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 郵便がどうも異常なことになっている。私の友人でキューバ映画を配給(近いうちにこの映画を紹介します)している人が、試写状を送ってくれたのだけど、いつまでも私のもとには届かない。その旨を告げたところ、数百枚を料金別納で出したのだが、他にも何人か届いていない人たちがいるのだという。別の知人では、届くはずの速達が届かず、仕方なく取引先からもう一度送ってもらったところ、何と3か月もたってから最初に発送された速達が届いたことがあった。郵政公社の人が謝りには来たものの、どうしてこういうことが起きたのか、公式に説明を文書で求めたことに返答はなかったそうだ。他にも、お店の案内が届かなかったとか、同じ会社の同じ部署の2人に出したハガキが、1通はちゃんと届き1通は宛先人不明で戻ってきた、といった話も聞いた。
 年賀状が例年より大幅に配達が遅れたことは、郵政公社自身が認めたとおり。
 2年前のJR福知山線の大惨事は、民営化後のJRが効率よく収益を上げることに邁進した結果だった。それはJRが公共サービスとしての役割を忘れたからという言い方もできるが、そもそも民営化の本質とは、サービスの維持よりも何よりもまず採算を取れ、借金を返すためにどんなことでもしろ、ということなのだから、あの事故は、公共サービスの民営化が必然的にはらむものだったとも言える。
 今行われているいわゆる「改革」は、おしなべてこの路線の延長上にある。民営化された郵便もしかり。民営化で、金融(郵貯)のほうはうまく行っているが、郵便のほうは大変厳しいと聞く。効率化によるサービスの崩壊は早くも始まっているどころか、私がこれらの例から推測するに、想像以上にひどいことになっているような気がするのである。現場は一体どうなっているのか、知りたいところである。
 郵便というサービスは、届かないかもしれないという信用の崩壊のあとは、成り立ちようがないだろう。宅配便業者との競争に負けることになれば、郵便料金は大きく上昇する。それが格差を広げることは言うまでもない。
 これまでの官僚型社会がいいとは思わない。でも、「改革」について、私たちはもう少しわが身のこととして考えて政治に関与すべきではないのか。
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by hoshinotjp | 2007-04-29 23:46 | 社会
 ヴァージニアの銃乱射事件で気になったことの一つに、韓国のナショナリズムが巨大なフラストレーションを抱え込むのではないか、ということがあった。現実の差別を懸念するといったレベルを大きく超えて、過剰に「韓国人」意識が傷つけられ、自信を喪失するのだ。実際にそのような側面はかなり強く表れた。いったんは沈静化するだろうが、このトラウマはいつまでも残り、やがて強引に乗り越えようとしてさらにナショナリズムが過熱し、仮想敵や弱者を攻撃する欲求が突発的に高まるのではないか、と心配になる。
 同様の危うさは、現れ方が違うにせよ、日本にも根深く潜んでいる。そういったナショナリズムの熱狂を具体的に冷まそうと、日韓両国にまたがって言論活動を続けているのが、韓国の日本語文学者、朴裕河(パク・ユハ)さんである。『和解のために』(平凡社)『反日ナショナリズムを越えて』(河出書房新社)という二つの著書は、どちらに与するのでもなく、しかしエキセントリズムを排して粘り強く、「仮想敵」は幻想にすぎないことを丁寧に証明し、現実を見てつきあう方法を模索している。どちらにも与しないがためにどちらからも批判を受けうるにもかかわらず、決して宙吊りの立場を放棄せず、シニカルにもならない朴裕河さんの姿勢と言動は、深く敬服するに値するだけでなく、そのあり方じたいが一つの可能性ある生き方として示されていると思う。つまり、説かれる内容だけでなく、ご自身の身をもって、ナショナリズムの熱狂なき生き方を示されているのだ。
 聞き伝えで詳しいことは知らないのだが、最近、朴裕河さんが日本で語ったフレーズが韓国のネット上で取りあげられ、ものすごいバッシングに遭うという事件があった。朴裕河さんは自分の話した内容をすべてネットに掲載し、解説も加えたところ、事態は落ち着いたそうだ。
 バッシングは、その人の片言隻句や言葉尻を捉えたりすることで起こる。本来の文脈から切り離して、自分に都合のよい文脈に仕立て、けしからんと腹を立てるわけである。要するに因縁をつけるのである。そのためには、相手の実像などよく知らないほうがいい。相手の話すこと考えることの真意などわからないほうがいい。そうすれば、叩くためにどうとでも加工できるわけだから。仮想敵を生み出す熱狂のからくりもまったく同じである。相手を知りたがらないのではなく、わざと知ろうとしないのだ。
 その朴裕河さんに、私はきょう発売の長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』の文庫解説をお願いした。面識もないし、ダメでももともとと思っていたのだが、大変お忙しい中、お引き受けくださった。そして、一行一行読み進めながら手が震えるほど、素晴らしい解説を書いてくださった。本当に読み終わって私はしばらく茫然とした。この文章を読めたことに感謝した。自分の小説についてのリアクションで、このような心の揺さぶられ方をしたのは、2000年の日韓シンポジウムで韓国の作家たちが「裏切り日記」に対して意見を言ってくれたとき以来かもしれない。小説をとおして何かが深いところで通じた、という実感を与えてくれたのだ。
 小説を読まないと解説の意味もわからないとは思うが、私としては解説だけでいいから読んでほしい、という気分である。
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by hoshinotjp | 2007-04-25 18:32 | 文学
 統一地方選後半、私の注目していた中野区議候補の石坂わたるさん、杉並区議候補のあおと功英さんは、ともに落選。無念を感じる。現職でなく、初めての立候補の地方議員の新人候補者は、まず顔と名前を漠然とでも覚えてもらい、さらにどんなことを考えているのかを理解してもらうのは、本当に大変なことなのだろうと、実感した。当選しないとスタートしないのだから、もどかしいことだろう。

 久しぶりにサッカーの話。中村俊輔は間違いなく今、選手として旬であり、ピークにあると思う。この恵まれたチームに来季も残留するという決断を下せたのも、才能だと思う(チームを選ぶ才能のない選手は悲惨なことになる)。スコットランドリーグは他チームが弱すぎるといって中村を評価しない向きもあるが、歴代のセルティックやレンジャーズのスターを考えれば、その価値がどれほど高いものか、正当に受けとめるべきだろう。
 ただ私は、ワールドカップで本領を発揮できない選手は二流だと思っている。中村はトルシエ時代に代表に選ばれず、前回が初出場という不運があったにせよ、肝心のときに風邪で体調を崩し大ブレーキになるという、プロ選手としてはいささか疑問符のつく結果を残してしまった。この記憶を覆さないかぎり、私は中村が日本代表に絶対不可欠の選手だとは思わない。同じことは高原にも言える。
 それから21日のJリーグ、浦和VS川崎戦。今年は川崎の優勝を願っている私には痛快な結果となった。前半は、チームとして前節柏戦前半あたりからようやく機能し始めた浦和が、今期一番とも思える内容で押し、川崎はどこか萎縮して見えたが、両者無得点だったのがポイントだろう。後半の2点は、闘莉王の不在を感じた。川崎は得点したとたん、自信を持ってディフェンスもできるようになり、Jリーグ観戦者には内容のあるいい試合だったと思う。負けてホーム無敗記録が破れた瞬間、レッズのあの大観衆が巨大な沈黙でスタジアムに襲いかかったのには、恐怖さえおぼえた。「マラカナンの悲劇」(ブラジルがワールドカップを開催したとき、決勝でウルグアイに負けたこと)って、こんな感じがもっと何十倍にもなったようなものだったんだろうな、と思わせた。私はレッズの潜在能力はもっとあるのに何となく勝ってしまうから伸びないと思っているので、さらなる成長のきっかけとして、こういうショックが必要だと思う。
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 いくつかの報道で、今回のバージニア工科大学銃乱射事件ののちアメリカ社会では、「身を守るためには銃が必要だ」と考えている人の割合が半数前後に達する、という記事を見た。私の講読している毎日新聞では、誰だか忘れたが、銃所持の権利を守る立場の人のコメントで、「このような危険があるから銃所持は必要だ。撃たれた人の中に誰か一人でも銃を持っている人がいたらこんな悲劇にはならなかっただろう」というようなことを言っていて、本末転倒な理屈をよくもまあ、と思ったけれど、アメリカ社会の半数は同じように考えたわけである。これが、銃の存在がアイデンティティの中に組み込まれている社会のメンタリティだと思う。
 そのうちの多くの一般市民は、漠然とした恐怖に駆られて、無意識に擦りこまれたそのメンタリティを発動させたのだと思う。しかし、一部の銃を重視する者たちにとっては、危険な言い方だが、今回の連射事件はある意味で歓迎すべき待望の事件だったとも言える。ほら見ろ、社会にはこんな恐ろしい危険がありうるのだ、だから銃が必要なのだ、という主張を堂々と展開することができるわけだから。それは、自分の正当性を証明するためには叩くべき敵を必要とする、というナショナリズムの構造とそっくりである。そして実際、今度の事件は、東アジア人の移民という、異様な他者として捉えるには格好の人物が引き起こしている。
 これまでのようにアメリカに根づいた白人が今度の事件の犯人だったら、「身を守るためには銃が必要だ」と考える人の割合は、もう少し少なかったかもしれない、と私には思えるのである。今回の事件がより強い恐怖を煽るのは、単に死者の数だけでなく、東アジア人に対する漠然とした差別意識(あのビデオもそれを助長している)と、ナショナリズムとによる部分もあるのではないか。
 ただそれは、韓国人は怖い、異常だという意識ではない。人種の違うものに対する、得体の知れない他者という感覚である。韓国社会がそれを、韓国民族への蔑視につながると考えるのであれば、それは韓国社会が抱える過剰なナショナリズムの問題であって、アメリカ社会の問題とはまた別だ。民族主義と人種差別の微妙なズレがそこにはある。
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by hoshinotjp | 2007-04-22 23:03 | 社会
 明日は統一地方選後半の投票日。私が注目しているのは、中野区議選挙と杉並区議選挙です。私自身はその地域の有権者ではないけれど、気になる候補者がいるのです。
 まず中野区議選では、石坂わたるさん(無所属)。擁護学校の教員という立場、またゲイであることを自ら明らかにしている立場から、さまざまなマイノリティとマジョリティの共存に取り組んでいる人です。詳しくは石坂わたるさんのサイトこちらも)を見てください。
 議会とは、同じような立場と利害の人が集団となってその集団の利益のために政治を行う場ではなく、それらが異なる者たちが一堂に会して、同じ社会に住む以上、利害の調整をするために知恵を出し合う場です。そして、首長の指揮する政府をチェックする機関でもあります。わたるさんのような人が議員になると、議会が本来の役割を取り戻すように私には思えるわけです。
 もう一人の注目、杉並区議に立候補しているのは、あおと功英(こうえい)さん(社民党)。青砥君、と呼びたくなるのは、私が2002年に早稲田大学の第二文学部で授業を持っていたときの学生だからです。単に自分の学生だったから注目しているわけではなく、彼のブログを読んで大変共感したからです。学生時代にはおよそ政治の世界に行くとは思えなかったあおとさんを、政治の場に押し出したのは、切り捨てられ放置されている同世代の人間たちとのつき合いのようです。慶應の経済に入学し、準体育会系の部で子どものころからのライフワークである野球をするも、将来勝ち組を約束された者たちの「あたりまえ」についていけず、早稲田の二文に入ってきたあおとさんは、目線が社会の低い部分にいつもあります。彼の書いたレポートは今でも覚えていて、私がこのサイトでもたびたび紹介する岡村淳さんの生き方についてでした。あおとさんは、岡村さんの生きざまと作品に激しく共振しているのでした。レポートの中には、ちょっと問題だなと思う部分もありましたが、現在のブログを読んで、彼がさらに経験を広げ、視野や考えが深くなっているのを知りました。
 社民党からの立候補というのも、ちょっとびっくりしました。しかし、これも彼のブログを読むうち、よく理解できました。例えば、私は今の社民党にあまり期待を持ってはいませんが、それでももし政党に入って議員に立候補しなくてはならないとしたら、仕方なく社民党を選ぶでしょう。あおとさんは、社民党の異端児を自称しています。でもこれは事実で、選挙用のキャッチコピーだけではないと思います。よい意味で、社民党を壊してくれるかもしれません。なぜなら、あおとさんはノンポリだからです。彼には、社会の中で変えたいことがあり、それは政治的にしか変えることができず、そのために政策面から何とかしようと議員に立っているのであって、おそらく旧来の社民党的な常識はほとんど理解も共有もしないでしょう。でもそういう人が社民党に増えたら、私はもっと期待を持ちたくなると思います。
 夕張市の破綻は、日本全国ほとんどの自治体にとって、他人事ではありません。財政が健全で余裕のある自治体などほとんどないでしょう。破綻するということは、住民は「お上」に頼れないということです。税金を払っているのだから各種行政サービスを受けて当然だ、という前提が崩れるのです。税金はよりたくさん払わねばならないのに、行政サービスは乏しく、住民は自分でどうにかしなくてはなりません。
 自分が住んでいる一番身近な地方自治体の政治は、じつは住民にとって最大の死活問題なのです。まともな行政を持てるかは、住民自身の責任だと思います。
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by hoshinotjp | 2007-04-21 18:46 | 政治
 長崎市長銃撃事件、カタギの無防備の市長を背後から銃で至近距離で撃つというのは、暴力団員としてもどうなんだろう、任侠の世界でも最も恥ずべき行為なんじゃないのかと思っていたら、犯人が幹部を務めていた水心会が解散した。そりゃそうだろうと思っていると、それは偽装解散で、別の組として再結成し福岡の組の傘下に入るという情報があるらしい(西日本新聞)。
 暴力団を追い続けている溝口敦氏の言を俟つまでもなく、暴力団はかなり逼迫しているようである。今日も町田で、同僚組員を射殺した中年のヤクザが自宅に立て籠もっているが、その自宅は都営アパートである。数か月前には、赤坂や六本木で縄張りをめぐる抗争があった。少ないパイの奪い合いになっているのだ。
 漠然とした印象だが、ヤクザの世界もグローバリゼーションの高波に荒らされ、〈格差社会〉が進んでいるような気がしてならない。
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by hoshinotjp | 2007-04-20 15:23 | 社会
 ブラジルより、記録映像作家の岡村淳さんが訪日中です。お知らせが遅くなりましたが、各地で上映会が開かれているので、お近くの方でご興味のある方はぜひ足を運んでみてください。すべて自主上映、つまり有志が集まって上映会を行い岡村さんご自身も参加するという、新しい上映スタイルが確立されつつあります。これぞソーシャル・ネットワーキング・コミュニティーのリアル・ヴァージョンだと思います(カタカナ語ばかりですみません)。
 ちなみに今週土曜日(21日)は、下高井戸シネマの「優れたドキュメンタリーを見る会」主催の特集上映として、10:40分から代表作の一つ「60年目の東京物語」ともう一本シークレット上映があります。岡村作品を劇場で見るチャンスです。

 もう一つお知らせ。「公研」という経済業界誌で、インド研究者の中島岳志さんと対談をさせていただきました。現在はヒンドゥー・ナショナリズムの研究者として、また論壇の若き実力者として、急速に注目度が上がっている中島さんですが、本来が文学の人であり、とても内容の濃いお話ができました。私がなぜ中島さんの本に、他人事ではない感覚で惹かれてしまうのか、その理由が自分でよくわかりました。
 対談でも触れているのですが、中島さんにはいつか、「アジア主義」についての大きなお仕事をしてほしいなと思っています。
 経済業界紙で会員配布のみのようなので、一般的には目にしにくいでしょうが、お知らせまで。
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by hoshinotjp | 2007-04-19 13:32 | お知らせ
 長崎市長銃殺事件は、現段階での報道を見るかぎりだが、ことの重大さに対し、犯人の心根のせこさがあまりに不釣り合いで、こんなことで亡くなったことが幻想のようでさえある。
 この事件は刃物でも犯行は可能であったかもしれないが、やはり銃は単なる凶器という以上の大きな役割を果たしていると思う。10年前に少年の間でバタフライナイフが流行り、殺人を犯してしまう事件が相次いだが、馬鹿にされたくない強く見られたいという少年がナイフを持つように、この容疑者は銃を手にしたのではないか。つまり銃は、それを手にすると自分がオールマイティだと思えるような、権力のシンボルなのだ。
 アメリカの場合はやはりもっと根深いものがあるだろう。銃がアイデンティティ(開拓者精神だとか)の一つの柱をなす社会が200年も続けば、銃を持つ権利を失くすことは、アイデンティティの危機や去勢への恐怖を引き起こす。でも今のアメリカには去勢こそが必要だと思うのである。銃規制は、対症療法などではなく、アメリカ社会の精神構造を変えるために避けて通れないハードルだと思う。
 銃は、他人に恐怖を感じさせる威力の大きいアイテムである。このような象徴に頼って他人を威圧したい、尊厳を傷つけてやりたいというメンタリティは、攻撃的な性格の強い政治家に頼ることで自分たちの威信を取り戻したいという風潮とどこか似ていて、とても厭だ。
 毎日新聞の記者の意見に同感(民主党についてのくだりは除く)。ついでに毎日新聞から。アイデンティティのことでいえば、鷲田清一氏の解説は、参考になると思う。
 それにしても、長崎市長選挙はどうなるのだろうと思ったけれど、何だか釈然としない。義理の息子の出馬は、市長が銃殺されたこととは別の話だし、と言って、残りの3人だけで市長選をするのも変だと思うし、要するに想定していない事態だったのだろう。
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by hoshinotjp | 2007-04-18 23:28 | 社会
「すばる」のための小説を脱稿。今月はゴールデンウィークがあるため、締め切りが他の月より1週間以上早いのだ。なので、まる2週間、私は自宅缶詰状態だった。フットサルも雨で中止になったおかげで、本当に一歩も外に出なかった! 足は萎えるし、お腹は出る。朝の9時に寝て昼の2時に起きるなんて日が何日も続いた。さすがにふらふらである。
 脱稿した瞬間が一番気持ちがよく、解放感に浸ってニュースを見て愕然。バージニア工科大学で銃乱射により32人が死亡し、長崎市では選挙中の現職市長が銃で撃たれて危篤。
 バージニアは事件自体もショックだが、報道で流布する言葉にも消耗させられた。犯人はまず「アジア系」と言われた。FBIは、その可能性はまずないがそれでもテロの可能性は捨てずに捜査する、というようなことを表明した。この二つを重ねると、アラブ系のテロのイメージが事件の周縁にぼんやりと含まれる。
 次に日本のメディアで登場したのは、犯人は「中国人の留学生という情報もある」だった。そして、今はバージニアテックで勉強している韓国人留学生が容疑者だとして名前も出ている。
 そうやって東アジア人だということになると、その大学にいる日中韓など東アジアの人たちが何となく居心地の悪い思いをするのではないかと心配になったりする。
 それらの犯人像のイメージが含み込む空気みたいなものに、私は過敏になってしまった。
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by hoshinotjp | 2007-04-17 23:48 | 社会
『植物診断室』の今月下旬の増刷が決まった。担当の編集者の尽力によるものであるが、失われたこの約ひと月が戻ってくるわけではない。それでも、このまま発売ふた月での品切れに甘んじなければならないのかと思っていたから、首都圏やオンライン上の書店での品薄状態が改善されるのはありがたいことだ。
 今は書店での本の置き場所や置き方が、売れ行きをものすごく左右する時世である。だから書棚のいい場所に置いてもらおうと、出版社の営業の人たちは攻勢を掛ける。新刊書として出たときに宣伝をかけ、その時点でいい棚を確保し、書店員にポップを立ててもらったりすることに力を注ぐ。ネット上では、検索でできるだけ上位にヒットされることや、売れるオンライン書店で「お勧め」として取りあげてもらうことが重要になる。
 書物のそのような消費傾向に私は批判的ではあるが、少しでも読まれるためにはこの傾向にまったく逆らうことはできない。書店でそれなりにお客さんに手にとってもらっている段階で品切れになるというのは、せっかく確保した「いい棚」を放棄するに等しい。私は、出版社の営業部がそのような判断をしたことが、とても残念だった。
 小説を書き手と一緒に作っている編集者たちは、その本は自分たちの作品でもあり、懸命に世に出そうとしてくれる。だが、営業部には営業部の基準と道理がある。そのぶつかり合いでトラブルとなり、書き手が怒るという例は、私も何度か見聞きしてきた。実際に自分が当事者になると本当に嫌なものであるし、後味も悪い。
 ともかく執筆に力を注ごうと思う。
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by hoshinotjp | 2007-04-12 18:19 | 文学