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 倖田來未の「失言」に端を発したバッシングは、見るに耐えない。あの発言が非難されるべきなのは言うまでもないにしても、すぐに倖田來未が反省して謝罪を表明した時点で落着してよいような程度のものだ。アイデンティティの危機に陥りかねないほどの不安と恐怖で泣く姿をさらさせられ、芸能活動を自粛させられるというのは、巨大ないじめである。リンチといってもいい。倖田來未はかつていじめられた時代の恐怖を、いま再び味わわされているのではないか。報道しているメディアに、自分たちはいま公開処刑を執り行っているのだという認識がないことが、怖ろしい。バッシングしている者たちのかなりの割合は、発言の内容に怒っているのではなく、「祭り」に参加して高揚したいだけなのだと私には感じられる。
 どんな集団でも、その内部の者たちに対して「みなと同じであれ」という均質化の力は働くものだが、日本の社会はその圧力がきわめて強い。しかも、この10年ぐらいで、もともと強いその同調圧力が、限界を越えるグロテスクな形で猛威を振るっている。
 同調圧力の強い中では、「他人と違う」ことが最も大きな恐怖の一つとなる。このため、自分の中の他人と違う部分を押し殺すことが、イコール毎日を生き抜く行為と化す。個体の自分として生活するのではなく、自分のどこかを殺すことが生きることとなってしまうのである。その果てにあるのは、自分の死、すなわち自死だ。同調圧力は、極端に言えば、集団の大半を自死へ追い込む力といえる。
 このような状態に風穴を開けて、圧力を減じさせようとする絶望的な試みが、当然出てくる。それは、破滅をもたらすものもあれば、同調圧力をしのぎうる程度まで下げることで共同体を何とか生きやすいものへと変えていくものもある。後者の手段の一つが、「カミングアウト」だろう。
『カミングアウト・レターズ』(太郎次郎エディタス)という本は、ゲイ、レズビアンなど、セクシュアル・マイノリティの人々が、身近の大切な人たち(その多くは肉親)に、自分がセクシュアル・マイノリティであることを打ち明ける手紙と、カミングアウトを受けた側からの返信とが収録されている。違いを告白することで拒絶されるかもしれない、近親者からの拒絶は死を宣告されるにも等しいことだから立ち直れないかもしれない、という恐怖を乗り越えて、打ち明けてみれば、紆余曲折を経ながらも、距離が縮まり、深い理解に達っしたという実例集である。
 発刊から2か月近くたっているが、反響は大きく、評判はよいようだ。それは、カミングアウトを迷っているセクシュアル・マイノリティ当事者に勇気を与えるだけでなく、むしろ、それを受ける側の者たちが、カミングアウトする側の苦しみに初めて触れ、それが案外自分たちにも共感のできる苦しみであることを知るからではないか。すなわち、自分の「違う部分」を殺して生きていく苦しみ。
 事情は少し異なるが、数年前に刊行された『自殺って言えなかった。』(サンマーク出版)も、一種のカミングアウトと捉えてよい。親が自殺し、遺された子どもたちが、自殺者に対する社会の冷たく攻撃的な視線にさらされて、親の自殺を隠して生きてきたことを、打ち明けた書である。犯罪をしたわけでもなく、むしろ苦境の中で自死に追い込まれたのに、まるで罪を犯したかのように白い目で見られる。日本では、肉親の自殺は常に隠すべきこと、恥ずべきこととされてしまう。親の自殺という苦しみ以上に、それを恥じて隠して生き続けることの苦しみは、遺族、特に子どもを「違う存在」として排除してしまう。この本では、「違う存在」として排除されるかもしれない恐怖を振り切って、遺児たちが初めてカミングアウトした。
「みなと同じであれ」と、得体の知れない社会は、恫喝してくる。だが、その場合の「みな」とは誰だ? 「同じであれ」というときの「同じあり方」とは、どんなあり方なのだ? 突きつめてみるとわかるだろう、じつは何もないことが。何かがあるのは、自分の中なのだ。何かとは、「違う部分」のことだ。同調圧力は、自分を見ることの恐怖から生まれてくる。
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by hoshinotjp | 2008-02-08 12:41 | 社会