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 しつこいけれども、死んだから水に流そうみたいな傾向を少しでも断ち切りたいので、まだ松岡農水大臣の自殺について書く。
 鈴木宗男議員が、松岡大臣は「国民に説明したいけれど、自民党の国会対策部会で黙っているように決められたので言えない」と言っていた、というような発言をし、自民党の幹事長がそれを否定するという一幕があった。むろん、どちらもスタンドプレーである。政治的駆け引きにすぎない。
 だが、鈴木宗男氏の発言を受けて、「板挟みになったのだから、松岡大臣は彼なりに追いつめられていたのだ」と同情や理解を示すむきもあったようだ。では、何の板挟みになっていたのだろう? それは、釈明したい自分と、内閣を守るためにそれを許さない自民党との間で、ではないか。そこには、大臣という職が最も責任を負うべき、日本社会の住民に対して、という観点が抜けている。遺書でも、国民に宛てたとしておきながら、「安倍総理、日本国万歳」という、きわめて異様な言葉で最後が結ばれている。首相と国家しか言及されていないこのフレーズの中に、個々の国民に対する意識は見いだせない。
 それなのに同情したり理解を示せるのは、よっぽどのお人好しか、この日本の成人男性社会の風土のいびつな点についてまるで無自覚な人間か、どちらかだろう。この風土が、責任者が自殺すれば水に流して責任を曖昧にさせてしまうこの日本社会を支えている。この手の人は、責任という問題を人情にすり替えてしまう。だが、その場合の人情とは、「安倍総理万歳」と国民宛の遺書に書くことに表れているように、持てる者(既得権益層)同士の絆でしかない。成人男性社会の風土とは、既得権益層である男が自分たちの権益を保持するために形成している男同士の友情に基づいている。それが、このような事例の際に「人情」という言葉や感覚で持ち出されているものの正体だと思う。
 責任は、人情によって不問にすることはできない。もし社会保険庁の幹部が精神的に追いつめられて自殺したとして、「彼なりに自殺に追い込まれるほど一生懸命働いたんだ、精いっぱいの上での苦悩だということはわかる、だから5000万件のデータが消えて年金が払えなくても仕方がない」と思うだろうか? 精神的に追いつめられたことは事実だとしても、過ちが水に流されることはありえない。
 一方で、安倍首相が松岡大臣の自殺直後、緑資源機構の事件に関して検察が松岡大臣を調べる予定はまったくなかったと聞いている、というようなコメントをした。首相が、捜査中の事件についてその内部情報を流すような真似で、私は強い違和感を覚えた。疑惑はない、それが理由で自殺したのではない、と、ダメージを少しでも払拭しようとしたのだろうが、それが誘導的な発言にすぎないとしても、スタンドプレーと呼ぶにはあまりにも踏み外しすぎた職権濫用である。
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by hoshinotjp | 2007-05-30 23:54 | 政治
 また一人、疑惑の渦中の人間が自殺した。いじめ自殺が連鎖反応を起こしたときのように、この大人も松岡農水大臣につられて真似をしたのでしょうかね。首相が政治家や高級官僚らを体育館に集めて、「命の大切さ」を説いたらどうでしょうかね。
 松岡農水大臣が「国民」に宛てたという遺書には、「自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます」と書いてある。決まり文句といえば決まり文句だが、この考え方は間違っている。
 命と責任では、引き替えにならない。何度自殺したところで、その人の責任は果たせない。なぜなら、責任とは、生きている人間が負うものだからだ。死ねば、その分の負担をまわりの他の人間が負うことになるだけだ。だから、当然、「お詫び」にもならない。いくら命を差しだしても、謝ることもできなければ許されることもない。詫びるとか許しを得るという行為も、生きた人間に属することだから。
 いじめで追い込まれた者が自殺を選ぶのは、表現の一種だろう。それ以外に聞いてもらえる言葉がないからだ。だからやりきれない気持ちになる。
 だが、松岡大臣の自殺は、表現をやめる行為である。言葉を語るべき立場の人間が、口をつぐむ行為である。責任を取るだとか詫びるといった、本当はコミュニケーションであり表現であるはずの行為を放棄する目的で死ぬのである。
 言葉を聞いてもらえない人間が自ら死ぬことには、一抹の道理がある。言葉を発する義務がある人間(すなわち権力者)が自ら死ぬことは、道理を踏みにじる。
 道理が踏みにじられた社会は、もはや何でもありになる。命に重さはないし、自分で死のうが、他人を殺そうが、騙そうが、人が苦しむことをしようが、喜ぶことをしようが、どれも同じになる。首相に次ぐ最高権力者が道理を踏みにじるとは、そのような世界観を肯定する行為であると、大人は知るべきだ。
 私は文芸誌「すばる」でこの3か月間、長篇を連載した。「自死三部作」と自分で名づけているこの作品は、いじめ自殺が連続している最中に校長や教師が立て続けに自殺したのを見て、こういうことはもう本当に嫌だと思ったことが、直接の動機となっている。
 私が考える教育の定義の一つは、教える側が自分の生きざま自体を生徒・学生にとってモデルケースとなるようなものにする、というものである。教える人間が、自分の言っていることを自分の生き方ではなはだしく裏切っていたら、いくらシステムを変えても教育は成り立たない。「教える側」とは、教師だけでなく、大人一般全員である。自省を込めて言うが、その意味では、この社会には教える責任を果たしている大人はあまり多くない。
 そういう社会がどんな姿をしているのか、今あるこの日本社会を少し見え方の違った形にして書いてみたのが、「すばる」の三部作というわけである。
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by hoshinotjp | 2007-05-29 23:28 | 政治
 松岡農水大臣が自殺。ご遺族や関係者が悲痛な思いをされているだろうことを推し量りつつも、大人として最低の行為だ、と言わずにいられない。
 なぜ、この国の成人男性はこれほどまでに、責任を引き受けるか明確にせねばならない場面で、自殺を選びたがるのだろう。高校の履修漏れ問題やいじめ自殺が相次いだ時期にも、自殺をする校長や教員が何人かいた。その場面で自死したら子どもの倫理がいかに破壊されるかという場面で、死んだ。同じことを、この大臣の自殺にも感じる。
 権力を持つ大人がそのような無責任の極致のような行動を取る社会で、殺人を犯す子どもたちの内面を「心の闇」などと理解不能なもののように言うのをみていると、笑いたくなる。その理解不能な怪物がどこにいるのか、鏡を見ろと。
 これが、教育再生で道徳の必修を声高に叫ぶ安倍内閣の現実である。安倍首相は、このように倫理を欠いた無責任な人材を、かばい続けた。法的には問題ないと言い続けた。そういう感覚の持ち主が、平然と教育におけるモラルの重要性を口にする。カネに汚いことをしても構わず、バレて責任取らねばならなくなったら死ねばいい、というようなメッセージを、安倍首相の態度は発しているようなものである。
 歴代の首相の中でも、安倍首相は他人の気持ちに鈍感な人間だと感じさせられることが多い。現職大臣自殺という異例な事件も、この内閣だからこそ起こったと思う。
 下の世代や子どもに少しでもまともな大人になってもらいたいと願うのなら、このような政治家や内閣を持つべきではない。こんな人たちに社会の命運を託せるわけがないし、何よりも、この人たちの行動を子どもの目の届かぬところに置く必要があるからだ。
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by hoshinotjp | 2007-05-28 15:58 | 政治
 本日発売の植物愛好家のための雑誌『Planted』第4号から、私の連載小説「Made in Plants」が始まります。連載小説といっても、毎回読み切りの20枚の短篇。花屋(フラワー・アーティスト)の東信(あずま・まこと)さんの作品を、写真家・泊昭雄さんが撮したイメージをもとに、私がフィクションを書くという、コラボレーション企画です。とにかく東さん泊さんの作品が素晴らしい。その写真を見ているだけで鳥肌が立ちました。あのような植物作品を作る東さんの脳内はどうなっているんでしょう。今最も胸騒ぎのする植物家でありアーティストだと思います。
 で、私の短篇は、とりあえず初回は「ぜんまいどおし」と題し、自分の好みの世界を、好き勝手に書かせてもらいました。
 もう一つお知らせ。病床からもバイオエタノール批判などで意気盛んなキューバの最高指導者カストロ議長がらみで、映画が2本公開されます。一つはオリバー・ストーンがカストロへインタビューを行った『コマンダンテ』(コマンダンテとはスペイン語で「司令官」)。アメリカでは上映拒否されたそうです。
 もう一本は、映画史においても必見の一本、これ見ずしてキューバを語るなかれという不朽の名作『低開発の記憶~メモリアス』。『苺とチョコレート』で世界でも有名になったトマス・グティエレス・アレア監督の、出世作にして本当の代表作です。
 キューバ革命直後、旧体制で既得権益層だった者たちは大半がキューバを出国、アメリカへ亡命したりしたわけだが、この映画の主人公はハバナに留まり、革命直後のキューバの様子とブルジョア・インテリである自分のアイデンティティが崩壊していく様をつぶさに観察していきます。それが、60年代全開のひりひりと熱くしかしクールで前衛的でスタイリッシュなモノクロの映像で、濃厚に展開されていくフィクションです。私は過去に3回、ビデオでこの映画を見ましたが、このたびは日本で初めて一般の映画館で日本語字幕のついたきれいなプリントで公開されることになりました。楽しみです。配給は、「人生、好きなことしかしない」をモットーに、好きな映画だけを手がけている比嘉さんのアクション・インク。あの『永遠のハバナ』を配給したところです。
 いずれも5月26日(土)から、渋谷のユーロスペースにて。
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by hoshinotjp | 2007-05-24 22:23 | お知らせ
 小説をとりあえず脱稿。ゴールデンウィーク進行だった4月ほどには根を詰めずに書けたが、それでもこの1週間は引きこもり座りどおし。
 もう縁を切ったのでとやかく言わないようにしてきたのだが、それでも言わずにいられない。大相撲のことである。朝青龍をどうにかしてくれ。
 能力的には圧倒的に強いとは思う。千代の富士に匹敵する力士だと思う。けれど、あれは横綱ではない。別に相撲に限ったことではない。あの人は、実力と経験でその競技の頂点に立つ王者の、持つべきメンタリティを欠いている。
 かつては、生まれ変わったら力士になりたいと思い、特に貴乃花が登場してからは彼の力士としての命運に自分の命運を重ねるほど相撲を好きだった私にとって、横綱とは、常に相手を受けとめる存在だった。貴乃花が追求した相撲は、巨漢だろうが豪腕だろうが一気の押し相撲だろうが、立ち会いにしっかりと受けとめ、相手に相撲を取らせ、そのうえで勝つ相撲だった。相手の相撲を吸収して呑み込んで、最後は貴乃花の相撲で勝つ相撲だった。
 その横綱像は究極の理想だとしても、私が知る北の湖・輪島時代から、横綱は姿勢において常にそのような相撲を取ってきた。小兵ゆえに圧倒的なスピードで先手を取ることで相手の相撲を封じた千代の富士でさえ、立ち会いに至るまでは静寂とも言えるほど「受け」の姿勢だった。下位の力士相手に激しい気迫をむきだしにする横綱など、存在しなかった。千代の富士が闘志むきだしだったのは、横綱に上がるまでだ。
 なぜ「受け」ながら勝つことが可能かというと、横綱は常に他の力士のメタレベルに立っているからだ。土俵上で行われることを一歩引いて達観しているからだ。相手に合わせながら相手に勝つ、それが威圧感となる存在。そのような位置に立てるだけの力量と経験を備えた者のみが、横綱になれる。横綱という地位が、一度手に入れたら陥落することはないという、大関や三役とは異なる絶対評価になっているのも、そういう一次元上の存在だからだ。
 だが、朝青龍は単なるガキ大将である。下位の力士にも闘志をむきだしにするのは、同じ次元にいることを表している。俺様が勝たなければ、まわりに当たり散らして乱暴狼藉を働く、わがままな子どもである。横綱が備えるべきメタレベルを持たないどころか、他人をメタレベルに立たせて尻ぬぐいをしてもらう始末。いくら相撲の世界が限りなくいじめに近い体質を持っているにせよ、横綱が稽古場で下位の力士を怪我させて恐怖を植えつけるというのは、競技として越えてはいけない一線を越えている。
 もっとも、力士の幼児化はもう何十年も前から始まっていたことではある。その一つの象徴が、双羽黒事件だった。貴乃花にしても、横綱としては私もそこに理想を見たけれど、土俵を離れた部分では現代の力士の傾向を体現していた。
 だから朝青龍だけを非難するのは不当かもしれない。それでも、白鵬が朝青龍を模倣することで横綱を目指そうとしているのを見ると、自覚しろと言いたくなる。八百長かどうかに関係なく、優勝のかかった一番でそれぞれが立ち会いのはたきで勝った先場所は、場所そのものを無効にすべきだとさえ思う。
 この状況を変えられない親方や相撲協会を見ても、もう末期だなと思うのである。
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 沖縄の、アメリカ軍普天間基地を名護市の辺野古に移設する件について、異様な出来事が起きかねない事態となっている。
 簡単に言うと、防衛施設庁などが進める移設準備を、反対する地元住民らがボートなどを出して細々と阻止しているのに対し、政府はなぜか自衛隊の掃海母艦を現地に派遣したというのだ。詳しくは東京新聞の記事他を見てほしい。
 掃海母艦が何をするのかわからないが、もし住民の行動を自衛隊の力で封じるつもりであるとすれば、これは自衛隊の任務なのだろうかという大変な疑念を感じる。アメリカ軍の基地を作るのに、自衛隊が自国民に対して力を行使することになるからだ。
 いったい何を「自衛」しているのだろう。反対派は「自国民」ではないから軍を使ってでも排除しないと、国家が危機に瀕するとでもいうのか? 自由と民主主義を謳った政権が、武力も持たない自国民にそのような態度を取るのであれば、それは例えばフセイン政権などの独裁政権がしたことと同じではないのか? 沖縄住民と自衛隊員にこのような汚れた任務を押しつけて、政権幹部は何とも思わないのか。
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by hoshinotjp | 2007-05-17 18:49 | 政治
 言及するのもバカバカしいが、6億円が当たりうるサッカーくじ(toto)の「ビッグ」が先週末に新聞で紹介されたとたん、購入者が殺到し、システムがダウンした。累積の賞金がつり上がって行くにつれ、売り上げが急に伸びてはいたが、これが爆発したのは報道されてからである。これまで数か月分の売り上げに匹敵する額が、先週だけで計上された。いくら増えるにしても、この落差は尋常ではない。
 納豆のときとまた同じことが起こっているわけである。totoを運営している側にも責任がないわけではないけれど、これまで見向きもしなかったtotoを買いに走る側も、けしからんと叩くのではなく、無関心から急に関心を持ったのだからシステムダウンも致し方ない、と大らかになるべきだろう。
 まあ、コンビニで300円出せば非課税の6億円が当たるかもしれないのだから、納豆よりは殺到するのも故なしとはしないけれど、もう少し肚の据わったというか腰を据えたというか、落ち着いた生き方はできないのだろうかと思ってしまう。こんな反射神経だけでその場をクリアしていく日々を重ねていって、その先にどんな将来が待ち受けているのか不安にならないのだろうか。その不安について考えたくないから、瞬間にばかり目を向けるのだろうけど、これではアルコール中毒とかと同じである。集団でアル中にかかっているというか。みんなが中毒だから、異状であることに気づきにくい。集団で薬物を摂取して幻覚に浸って、覚めたときの不安に耐えられず、さらに強い刺激を求めて中毒を深めていく。憲法改正とかも、その手の薬物のひとつにすぎないのだろうな。
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by hoshinotjp | 2007-05-14 23:56 | 社会
 籠もって書き続けているので、運動不足を解消すべく、スギ花粉が終わったころから普段の散歩やジョギングを心がけている。特にゴールデンウィーク以降は陽気が気持ちのよいこともあって、徘徊欲が増している。スギ花粉が終わったはずなのに、軽いくしゃみ鼻水目の痒みが続いているのは、例年になく外を歩いて花の季節の花粉をあれこれ吸っているせいだろう。
 私が散歩する住宅街の一軒家の庭は、どこもきれいに手入れされていて、今は立派な薔薇を始めさまざまな花が咲き乱れている。今年はなぜか花そのものよりもにおいに誘われることが多く、鼻をくんくんさせながら人家の庭から庭へとさまよう。
 特にその香りに悩ましい思いをしているのがスイカズラ。ちょっとなまなましすぎる。そのにおいがするとふらふらと近づいてしまう。好きなにおいというわけではないのに。
 そうしてふと庭の柵を見ると、「近ごろ不審者の報告が相次いでいます。見慣れない人には注意してください」などといった張り紙が。平日の昼下がり、キャップをかぶりメガネをかけ、デジカメをぶら下げ、他人の庭の草のにおいをかいでいる私は、おどおどするのが一番いけない、胸を張れと言い聞かせつつ、そそくさと帰宅するのだった。
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by hoshinotjp | 2007-05-13 22:47 | 身辺雑記
 高校野球の特待生問題について、伊吹文科大臣のコメントを見て、何だこの偽善はと感じる。強豪校がカネを出して強い選手を掻き集めていることなんて、賛否はともかく、誰もがそれを前提に甲子園を見てきたのではなかったか? 北日本の高校生があれだけ関西弁をしゃべりながら、今まで暗黙の了解だったことを今さら問題視して罰するなんて、罰する側のほうが卑怯に見える。
 高校野球や「巨人軍」に象徴されるプロ野球守旧派には、この手のいい子ブリッコと裏でのやりたい放題とのギャップが日常的に見られるが、私にはそれが野球文化崩壊(日本社会とも言い換えられる)の一因に思える。これはタテマエとホンネといった使い分け文化とは似て非なる、階級の問題である。
「品行方正」を過剰に課すのは、課している側が権威主義を信奉しているからである。そして権威主義とは、既得権が維持できないという危機にさらされたときに、強く打ち出される。権力の維持と誇示が目的だから、選手と権威者の間には厳然たるラインが引かれる。選手たちは「品行方正」を守らせないと自堕落になる野蛮人だが、自分たちは何をしようが権威ある文明人なのだと言わんばかりに。
 私にはこの体質が、例えば「あるべき家族像」を掲げる教育行政のタカ派にも感じられるのである。「離婚後300日以内」問題で、離婚成立以前に夫以外の男性ともうけた子は、これを認めると家族の崩壊につながると言って反対する議員が多数いるが、ではその議員たちは道徳的に非の打ちどころのない家庭生活を送っているのだろうか? その真似をすれば幸福な家族生活が得られるようなモデルケースとなっているのだろうか?
 人にもよるが、多くの一般人は、政治家が道徳的に敬うべき生活をしているとは思っていない。私が新聞社時代にわずかに垣間見ただけでも、カネにせよ性にせよ、一般人の常識とはかけ離れた汚い常識の中で生きている。その連中が「家族の崩壊」を言い立てるのは、その道徳規定が自分たちに適用されるものではないと思っているからだ。禁欲を説きながら、自分は欲にまみれていた麻原彰晃のようなものだ。
 崩壊する家族は、どこかでこの手の権威主義を持ち込んでいたのだと私は思う。家族を普通に暮らせる単位として機能させたければ、「家族の崩壊」を口にする者たちの真似をしないことから始めればよい。
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by hoshinotjp | 2007-05-09 16:02 | 社会
 ゴールデンウィーク中もずっと仕事。連休だと、自分は仕事をしていなければならないにもかかわらず、何となくのんびりした、ゆとりのある気分で取り組んでいた。天気も爽やかで心地よかったし。
 それにしてももうだいぶ長いこと、籠もった生活をしている。今の仕事が終わったら、少なくとも半年はあちらこちらをうろうろしたい。
 連休中、自分より若い日本の作家の小説を、何作か読んだ。若い、とは年齢やデビューした時期のこと。これまでの3年間、私は大学で学生の小説を読んできたので、かれらと同じ世代の作家を意図的に読まないできた。大学が終わったので解禁したわけだが、いくつかは、私の好むタイプの小説ではないものの「なるほど」と考えさせられ、この世代のこの作家にしか書けないテーマをきちんと表現しようとしている、と読んだ意義を感じたものもあったけれど、他のいくつかは、これなら私が見てきた学生たちでもデビューしていておかしくないのではないか、と思わざるを得ない作品もあった。そして、私が見てきた学生の作品のうち、私が本当にいいと思ってやがては活字になることを期待しているようなタイプの小説は、あまり分がよくない、つまり若い作家の主流、メジャーからはだいぶ外れているようだ、と改めて思った。
 文学はよくも悪くも世相と時代を容赦なく反映する。これが文学?と思うようなものでも、同じ傾向の作品が主流をなすというのは、その社会がその文学と同じ傾向を有しているからである。植民地を持つ帝国主義の時代の近代文学は、それがどれほどその社会構造を批判しようと、植民地主義的な世界観のうえに成り立っていたりする。それでもそんな己を相対化してしまう部分が折り込まれている作品が、おそらく今でも読むに値する文学として存在し続けているのだろう。それはその作品が普遍を目指しているからではなく、底なしだからだ。
 文学と社会は、持ちつ持たれつ、共犯関係にある。読者は今のメジャーをなす文学の中にリアルな自分や現実の姿を見出したりし、こういうものをもっと読むことで自分のいる場を考える言葉を手にしたいと感じる。文学は、そのような読み手の欲求にどこかで導かれるようにして、現実を言語化するシステムを作り上げていく。
 だが、私が考える文学とは、そのような共犯関係の中にありながら、そういう仕組み自体をも相対化し、可視化してしまう小説である。つまり、敵を作るわけではなくその社会に立脚しその内部にいるはずなのに、どこまでも外れてメジャーな存在の視野の外に出てしまうようなマイナーである。
 そのような小説であってほしいという気持ちで私は作品を書くが、自分より下の世代の作品も、そのような方向性を常に持っていてほしいと、一読者として痛切に願うのである。
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by hoshinotjp | 2007-05-07 19:49 | 文学