ現象の元凶である「あるある大事典Ⅱ」を作ったテレビ局が、納豆ダイエットを証明したデータが捏造(ヤラセと言っていいほど悪質)であると発表、謝罪したとのニュースが。(関連記事、その1その2)。
 この日本社会は狂っている。詐欺まがいの番組(あるある詐欺!)を見て、反射神経だけで納豆を買い占めに走り、報道も含めメディアも販売業者も、消費者のその暴走に遅れまいと必死ですがりついている。納豆がダイエット食で体によいことは常識だし、だからといって集中的に大量に食べるような真似が健康にいいとは言えないことぐらい、大人ならわかるだろう。仕掛けるほうも、消費するほうも、それを報じるメディアも、「三位一体」となって、無思考の集団暴徒と化している。つまり、全員が共犯であるため、誰も外からそれを止める存在がほとんどない。これがいじめとそっくりだと気づかないのか。
 その中で、今回は「週刊朝日」の記者が番組内容について突っ込んだ取材をした結果、でっちあげだったことが判明したという。暴走を止めようという人がいたのである。
 この現象がどうして多くの人の目に常軌を逸した不気味な光景だと映らないのだろう? ジャーナリストでなくとも、ちょっとでも懐疑的な目で見れば、番組の内容が正しいのか、連日納豆が売り切れるという事態は単なるブームと見なして片付けられるようなものなのか、この光景に反応できないメディアたちが正常なのかどうか、といった疑問が湧くはずだ。
 しかし、関連記事その2などを見ると、捏造したテレビ局がすべて悪くて、買いに走った自分は被害者であるかのような消費者のコメントが出ている。なぜ、こんなまるごと嘘みたいな番組があっけらかんと作り続けられるのかといえば、その嘘を鵜呑みにして行動する消費者が大量にいるからだ。騙されてでもいいから誰かに何とかしてもらいたいという人たちが、視聴率を大幅に上げてテレビ局に収益をもたらしているからだ。そんな己のメンタリティを棚に上げてテレビ局を非難する限り、この現象は収まるどころか、まだまだエスカレートしていくだろう。
 おそらく、今度はテレビ局に苦情非難の電話やメールが殺到するのだろう。買いに走った人も、何でもいいから誰かを叩きたい人も。そして肝心の納豆は、ダイエットに効かないのだししばらくは食べたくないと放棄され、消費が減ってしまう。製造業者が心配するように、効果のない食品というイメージが漠然と持たれてしまうかもしれない。
 芥川賞・直木賞をめぐる報道と消費を始め、同じ現象は枚挙にいとまがない。つまり、このファナティックな傾向は社会のあらゆるレベル、あらゆる事象において、日本人の日々の生活を進める原動力となっている。私はそれを原動力として生きるのはごめんこうむりたい。
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by hoshinotjp | 2007-01-20 19:17 | 社会
 今週で、大学の授業がすべて終了。足かけ4年続けた講義が完了した。最後ということもあって、先週、今週は睡眠時間が5時間程度にして飲み会の毎日が続き、さすがに疲労困憊。メール等の返信もままならず、すみません。
 まだこれから月末まで、レポートを読んでの成績つけ、それにたっぷりと卒論の審査が控えている。気は抜けない。
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by hoshinotjp | 2007-01-19 23:17 | 身辺雑記
 芥川賞、受賞はできませんでしたが、多くの友人・知人、仕事でお世話になっている方々、学生の皆さんが楽しんでくれて、私もこの祝祭期間を堪能しました。この場を借りて、その方々にはお礼を申し述べたいと思います。ありがとうございました。
 現在できる努力をすべてしたうえでの結果なので、私としてはこれで一区切りがついたと、さっぱりした気分です。賞には選考委員とのいかんともしがたい相性というものもありますし。
 これをもってして、私の新人作家時代は、名実ともに終わりとしたいと思います。「名実ともに」とは、これまで、「実」の面では私はすでに数年前から新人作家ではないと自分で思ってきましたが、「名」のほうでは新人というくくりに入れられるケースが時としてありました。ですが、今回の芥川賞選考の終了を期に、「名」のほうでも新人ではないことをはっきりと明言していきたいと思います。
 芥川賞は新人のための賞です。私は新人を対象とする賞を、すでに2ついただいております。もはや新人ではないと思っている者が、いつまでも新しい書き手たちの集う界隈でうろついているのも見苦しいので、私は新人の舞台からは退場するつもりです。皆さんにも、できる限りそのように認識していただけると、ありがたいです。
 むろん、小説を書くことにおいて、新人とか受賞歴とかは、本当は関係ありません。書かれた小説がすべてです。でも、小説家という職業の者も、社会的存在なので、対外的には「新人」「〇〇受賞作家」のような意味づけや位置づけが時に必要とされることも事実です。私もその社会で活動をしている以上、自分の意識とはずれている「新人」のくくりをあえて受け入れてきた場合もあるわけです。
 しかし、デビューから10年を迎え、大学の仕事も終わって専業作家となり、秋には「すばる新人賞」の選考委員も務める今年からは、精神的に新たな環境で、小説を書くことに専念したいと考えています。そのためにも「新人」という範疇からは身を引き、自分に「中堅」としての立場を課したいのです。
 よろしくご理解ください。
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by hoshinotjp | 2007-01-17 03:32 | 文学
3年間行ってきた合評の授業が修了。そのうちの第二文学部のクラスで、授業後に打ちあげ。そのときに学生たちからもらった花束。3年間の労をねぎらわれて、じーんと来る。
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by hoshinotjp | 2007-01-13 23:59 | 身辺雑記
 納豆売り切れの件に関しては、その後、友人から、それが7日(日曜日)のテレビ番組「あるある大事典」でダイエットできる食品として紹介されたことを教えてもらった。さらにその後、大手の納豆製造会社が、売り切れが続いていることについてのお詫びを新聞広告として出し、同時に大手メディア各社が一斉にが新聞記事にした。会社がお詫び広告を出すと同時に、新聞社が記事にするのはここ何年かよく見る光景ではあるが、お詫び広告より早く、自らの嗅覚と判断で記事にする感性は持ち合わせないのだろうか?
 この納豆売り切れ現象と同根の、異様な現象だと思うのが、DJ OZMA紅白事件への抗議である。紅白歌合戦の翌日、つまり元旦の新聞のオンライン版で私がこの出来事について読んだ記事には、700件以上の抗議・苦情がNHKに寄せられている、と書いてあった。そのときは、DJ OZMAは中学生の不良みたいだ、と思ったぐらいだった。
 しかし、昨日だかおとといだかDJ OZMAがNHKに謝罪に行ったという記事には、1700件を越える抗議・苦情がNHKに寄せられていると書いてあった。正月以降の10日ほどで、当初の倍以上、1000件の抗議があったことになる。
 抗議するような大した事件だとは私は思わないけれど、テレビで紅白を見ていて不快だと感じその場で苦情の電話などをする人がいることは理解できる。でも、2日も3日もたってから抗議をするのは、理解できないし不気味だ。テレビで目の当たりにした出来事を不快だと思って抗議しているのではないように見える。個々の身元を明かさなくてよいのをこれ幸い、人の尻馬に便乗して、とにかくぶったたこうとしているような。そして、そちらのほうがリアルタイムでの苦情より多いことに、狂気を感じる。
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by hoshinotjp | 2007-01-12 23:52 | 社会
 午後4時、近所のスーパーに買い物に行ったところ、いつもは豊富にある納豆がすべて売り切れていた! テレビで納豆が取りあげられたため売り切れとなったので明日の入荷をお待ちください、との張り紙がしてある。みのもんたの番組か? 4時といったら、これからお買い物タイムではないか。しかも、火曜日は最も客の少ない日のはず。実際、店内は閑散としている。昼時に番組を見た人がイナゴの大群のように押しかけて、去っていったあとには納豆だけがなくなっていた、ということか。ココアとかワインとかならまだしも、納豆が体にいいことなど、百万年前から常識ではないか。この異様なほどの一斉行動は何なのだ。
 ベストセラーに群がるのも、ヨン様ハンカチ王子人気も、郵政民営化選挙で雪崩をうって「小泉」に投票するのも、無数の虫の大異動のようで気持ちが悪い。反射神経だけで解消される欲望は、醜い。このように、安直な欲望を植えつけられてマジョリティを形成するという性質は、「いじめ」型の行動様式を生み出す一つの源泉となっている。どちらも、自分のもっと深層にある欲望、よくも悪くもその人をその人たらしめている欲望を直視することを避けている。さまざまな性犯罪や虐待は、そのような態度のいびつな裏返しだろう。
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by hoshinotjp | 2007-01-09 19:22 | 身辺雑記
 この日記、当分は更新できないと言っておきながら、新年に入って毎日書いている。でも暇になったわけではまったくなく、元旦に休んだだけで、私の仕事は2日から始まっている。本業の執筆が。
 来週、10日(水)に、早くも次の新刊『植物診断室』が文藝春秋より刊行される。これまでと少し書き方の変わった中篇で、おそらく私の作品でいちばん読みやすいだろう。でも密度は落としていない。自分で言うのも何だが、一点を除いて、完成度は高いと思う。私は必ずしも完成度を小説の価値とは考えないけれど、それでも完成度が高いのは悪いことではない。
 その変化は装幀にも表れていて、これまでと比べ、落ち着いたものとなっている。奇妙なものにもかわいらしくも、見方によってどちらにも見えるものを目指した。地に足が着いてるような、でも浮遊しているような。トップページをご覧ください。
 ところで、岡村淳さんの大晦日の日記にはびっくり仰天である。これは大スクープではないのか? なぜ日本語のメディアではまったく報じられないのか?(私が見落としているだけか?)
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by hoshinotjp | 2007-01-06 10:09 | お知らせ
 昨日4日の日記に書いた件で、さくらちゃんのための募金活動に携わった友人の話で、次の3点のことを確認した。
1.募金活動に関わったメディアの人たちは、それぞれ矛盾する考えや疑問は抱えながらも、最終的に「さくらちゃんの命を救うために」協力した。
2.さくらちゃんのご両親のみならず、この募金活動に関わった他の人たちの個人情報も、2チャンネラーたちによって調べ上げられ、ネットに公開された。むろん、ネット上で協力を訴えた自発的なサイトなどは集中砲火にあった。
3.そのような被害に遭った人の中には、元2チャンネラーや今でも2チャンネルを愛用している者たちもいた。

 4日の日記で私は「2チャンネラー的」という言葉を使ったが、これは象徴的な言い方である。すべての2チャンネル使用者がそこに含まれるわけではないし、むしろ私の想定する「2チャンネラー的2チャンネラー」は少数派だろうし、2チャンネル以外にも「2チャンネラー的」な行動をする集合はたくさんいる。2チャンネルというわかりやすいイメージの言葉ではなく、もっといい表現を探せばよいのだろうが、今のところ見つからない。でも、2チャンネル的な性質はやはり2チャンネルという環境が用意したと私は思うのである。利用者がそれに感化されるかどうかは別として。

 しかし、こういうことをここに書いていると、ものすごく虚しくなる。複雑な思いはあったがそれを横に置いて、助かることを優先し、私は募金をした。だから、その複雑な思いを公に明かすことはやめ、助かることを願っていたはずなのに、結局、こうして書いている。
 移植が必要な子に協力をする、という目的が、別なことにすり替わってしまったという虚脱がある。イラク人質事件のときもそうだった。人質が助かるために何をできるのか、人質はなぜ拘束されて何を要求されているのか、という観点が成立せず、「人質の家族、何様だ」というどうでもよい国内問題に変わってしまった。
 命を救うためには何もかもカッコにくくってよい、とは思わない。命を救う、という問題は、無数に政治的な手続きを伴う(国に訴えればいいのか、メディアを駆使すればよいのか、草の根的に訴えるべきなのか、どういう言い回しなら共感してもらえるか、どの金なら受け取れるのか云々)。「命を救う」という言説自体が、非常に政治的でもあるのだし。
 でも、その政治性を避けようとしたり、政治性に捉われてしまうことばかりを批判したりしていると、肝心の目的が消滅してしまう。それらを考えてある程度議論することは必要だが、どこかでその政治性を主体的に引き受けることでシャットアウトしないと、つまり、「いろいろな落とし穴や問題があることは理解したが、それが現実に問題を引き越したら自分が責任を引き受けるので、とりあえず踏み出そう」という態度に出ないと、「するべき必要なこと」は失われてしまう。これはこの募金のケースについてだけではなく、社会のいたるところで起こっていることで、文学の世界も例外ではない。
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by hoshinotjp | 2007-01-05 13:22 | 社会