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 今年は大学の客員教員の任期が終わり、専業作家として新たなスタートを切った年だった。その区切りとして、「新人作家の終了」を宣言もした。デビュー以来、書き下ろしに専念した2003年を除き、何らかの形で「創作の指導」という副業にたずさわってきたから、執筆だけに打ち込むのは新鮮だった。
 ただ、案外と時間がなくて、予定していた自分の創作のための仕込みがあまりできなかったのは、数えてみたら文庫を含めこの1年で4冊も本を出していたためだ。何だか、書き直しばかりしていた気がする。こんなに本を出せるなんて、本当にありがたいことである。
 ちなみに、そのうちの1冊、中公文庫で出た『ロンリー・ハーツ・キラー』の解説を書いてくださった朴裕河(パク・ユハ)先生が、ご著書『和解のために』(平凡社)で大佛次郎論壇賞を受賞されたのは、とても嬉しい。本の内容も、このような社会の中でこういう本を出される勇気も、私をとても励ましてくれた。
 来年からは、さらに「行動・移動」していきたい。傍観者で構わないので、現場に身を置いていきたい。小説の消費者の要求など顧みず、文学の読み手のことだけを考え、『無間道』でスタートを切った自分の文学を暴走させていこうと思う。
 2008年もよろしくお願いします。
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by hoshinotjp | 2007-12-31 23:29 | 身辺雑記
 渋谷のユーロスペースで今公開中のドキュメンタリー映画『暗殺・リトビネンコ事件(ケース)』は、ロシアの底知れなさを暴いた、衝撃的な作品である。
 映画は、この作品の監督であるロシア人アンドレイ・ネクラーソフが、しばらく留守にしていた自宅(別荘?)に戻る場面から始まる。家はガラスが割られ、何者かに侵入され、ひどく荒らされている。そしてベッドの上には、瀕死のリトビネンコの写真が載せられているのである。
 まるで『ゴッドファーザー』の一コマような戦慄のシーンは、現実にネクラーソフの身の上に起きたことだ。荒らした者たちの狙いは、「次はおまえかもしれない」と脅し、恐怖に震え上がらせることである。
 一年ちょっと前に、亡命先のイギリスで放射性物質を紅茶にもられて何者かに暗殺されたロシア人アレクサンドル・リトビネンコのことは、記憶している人も多いだろう。ネクラーソフは、リトビネンコの亡命直後から長い時間をかけてインタビューを行っていた。その中で、KGBの後身であるFSBの工作員だったリトビネンコは、ロシアのプーチン体制の暗部を次々と暴露していく。
 一例を挙げれば、第二次チェチェン戦争はモスクワの高層マンションがチェチェン独立派のテロで破壊されたことに端を発したとされているが、じつは首相に就任したばかりのプーチンが自らの権威を高めるために、FSBを使って引き起こした、ヤラセのテロであるかもしれないこと。それらの告発を、ネクラーソフ監督はできるかぎり実証的に追及していく。
 ドキュメンタリー作品のすぐれているところは、書物と違って、語っている言葉とは別個に、話し方や表情などからその人物の感触が伝わってくる点だ。私は、暗殺されたときにはまったく知らなかったリトビネンコがとても身近な人物に感じられた。また、リトビネンコのひと月前にやはりモスクワで暗殺されたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤのインタビューも収められている。
 ネクラーソフ監督とは、来日した際に対談をさせていただいた。いま発売中のBRUTUSNo.631号167頁に収録されているのだが、「ハエのように押しつぶされてしまうかもしれないと、胃がキリキリと痛むこともある。でも別の時は大丈夫だと楽観的に思える日もある」というようなことを語っていたのが印象的だった。
 この複雑な事情が絡んだ映画に、背景知識のない者にもわかる日本語字幕をつけたのが、私の字幕時代の師匠の太田直子さん。出自がロシア文学研究であり、今でもロシアの状況をフォローしておられる太田さんの、渾身のお仕事だと思う。
 実感の薄い人が大半だと思うが、ロシアは隣国である。北方領土の問題を想起すれば、私たちに最も近接した地域にロシア人は居住している(韓国より近い)。今度の春には大統領選挙の行われるロシアのことを、私たちはもっと皮膚感覚で理解しておく必要があるのではないか。
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by hoshinotjp | 2007-12-27 22:14 | 映画
 佐世保の猟銃殺人事件、情報が明らかになるにつれて、当初、流布していたイメージとは異なってきた。
 第一に暗い気持ちで認識するのは、やはり「性」がらみで男が女を殺す事件だったのだ、ということ。今、男の起こす事件のかなりのケースで、「性」はその根っこの原因となっているような気が、私はするのである。
 第二に、無差別に発砲して怪我人が出た場面もあるとはいえ、特定の人物を狙い撃ちしている以上、「乱射事件」という言葉の持つイメージとは少し違うこと。アメリカでコロンバイン高校の事件以降、頻発している無差別乱射事件とは、若干性質が異なるように思える。銃がなかったとしても、何らかの方法で二人を殺そうとしたのではないか。ただし、一方的に破滅を求めている感じは、通ずるものがある。
 アメリカと同じような無差別乱射事件が起こった、というイメージが先行すると、治安は悪くなっているという不安が急速に増大し、排除欲と疑心暗鬼がパラノイア的に肥大する。その結果、社会はさらに息苦しくなり、その息苦しさを暴力で解消しようとする者がますます増えることになる。
 そして第三、日本社会にたくさんいるであろうが表面には見えてこない、イライラを飽和させている人たちに、「この手があったか」と大いなる啓示を与えてしまったかもしれないこと。合法的に銃を所持することは、労力さえ払えば案外難しくない、という印象を、日本中に広めてしまったのが、この事件の最も嫌な性質である。
 これから何年かのうちに、この事件がきっかけで銃を持つようになった者たちが、より一層おぞましい事件を次々と起こしていくような気がしないではない。
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by hoshinotjp | 2007-12-20 03:37 | 社会
 私はロシツキーが好きだ。ドイツ・ワールドカップでファンになり、思わずチェコ代表のユニフォームを買ってしまったほどだ。
 だが、そのプレー以上に、あだ名がすごい。「ピッチ上のモーツァルト」。インザーギは、「オフサイド・ポジションで生まれた男」と言われているらしく、なるほど!とまずは膝を打ち、よく考えると何を言っているのかわからない形容だが、「ピッチ上のモーツァルト」も同じ。「ピッチ上のバッハ」じゃいけないのか? 日本で、「ピッチ上の山田耕筰」とか「ピッチ上の滝廉太郎」と言われて嬉しい選手はいるだろうか? 小説家だっていいでしょう? 「ピッチ上のドストエフスキー」とか。オウンゴールをよくする選手は「ピッチ上の太宰治」とか。まあ、どうでもいいんだけど。
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 今日のミランは素晴らしかった。カカー、すごい。この大舞台でゴールを決めたときにシャツをたくし上げて見せたメッセージが、「I belong to Jesus」なのもすごい。前にも見た気がするが、やっぱり驚いてしまう。例えばもし中村俊輔が大舞台で「ぼくは仏様のもの」と書かれたTシャツを着ていたら、私はどうしてよいかわからない。
 試合中はあんなに怖いセードルフが、ピッチ外ではとても気さくなやつなのも面白かった。じつはいいやつなのではないか。挨拶が間違っているのが可笑しかった。合掌してお辞儀して、おまえは岡嶋か。というか、岡嶋が間違っているのだ。
 リケルメのいないボカの実力は、これが正直なところだろう。顔がちょっとマラドーナに似ているバネガには後半、もっと前で積極的に仕切ってほしかった。私としては、来年はシメオネ監督のリーベルに来てほしい。
 やはり南米とヨーロッパのチャンピオンが別格だった。以前のトヨタカップのままでよかったのではないか、と考えるむきもあろう。でもこの大会を繰り返していれば、アジアやアフリカのチャンピオンも少しずつ強くなっていくと思う。ワールドカップだって始まったころは、こんなようなばらばらのレベルの国が少しだけ集まって試合をしていたわけだから。
 浦和はミスで2失点もしたところに、世界とのレベルの差をさらしてしまった。それでも3位なのだから、決勝への道はかなり遠い。悔しいと思ってほしい。
 でも来年の浦和は、いろいろな意味で厳しいような気がする。今のバルサみたいになるような気が。
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 すみません、連日サッカーばかりで。やはり、サッカーを長く見てきた者には、この日は歴史的な一日なので。
 浦和―ミラン、結果に驚きはなかったけれど、試合が終わった瞬間に自分がこれほど激しく脱力し、それから、歯ぎしりしたいほど悔しくて悔しくてたまらなくなったのには驚いた。まだまだ敵わないのは見てのとおりだし、当然のことなのだけど、それでも、まだ敵わないことが悔しい。いつか絶対、敵うようになってほしい、と強く思った。
 今日は、普段は浦和レッズをよく知らないがこの日だけ浦和シンパになって見ていたという人も多いだろう。一方でミランを応援した人もかなりいよう。私はどちらもあっていいと思う。こんな世界最高レベルのビッグマッチの当事者に浦和がなっているのだから、浦和サポーターであろうがなかろうが、見たいと感じる人が増えるのは自然なことだし、一方で、普段からJリーグより欧州サッカーを愛好している人がミランを応援するのも当然だし、Jリーグの他のチームのサポーターである以上、浦和よりミランを応援する、というのも正しいし、今日だけは浦和を応援するのも美しい。海外では特定のクラブチームのサポーターが同じ国のクラブだからと言ってライバルクラブを応援することなど考えられない、日本はその点まだ未熟だ、と言う人もいるが、私は、日本のサッカーファンのあり方は、ある意味で世界に例を見ない新しいタイプだとも思うので、同じリーグのライバルこそを応援するのも悪くない。ひとことで言えば、その時に好きだと思うチームを勝手に応援すればいいのだ。
 ただし、そのチームをその試合で応援したことの責任は取るべきである。何となくでも浦和に肩入れしたのなら、負けたとたん、「やっぱり浦和じゃ無理だったでしょう」だとか、「こんな負け方して失望した」などと態度を翻してシニカルになるのだけはやめてほしい。
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 クラブワールドカップ、ボカ対エトワール・サヘルを見に行く。本当はボカ対パチューカとなって、スタジアムの応援合戦に興奮し、どちらを応援しようかと迷いたかった。実際にスタジアムには、パチューカが当然進出するものと信じてチケットを買ってしまったのであろう、パチューカ・サポーターのメキシコ人の寂しそうな背中がちらほら見受けられた。
 それにしてもあんなに大量のアルゼンチン人が来ているとは思わなかった(テレビでは2000人来ていると言っていた)。2002年にサッカーの取材でアルゼンチンに行ったときは、国の経済が破綻して、ワールドカップのために日本に行けるだけの金を持っている人はものすごく少なかったのに。ましてやボカは、リーベル・プレイトと比べると、経済的には裕福でない層のファンが圧倒的なのだ。
 おかげで、ちょっとボンボネーラにいる気分を味わえた(本物のボンボネーラは行く道のりも観戦するのも危ない場所だが)。でもメインの応援歌は浦和レッズと同じ(レッズが真似した)なので、奇妙な気分。ボカとレッズが戦ったらどうなるのだろう。これに対抗するメキシコの「らー、らー、らー!」が聞きたかった。後半、審判がPKを取らなかったときは、「イーホ・デ・プー×」の大合唱(私も人生で初めて加わってしまった!)。これがパチューカだったらもっとバラエティに富んだ罵詈雑言が聞けたな。
 肝心の試合は、まずお目当てであったバネガが後半、10人になってから素晴らしい動きを見せてくれたので満足。ワールドユースで目立っていたので、この目で見てみたかった。あの柔らかくシンプルで正確なボールさばき、きわめてクレバーなパス、アルゼンチン・サッカーの真髄である人との間合いを先読みする能力は、十代とは思えない。私好みの選手で、楽しみである。
 もう一つの収穫は、サヘルのシェルミティ。ナマで見て驚いた。センスというのは天性のものだと痛感した。
 得点したカルドソは、「俺が俺が」タイプで、点も決めるけれど、流れも止めてしまうところがあった。だから10人になってカルドソが交替したら、ボカの実力を見せる魅惑的なサッカーが始まった。
 立ちあがりはボカはまるで駄目で、対するサヘルはパチューカ戦よりもさらによくて、あの時間帯にサヘルが得点していたら、ボカもパチューカと同じ目に遭ったかもしれない。ボカはやはり得点してから滑らかになってきた。パチューカも得点できていたら、もっと本来のサッカーができたのかもしれない。
 去年おととしのクラブワールドカップを見てもわかるが、南米のビッグクラブは、最小限の力で勝とうとする。で、ここが決戦という試合ではそのポテンシャルを爆発させる。メキシコのチームはまだそういう戦い方が上手くないので、そうしようとして失敗した。
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 浦和、素晴らしい。
 今季は試合数の多い過密スケジュールのなか、凄みを帯びたディフェンスを武器としたサッカーでアジアチャンピオンズリーグを優勝したのだが、見ていて楽しいサッカーとは必ずしも言えなかった。それも、アジアチャンピオンのタイトルを取るという歴史のためには仕方のないことだと思っていた。
 だが、浦和の本当の力は、今日のセパハン戦で見せたサッカーなのだ。これほどまでに攻守ともに有機的に「ボールも人も動くサッカー」を浦和が見せたのは、今季初めてである。「ボールも人も動くサッカー」、今や紋切り型ともなりつつあるこの表現をあえて使ったのは、今日の浦和のサッカーは、まさしくオシムのサッカーだと私は感じたからだ。代表でオシム監督が植えつけたことが、その教え子たちを通じて、このクラブワールドカップという大会の浦和で花開いたような気がしたのだ。
 勝利のためにスペクタクルを封じてきた浦和が、リーグ戦からも天皇杯からも解放され、つまり勝利の義務から解放されたとき、魅惑的な美しさを実現した。それがイビチャ・オシム時代の千葉のサッカーをより一層グレードアップしたものと見えたのは、特定の選手だけが目立ったりはしなかったからだ。すなわち、今季、絶対に不可欠であった「司令塔」ポンテがいないために、誰もが自分で責任を負うほかなかったのだ。ポンテを頼りにすることができないぶん、みんなが動き、誰もが状況に応じて司令塔となりえる美しく変幻自在のサッカーが展開できたわけである。
 むろん、相馬の活躍は凄かったけれど、ポンテのようにゲームを作る役割とは違う。ゲームは全員で作っていたのだ。あれだけの才能のある選手たちが、千葉のようなサッカーをしたのだ。
 このひと月、歓喜の後に苦しい期間が続いただけに(オシム監督のことも含めて)、浦和のこの「進化」には深く感銘を受けた。文句なしに今季最高の試合内容だった。ずっと、こういう浦和を見たいと待っていた。ミラン戦はもちろん、来季からもこのような美しいサッカーを常に実現するチームになってほしい。そして、志半ばにしてついえたオシム監督の目指したサッカーを、クラブチームを通して日本に根づかせてほしい。
 メキシコサッカーを愛する私としては、パチューカにもこのようなサッカーを見せてほしかった。だが、パチューカはゲーム中に自分たちの実力が確実に上回っていることを自覚したせいか、自分たちがボールを持っても、選手たちが連動して動こうとはしなかった。私の目には、まだ7、8割の力でサッカーをしているように見えた。その結果、バチがあったのだ。
 そのフラストレーションを、今日の浦和は吹き飛ばしてくれた。
 それにしても、あの日テレのド素人アナウンサー、どうにかならないのか。プロ意識がなく勉強をしない実況は、テレ朝だけでたくさんだ。ごく普通のトラップで、「おお凄い」などと叫ばないでほしい。選手にも見ている人にも失礼である。ピッチ上ではもっとレベルの高い出来事が無数に起こっていたのだ。
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 新作『無間道』の装幀の彫刻は、友人の若き彫刻家、土屋仁応(よしまさ)さんの作品、「子犬」。実物は両手のひらに収まるぐらいの大きさで、どこか本当に生きているような妖気が漂う。その無防備ないたいけのなさは、見る人の「庇護したい」という欲望をあからさまにさせる。「庇護したい」という欲望は、支配したい、という凶暴な気持ちをその奥に含んでおり、やがてそれは当人にも止めることのできない暴力へと発展する、かもしれない。そのような、官能的と言えるような無垢の魅惑と、すぐそばまで暴力が迫っている不気味さを、この作品はたたえている。それで、一見「無間道」のおぞましい世界とは無縁そうな、しかしこれ以外に考えられないほど「無間道」の世界を体現している「子犬」を、装幀に使わせていただいた。快諾してくださった土屋さんにはとても感謝しています。
「無間道」については、私としては思うぞんぶん書いた小説である。ここ数年は自分にさまざまな制限を課して作品を書いてきたが、それらを取り払い、自分の好き勝手に書いたというか、自分の考える文学へ向かって脇目もふらず突進し始めたというか。それは自分の楽しみのために書いた、ということではない。
 宗教なき現代、そしてそれゆえにスピリチュアルやら霊感やらへの依存が強まる今、小説とは祈りである、おまじないである、と私は思っている。
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by hoshinotjp | 2007-12-09 23:10 | 文学
 すごいフラメンコを聴いてしまった! アルカンヘル。若き歌い手だが、その女声のような美しくどこまでも高く伸びる高音と、細かなコブシ(というのか?)を駆使した超絶技巧の七色の声と、息継ぎなしで歌い続けられる肺活量。そして、何よりも、聞く者の体をビンビンと震わせるフラメンコの魂。
 歌手とギターだけのコンサートで、踊りも手拍子もない。退屈しないだろうかと少しだけ心配だったが、まったくの杞憂。ミゲル・アンヘル・コルテスのギターがまた凄まじい。歌とギター、これこそがフラメンコの神髄なのだと悟った。張り詰めた緊張とほとばしるパッションに、ずっと私のテンションは上がりっぱなしだった。
 スペインでは圧倒的な人気で、チケットを手に入れるのも難しいようなスター(今の日本で言うと「王子」という感じ)だが、今回の初来日では、こぢんまりとしたホールで6500円で聴ける。明日5日(水)と7日(金)の公演はまだ若干の空席もあるようなので、お聴き逃しなきよう。きっとこの来日公演は、「アルカンヘルのあの初公演を聴いたの? 羨ましい」と言われるような、伝説的なコンサートとなるであろう。
「アルカンヘル コンサート情報」
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by hoshinotjp | 2007-12-04 22:45 | お知らせ