<   2007年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 バブル崩壊期、野村證券が大手企業に損失補填を行っていたことが明らかになったとき、ちまたの怒りは「なぜ大企業ばかり優遇される」というものだった。ただ貯金をしているなんてバカだ、運用しない人間は愚かだ、という風潮に乗り、周囲の友人知人も私に財テクを説いてきたバブル経済期を、苦々しい気持ちで生きていた私は、損失補填発覚時の世間の反応に非常に違和感を覚えた。バブルを支えてきた自分たちの責任は吹き飛んで、被害者意識だけが前面に出ていたからだ。
 つまるところ、他人がやっているから自分もやらないと損、という考え方がすべてなのだ。あの当時から今に至るまで、日本社会のこのメンタリティは変わっていない。納豆ダイエットで納豆を買いに走ったあとで番組捏造が発覚すると被害者の顔をして苦情を言う現象から、次々と核武装する世界で日本も核を持たないでいると損だ、遅れてしまう、という考え方に至るまで。東京都のオリンピック招致も同様である。オリンピックが見たいという欲望だけで、どう考えても失敗する招致に賛成し(北京の次の次に東京に来るわけがない)、現実に招致に失敗したら、自分が賛成したことなど棚に上げ、莫大な税金が投入されたことに腹を立てることになるだろう。
 このようなメンタリティは、より大きな権力を結局は利することになる。イギリスがインドを宗教的に分割統治して、内部に対立を作り出すことで、植民地統治をやりやすくしたように。納豆の問題では、現政権で最も強権主義の危険人物である菅総務相が、放送について介入し放送局を罰するという前例を作るための、格好の口実を与えてしまった。
 そのような環境の中で重要なのは、「自分はしない」あるいは「自分はする」という態度そのものである。
 せこい話で恐縮だが、私も自分の書いた小説をもっと広く読んでほしい気持ちはある。そのためには知名度のある文学賞がいただければ効果は絶大だし、戦略的に狙うべきだと親身にアドバイスしてくれる友人知人はたくさんいる。それはとてもありがたいことだったし、私もそれをかたくなには拒まないようにしてきた。たいていの小説家は、同じような気持ちだろう。
 しかし、これ以上、その戦略の遂行に熱を注いだら、本末が転倒してしまうという地点がある。そこを越えてまで、傾向と対策を練る気にはならない。もともとのモチベーションを損ねてしまったら、小説を書く意味がない。私はこの十年間、できることはすべて行ったので、次へ進むことを宣言したわけである。
 私にとってもともとのモチベーションとは、社会で生きる上で必要な文学が消えていこうとしている中で、何とか文学を書こうと試みることである。だから、マイナーな存在として注目されないのはもとより承知のうえである。メジャーな賞を獲って少し注目されることも意味がないわけではないが、自分が文学だと思える作品をきちんと書いておくことのほうが本筋である。別に後世に残したいとか歴史が判断するなどと、未来に希望を託しているわけではない。先ほど述べたようなメンタリティの社会の中で、自分は必要だから文学を書く、という態度を維持したいだけである。それが自分個人を守るすべであり、ひいては取り込めない異物として、大きな権力に対しての歯止めとなりうるのである。
 さまざまな処世術的手段を、功利的に使っていくのは大切なことだ。それによって発言力を増し、社会に影響を与えることも必要だろう。しかし、メジャーであることよりも、個々人が譲らない一線を示すことのほうが、今現在の社会ではより重要だと考えるのである。その積み重ねでしか、根本的な変化は期待できない。それが私の文学のスタンスであり、存在意義だと思っている。
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by hoshinotjp | 2007-03-30 19:29 | 文学
「植物診断室」の入手が難しくなっているようです。対策が講じられると思いますので、今しばらくお待ちください。
 昨日が早稲田大学の卒業式だったのだけど、第二文学部の表現芸術系を卒業された鈴木共子さんのことが、今日の夜9時からのNHKニュースで報道されていました。鈴木さんは、7年前に早稲田大学入学直後の息子さんを交通事故で亡くし、その生き方をなぞるように自ら早稲田の二文に入って、学生生活を始めたのでした。3年前に私のクラスにも出席していて、命をリレーしていくことをテーマに小説を書いていました。映画『ゼロからの風』は、鈴木さんの生き方をフィクションとして描いた作品のようです。私も公開されたら見に行くつもりです。
 夜間部である早稲田の第二文学部には、鈴木さんや東国原・宮崎県知事のように、さまざまな経歴や立場の人が入学してきます。もはや単なる勤労学生や社会人学生のためのコースではなく、一般的な大学生活に疑問を感じた学生たちの集う場として、独特のエネルギーを発していました。その二文が、文学部の改変により、統合されて消えてしまうのは、何とも残念な限りです。大学生をしたいのではなく、何かを学びたい何かに挑んでみたいという人の意欲を吸い上げる場として、よく機能しているように私には思えました。端的に言えば、大学らしい大学空間だったのです。願わくば、この場が新しい学部に引き継がれてほしいものです。
 昨日は私にとっても、早稲田の最終日でした。研究室の片付けを終え、鍵とパソコンを返却し、卒業生のパーティに臨みました。次第に、この4年間の教員経験の意味を感じ始めているところです。それはこれからの10年の執筆生活に反映されていくことでしょう。授業で関わった学生には、とにかく充実した生き方をしてほしいというのが一番の願いですが、やはり小説家として世に出てくれる人がいたらものすごく嬉しいです。
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by hoshinotjp | 2007-03-26 23:46 | 身辺雑記
 アメリカが差し押さえていた北朝鮮の口座を解除することで合意。なりふり構わず成果を上げようとするだろうとは思ったが、ここまであからさまに態度を翻すとは。
 口座を解除するのは、犯罪者を口約束だけで釈放するようなものである。しかし、犯罪者をマフィアが法と関係なく力によって拘束していたのなら、力関係の変化次第では、取り引きによって拘束を解くことは普通にあることだろう。これで北朝鮮は、核兵器がいかに有効かという体験を蓄積し、決して手放すことはなくなるだろう。リビアの轍は踏まない、と思うことだろう。
 アメリカの転向により、日本は完全にはしごを外された。拉致問題とは今や、北朝鮮が日本に対し強気に出るための口実である。外交とは、沽券やメンツの問題ではない。日本政府にとって拉致問題は、相手を恫喝して自分のプライドを満たすのが目的ではなく、拉致された人を取り戻すことが目的である。その意味で日本は外交をしているとは言えない。アメリカに追従してきた成果である。
 アメリカは「悪の枢軸」北朝鮮を追い込めば政権を転覆できると考え、その結果、北朝鮮の核兵器開発を誘い、自らの追い込み政策を引っこめることとなった。「悪の枢軸」政策がいかに馬鹿げた幼稚な妄想であったかが、イラクに続いてここでも証明されてしまったわけだが、日本はその、無能な2代目が牛耳るマフィアに忠誠を誓い、行き場を失くそうとしている。今のアメリカにやみくもに追従することが、いかに自分たちの身を危うくするのか、考え直したほうがいい。日本は東アジアに位置している。この地理的条件は変わらない。信頼を築かないと、駆け引きすらできない。さもないと、今の北朝鮮のような路線をとるしかなくなるだろう。
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by hoshinotjp | 2007-03-19 22:04 | 政治
 サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)、夏のワールドカップ出場を決める。メキシコの地でメキシコ代表と闘うことがどれほど大変なことか、よくわかった。2600メートルの高度でボールがピンポン球のように飛ぶことが、キック力の弱い女子サッカーだからこそ、はっきり見て取れた。きわめて冷静沈着な若いキーパーの福元が頼もしかった。
 小説執筆が佳境。重宝しているのが、三省堂の「デュアル大辞林」。紙の大辞林第3版を買うと、オンラインでの辞書が使えるようになるのだが、これがとても使い勝手がいい。電子辞書に入っている国語辞典のほとんどは広辞苑で、広辞苑は有名だけど国語辞典としては必ずしも優れていないため、パソコンで書きながら大辞林が使えるようになったのはありがたい。
 それにしても、この日記の役割はそろそろ終わりかなあと考える。少なくとも、現状のまま続けていくことに意味を感じなくなっている。
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 女子サッカー日本代表(なでしこ)、ワールドカップ出場をかけてプレーオフの対メキシコ戦が行われる。4年前も同じ対決でワールドカップ出場を決めたという、因縁の対決だ。
 やっぱり澤だった。1得点1アシスト。でもその数字上の結果以上に、澤がこの試合をサッカーたらしめていた。
 日本の男子サッカーにおいて中田英寿だけが別格であったように、澤が日本の女子サッカーでは一人だけ別のステージにいることを、改めて見せつけられた。
 中田も澤も、見えている世界が違う気がする。サッカーとはあの広さの空間を22人で占めて行う運動だ、ということが、感覚として理解されているのだと思う。その意識とセンスの高さにおいて、この2人は他の選手とは別格なのだ。
 あとは、プロ意識の高さだろう。世界における標準、つまりあたりまえの部分がどこにあるかをよく知っている。それは高いプロ意識を持ったうえで、海外での体験を吸収しているからだと思う。
 それらの観点からすると、日本サッカー界は、まだ内輪意識の強い、半アマチュアみたいな選手が大半を占める。ジーコジャパンで中核をなしていた、なれ合いを何よりも大事にする連中とか。若手でも、中田や澤などよりずっとうまいと感じる選手はたくさんいるけれど、テクニックだけなら、小野がかつてフェイエノールトの監督に注意されたように、サーカスをやっていればいい。ただ海外へ移籍しても、内輪意識が巣くっている限り、平山相太のようになるのがオチだ。こういう状態は少しもよくない。
 メキシコ戦に話を戻すと、メキシコは決して強くなく、実力差は4年前と変わらない気がした。日本の選手は、私も知らない若手が増えて、技術、スピードは上がっている。けれど、サッカーの質が向上したかと言われると、考えてしまう。いつでも落ち着いた判断ができるチームなのか、心もとない。
 澤が得点を決めるまで、試合はもたついていた。アウェイゴールとなる失点を恐れたせいか、積極的に攻めに出ない。バックラインでボールを回し、前線に放り込むと行った退屈なプレーが繰り返される。放り込まれたボールを下がり目のフォワードの荒川が体を張って受け、キープし、澤に落とす。(ポストとなったときの荒川の体の使い方のうまいこと! 足もとの切れといい、覇気といい、澤井と荒川だけが序盤は奮闘して見えた)。しかし、そこまで。澤がボール持ってからようやく他の選手が走りだすので、澤は前にパスを出せない。メキシコも余裕を持って守備ができる。
 そのように選手が動かないので、パスを回そうとしても途中で奪われる。たまに前線までボールが渡って荒川なり宮間なり近賀なりがゴール前にクロスを上げても、ゴール前に人がいない。
 先制点のシーンは、左からサイドバックの宇都木がオーバーラップし、クロスを上げた。そのときは、ゴール前に荒川と澤がいて、エリア付近に宮間もいた。人数がいたから、澤はマークをわずかに外し、正確にヘッドを撃てた。
 緊張が取れてからは、チャンスをいくつも作り出した。特に後半、宮本を外して酒井(日本女子サッカー界のマケレレ)のワンボランチにし、投入された柳田が攻めを担うようになってからは、バランスがとてもよくなった。メキシコディフェンダーのがたいがいいので、トップは大野より永里のほうが効いていた。正直なところ、この試合は内容的に3点取らねばいけなかった。
 来週の第2戦はメキシコのホームである。2000メートルの高地なので、日本にはミスが多く出るだろう。そのミスが点に結びつくかが鍵となるのではないか。今日の試合でもメキシコは日本のミスを突いて、決定的となりそうな場面を2度作った。1度はキーパーの好セーブで、2度目はバーを叩いて救われた。ミスをしなければ、勝てる。その点で心配なのは、右サイドバックの近賀。オーバーラップでの攻撃参加が信条で、スピードはあるのだけど、守備でのボールの処理には大変不安がある。クリヤボールを相手選手に渡したり、その場で高く上がるハイボールにしてしまったり、足技でかわそうとして二人三人に詰め寄られ自陣深くでボールを奪われたりしていた。ダブルボランチにしていたときは、酒井がここを補助的にケアしていたが、後半、ワンボランチにしてからは近賀一人でこのエリアを受け持つことになり、ミスが目立ち始めた。アウェイにおいて、右サイドからの攻めと守備との兼ね合いを、大橋監督がどう考えるか。守備的にしすぎるとバランスが崩れ、今日の後半の入りみたいに後手に回るし。
 観衆は、1万人ほどだった4年前よりさらに数千人増えたようだが、前回、少数ながらその応援の愉快さで日本側を圧倒していたメキシコの応援団は、今回は30人ぐらいしかおらず、寂しい限りだった。私は日本を応援しつつも、メキシコのカラーである緑のセーターを着て、心情的にメキシコにも荷担した。すぐ近くに、メキシコの人気クラブチーム「PUMAS」の紺のトレーナーを着て、一人静かに観戦している日本人の若い男がいて、けなげだと思った。
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 毎日新聞で不穏な記事を読んだ(2007年3月8日付朝刊)。神奈川県政の問題についてである。県内の森林保護のため今後50年間で広葉樹を中心に1800万本を植樹する、という松沢成文知事の政策が、いつの間にか1740万本はスギ・ヒノキを植林することに変わっていたという。知事は政策を発表したとき、現在あるスギ・ヒノキの人工林の半分を広葉樹林に変えると説明したにもかかわらず、ほぼすべてがスギ・ヒノキに代わったわけである。
 重度のスギ花粉症である私の怒りたるや、あわや黒川紀章の真似をしようかと思ったほどだ。これだけスギ花粉症が蔓延してその対策が問題になっているのに、この期に及んでまたスギを植林するというのである。その理由は、木材として売れるスギ・ヒノキでないと、森林の所有者たちがOKしないからだそうだ。
 その植林の費用は、県民に新たに課される水源環境保全税でまかなうという。花粉症患者は、わざわざカネを払ってスギを植えてもらうというわけか。これが「環境保全」なのだろうか?
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by hoshinotjp | 2007-03-09 12:08 | 政治
 行きつけの美容室には、「マジカル・アイ」シリーズが置いてあり、順番を待つ間、それを眺めている。2つ並んだ同じ画像を、目の焦点を遠くして眺めているうちに突如立体的に見えてくるというあれだ。遠くを見るのと同じなので視力が回復する、という謳い文句に乗せられていることもあるが、いつまで見ていても飽きない。子どものころ、おまけなどでよくあったステレオ写真(表面がギザギザになっているやつ)を思い出す。
 小説を書いているときにも、あれを見ているのと同じことが起こる。それまで何をどう書いていいのかわからず、べったりと平面的な気持ちだったのに、しばらくぼんやりとその小説のことを考えたりプリントアウトを眺めていたりすると、突如焦点が合って、全体像から細部までが一気に見渡せ、立体的な気分でどんどん書き進むのだ。
 焦点がいつもすぐに合えば問題はないのだけど、その境地に至るまでに時間がかかる。2日ぐらいその作品から離れると、焦点を回復するまでに2日ぐらいかかる。つまり、漫然とするのに中一日が必要というわけだ。だから、どこかでカンヅメになったりすると、わずか3日とかでもものすごく書き進んだりする。寝ても覚めても焦点が合いっぱなし、あの立体的な画像の中に住んでいるようなものだから。
 そういう時間が一番愉しい。高揚する。何ものにも替えがたい。
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by hoshinotjp | 2007-03-08 23:06 | 文学
 私の長篇『ロンリー・ハーツ・キラー』は、いわば現代の「堕落論」とも言える。小説の最後のフレーズはそのように受け取ってほしい。
 では何からの堕落か?
 第1章では、語り手たち神隠しあった者らは、ある啓示を得る。霊的な超越者との一体感といおうか。それは流行りの言葉で言えば、「美しい国」である。その啓示に従って語り手たちは、「美しい国」の住人となるべく、個人である自分を捨てる。
 第2章以降に主役となるのが、「美しい国」の住人になる資格を最初から与えられていない者たちである。「美しい国」がじつは周到な排除のうえに成り立っていることが、最初から弾かれている者たちの目に映る光景として、明らかにされていく。しかも、突きつめるほど、「美しい国」を信じた者たちを含め、じつは誰も住人となる資格など持っていないことがわかってくる。
 では「美しい国」をどうしたらいいのか? そんなものは本当にあるのか。
 そこで「堕落論」の登場である。「美しい国」などどこにもないのだ、排除を謳う啓示とは幻影に過ぎないのだ、誰もがそこから排除されているのが「美しい国」なのであれば、排除された者たちの溜まり場たる現世へ立ち返って、目を覚ます以外に居場所はない。
 その意味で、『ロンリー・ハーツ・キラー』は、「美しい国」から下りよ堕ちよ、と呼びかける書である。
 むろん、『ロンリー・ハーツ・キラー』には、「美しい国」という貧しい言葉などどこにも出てこない。啓示としてある以上、それだけの強さと喚起力のあるヴィジョンとして登場する。1章の語り手たちがまがりなりにもその世界へ飛び込んでいこうとするだけの、道理と強い磁力のあるヴィジョンとしたつもりだ。
 そんなことを、近々文庫化されるためのゲラを読み直しつつ、考えたのだった。
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by hoshinotjp | 2007-03-03 18:35 | 文学