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 これ以上期待を裏切られるのがもう耐えがたくて、1試合が終わるたびに、「ここで終わりだ、行き止まりだ。次の試合でスペインは例の病気が出て敗退する」と自分に言い聞かせてきたから、こんな結果(ユーロ2008優勝)になって意外だ。どうしてよいのかわからない。スペインが大一番で実力をそのまま発揮するなんて、初めてのことだから、まだ反応の仕方がわからないのだ。
 決勝戦のMVPが誰なのか知らないが、私としてはフェルナンド・トーレス以外にありえない。立ちあがりの固いスペインの中で、怒気とさえ呼べるような鬼の気迫でプレーしていたのは、トーレスだった。ドイツのディフェンダーが思わずタッチに蹴り出すほかないようなチェイスもしていた。その鬼気迫る狂気が、あの先制点にして決勝点を生みだした。
 大会のMVPはシャビで、何の異論もない。が、このチームは特に攻撃に関しては、絶対的なキーマンがおらず、誰が出てもキーマンになれるという遍在性が、あのフットボールを可能にしている。
 そのハーモニーを実現させるきっかけは、初戦のロシア戦での1点めだったと思う。トーレスがキープして、自分でシュートを撃たずにビジャにパスを出した、あの場面。ビジャはトーレスの行為に感激し、それを何度も体全体で表現したわけだけど、その気分にチーム全体が共振したのではないか。まわりを信頼したいという歓喜みたいなものが、爆発的にチームに広がったのではないか。
 あのちょっとナルシスティックで、独善的で、肝心な場面に弱かったトーレスが、エル・ニーニョが、大人になった瞬間だった。あの瞬間に私は、それまで信用していなかったトーレスのファンになった。それゆえ、ワントップで臨む決勝では、何としてでもトーレスに決勝点を決めてほしいと願っていた。トーレスの行いが報われたこの結果には、だからとても心動かされた。
 私としては、決勝の相手がクロアチアだったら、と今でも思う。でもその対戦はワールドカップで期待しよう。でも、アルゼンチン―スペイン、アルゼンチン―クロアチアというカードも見たいしなあ。
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 いくつか、お知らせ。
 明日(6月30日付)の讀賣新聞、朝刊文化面に、宮崎勤事件についてのインタビューが掲載されます。3者の談話で、他に大澤真幸氏、香山リカ氏。
 また、7月より12月までの半年間、毎週金曜日に東京新聞夕刊の一面コラム「放射線」を担当することになりました。
 イギリスのクィアー・マガジン「Chroma」7号に、短篇小説「エア」(『われら猫の子』所収)の英訳が掲載されました。翻訳してくれたのは、Brian Bergstromさん。
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by hoshinotjp | 2008-06-29 18:37 | お知らせ
 サッカーのユーロ2008(ヨーロッパ選手権)、決勝の2チームが決まったところで、ここまでの感想。
 強豪であるかどうかよりも、試合に臨む気迫の強いチームが常に勝ってきたけれど、ついにテリム教団(トルコ)が、気迫と内容では上回りながら、ドイツに競り負けた。
 その瞬間、性懲りもなく私は思ったのである。これがクロアチアだったら、ドイツは負けていただろう、と。私にとって本命であるはずのスペインの試合は、毎試合、負けもありうると心の準備をして臨むため、冷静に見ていられるのだけど、クロアチア―トルコ戦だけは、試合開始前からドキドキしてしまった。ワールドカップでいつもアルゼンチンに感じているのと同じ高揚と失望である。私にとってはいまだに、クロアチア―ドイツ戦とクロアチア―トルコ戦が、今大会のベストゲームである。
 スペインは「6月22日ベスト8敗退」の呪縛からついに解放されて、その真の能力を発揮しようとしている。対イタリア戦は腰の引けた凡戦だったけれど、じつはあの試合で、ザルだった守備がタイトになるという進化を遂げたと感じた。
 もしかしたら、一番変わったのは、スペイン国民かもしれない。代表に裏切られ続けて白けきった人たちや、歴史的にマドリなどの選手たちを応援する気になれなかった人たちが、ついにスペイン代表を受け入れ、魅せられ、「熱狂してみてもいいかも」と気分が変わっているような気がする。多くのフランス人が、1998年のワールドカップ決勝でフランスが優勝するのを見て、初めてサッカーに熱狂したように。
 対ロシア戦では、ロシアのほうがキックオフから猛然と攻めるかと思ったのに、スペインのほうが激しく攻めた。最初の15分ぐらいで、ロシアは難しいかなと感じた。
 決勝でも、キックオフから10分ぐらいの間、激しく攻めたほうが優勝すると私は思い込んでいる。両者が様子を見て慎重になったりしたら、PK戦かもしれない。
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 先週のワールドカップ・アジア三次予選、日本がアウェイでタイと対戦したあと、タイの監督は「日本がいきなり攻め込んできてびっくりした」というようなことを述べていた。あの試合の勝因のひとつは、日本が戦う姿勢をむきだしにして試合開始直後から猛然と攻撃を仕掛けたことにあったと思う。タイにとって、日本は格上であり、しかも会場はアウェイなのだから、日本は余裕を持って慎重に試合に入るだろう、だからホームのタイは積極的に行こう、とそのような気分がタイにはあったのではないか。だが、キックオフからその出鼻を、日本の選手の尋常ではない気迫にくじかれた。これでタイは心理的にのびのびプレーすることができなくなったはずだ。
 ユーロ選手権の準々決勝、オランダ―ロシア戦も、キックオフ直後が鍵だと思った。そして、猛然と攻め込んだのは、やはりロシアだった。戦う気持ち、勝利への執念が勝っているのは、ロシアのほうだということが、試合開始直後からすでに露骨になってしまったのだ。準決勝の1、2試合目と同じ展開である。そして、結果も同じことになった。オランダは悪い意味でまったく別のチームになっていて、とても本番のサッカーをしているとは言えなかった。
 出走直前の馬のような、気力が漲っている状態は、試合に出続けることでしか維持できないのだろう。一度緩めた気をもう一度張り詰め直すことが、これほど難しいとは。
 強いチームほど、気迫でまず圧倒しなくてはならない。オシムが、「いい選手ならなおさら走らなければならない」と言うのと同じことだ。もともとひ弱いところのあるオランダもポルトガルも、あの魂のクロアチアでさえも、それができず、むしろ相手にそれをされてしまった。「一次リーグの4天王」のうちの残るスペインは、ひ弱さでは随一である。そして相手は逆境でこそ強いイタリア。ただでさえ期待しないでおこうと思わせるスペインの勝利を、今や信じる者は少ないだろう。
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 娘を死産で失ったすぐあとに大一番に臨まなければならないオランダ代表のブーラルースを思えば、わがクロアチアが奇蹟で敗北したことなど大したことではない。ビリッチも言っているではないか。
「信じられない結果だが、これがフットボールが世界で一番美しいスポーツである理由なんだよ。延長のゴールですべてが終わり、勝利を手にしたと思った。だが、セミヒにゴールを決められてしまった。そして、ドラマのようなPK戦へ突入した。しょうがない。人生は常に前に進んでいるんだ。明日は明日。われわれはもう、ワールドカップ予選へ切り替えるつもりだ」
 あれだけの決定機のひとつでも決めていれば。まるで巻を見ているようだった。オリッチの闘志と献身に感動しながら、決定機を外すたびに私は、「しかし、フォワードの本来とは……」と身悶えせざるを得なかった。これも敗因のひとつであることは間違いない。ワールドカップ予選には、エドアルド・ダ・シルバが戻ってきてくれるだろう。このつらい経験を積んだクロアチアは、さらに魅力的になると信じている。ジダンなき今、モドリッチは私のアイドルだ。
 ポルトガル―ドイツ戦でもクロアチア―トルコ戦でも言えることは、試合が始まった瞬間からより強い気持ちをむきだしにして攻めに出てきたのは、勝ったドイツとトルコだったということだ。一次リーグ最終戦を、ギリギリの危機感のもとで戦ったチームと、余裕を持って戦ったチームとでは、そのあたりの緊迫感に差が出てしまうのだろうか。一次リーグでは100パーセントでなく危なっかしかったチームが、決勝ラウンドで調子を上げて決勝まで進むというのは、ワールドカップでも常に見られる。であるがゆえに、例えば、毎回死のグループに入ってしまうアルゼンチンは、グループリーグ初戦から全開で臨み、有力な優勝候補でありながら早めに力尽きてしまっている。
 4年前のユーロでは、下馬評にも挙がらなかったギリシャが優勝したのだ。今大会も何が起こるかわからなくなってきた。
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「逮捕」について考える。
 今日は、捕鯨肉を盗んだとしてグリーンピースのメンバーが逮捕された。
 宅配便の配送所に忍び込み、他人の宅配物を持ち去る、という行為が、「証拠品として確保した」という理由で正当化されるのかどうかは、私もわからない。これが成り立つとなると、告発さえすれば郵便物を無断で抜き取ることは罪に問われなくなったりするかもしれない。これを権力を持つ人間に濫用されると怖ろしいことになる。グリーンピースのやり方は微妙な問題を含んでいるとは思う。
 ただ、私が違和感を覚えたのは、逮捕して身柄を拘束する必要があったのかどうか、という点だ。どうも、この「逮捕して身柄を拘束し、家宅捜索をする」というパフォーマンスのほうに重点があったように感じられもするからだ。つまり、警察の威力をこれ見よがしに見せつけたわけだ。
 最近、この手の逮捕が増えている気がするのである。先ごろ有罪が確定した、立川の自衛隊官舎でのビラ配布事件。4月には、早稲田大学文学部で、キャンパス内で演説をしていた早稲田の学生が、教員によって警察に突き出され現行犯逮捕されている。
 いずれからも感じるのは、「思想犯は抹殺しろ」というような雰囲気である。現在の日本では、思想信教の自由が憲法で保障されており、思想犯という犯罪はありえない。にもかかわらず、時の政権・実権を持つ側にとって目障りな考え方をする人間を、言わば別件逮捕に近い形で弾圧しようとしている。
 この傾向が強まっている背景には、世間がそれを許しているから、ということが間違いなくある。これらの事件で逮捕されるような思想の持ち主は、いずれも「特殊」で「過激派」っぽくて「普通ではない」人たちだと、世間は見なす。つまり、「あちら側」の人間だとして、「われわれ普通の人」との間に線引きを行ってしまうのだ。
 世論が線引きをして「あちら」と見なした人間には、もう何をしてもよい。とにかく犯人は罰せよ。
 そういうムードの中で、逮捕劇が演じられる。見せしめの暴力が、堂々と振るわれる。
 排除すればするほど、排除した側はやましさにさいなまれる。復讐されないかと不安になる。だから、過剰な自己正当化が必要になってくる。自分たちを正当化するために、さらに「間違っている連中」を作り出そうと、苛烈な排除を繰り返す。
 いったいこれで誰の気が休まるのだろうか。
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by hoshinotjp | 2008-06-20 22:51 | 社会
 このあたりで、サッカー、ヨーロッパ選手権(ユーロ2008)のことを。これまで全試合のうちの3分の1ぐらいは見た。一地方大会とはいえ、サッカー発祥地域の大会は、やはりひとつの強烈な文化だ。
 私のいち押しは圧倒的にクロアチアである。
 やたらと上手いのに、ひどく熱い。暑苦しい。ベスト8のチームの中で、最も魂を持ったチームだ。オランダ―イタリア戦も、オランダ―フランス戦も、じつにしびれたけれど、オーラのようなものがビンビンと伝わって私が洗脳されてしまったのは、クロアチア―ドイツ戦だった。
 じつは私は、98年のワールドカップでもボバン率いるクロアチアに魅了されて、決勝ラウンドからは肩入れしていた。だから、あのときのメンバーがスタッフとして指揮を執っているクロアチアのベンチを見ていても感動的だ。ドイツ戦での先制点のときは、監督のビリッチがアサノビッチに飛びかかってコアラのように抱きついていた。試合が終了したら、髪の薄くなって小太りのプロシネチキ(98年時はワイルドロン毛にヘアバンド)が選手たちを小突いて祝福している。そして、喜んだり怒ったり、激しい感情を大袈裟な身ぶりで示すたびに、ビリッチはあちこち過剰に身につけたお守りを落とす。ジャケットの内ポケットからは何か小さなものを飛び出させ、慌てて拾って何度もキスをしてまたポケットに収める。ガッツポーズをするたびに、はみ出したシャツのすそをズボンを緩めてたくし込む。どうやら、シャツの腹の部分に何かを入れてあるらしく、それを始終気にしているのだ。
 ビリッチは、その暑苦しさを選手に感染させることで、あの偉大なチームの再来だと選手たちに信じ込ませているのだが、クロアチア人でもない私まで信じ込んでしまっているありさまだ。再来どころか、それを上回るチームだと思う。
 モドリッチ、クラニチャルは言わずもがな、あれだけうまい選手たちが、ニコ・コバチらに象徴されるあの熱いハートで戦い続けたら、オランダだって倒せるはずだ。
 そう、私が見たいのは、決勝でのクロアチア―オランダ戦である。クロアチアがPK戦でポルトガルを絶望の淵に突き落とし、イタリアに勝利してタフネスを初めて身につけたスペインが、それを上回るオランダとの打ち合いに敗れ、クロアチア―オランダの決勝が実現する。そしてオランダに突き放されても突き放されても追いついたクロアチアが、モドリッチのまるでジダンを思わせる絶対的に不可能なパスに反応した炎のストライカー、クロアチアの播戸(あるいはゴン中山)たるイビチャ・オリッチの決勝点で、逆転優勝を手にする……
 サッカーの大きな大会を見ている間は、こういう身勝手な妄想が楽しいのである。でも現実は厳しかったりする。クロアチアはまず、熱さでは勝るとも劣らないトルコを相手に、死闘をものにしなくてはならない。オランダは、この大会の3戦で目を疑うような急成長を見せてなお変貌のさなかにある、ヒディング率いるロシアに苦しめられるだろう。そしてスペインは、「やっぱりねえ、最初からわかってたことだよね」と、すでに心の準備はできていたけれど一抹の裏切りを期待していた多くのファンに言わせてしまうような、相変わらずの結果を残してしまうかもしれない。ポルトガルは、ドイツのしぶとさの前に、フォワードの得点力のなさが命取りになって、「あれだけあったチャンスのひとつでも決めておけば」と悔やむことになるかもしれない。
 ともあれ、ここまでで言えることは、2年前のワールドカップ・ドイツ大会とはうって変わって、攻撃的なチームが結果を出しているということである。2年前のベスト4は、すべてヨーロッパ勢で、ホームのドイツのみが攻撃的なサッカーを展開した以外は、イタリアはむろん、フランスもポルトガルも、固い守備をベースにした、どれも似たり寄ったりの創造性の乏しいサッカーで勝ちあがった(ジダンを除く)。今大会は、その反動のようにさえ見えてくる。願わくば、決勝に至るまでこの傾向が続いてほしい。
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 第二次大戦以降、20世紀の間は、さまざまな地域で利己的な戦争・紛争が起こり続けてきたけれど、一方で世界の力関係をほどほどのところで拮抗させ、均衡を図ることで安定させようともしてきた。そのための知恵も絞り出されてきたのである。その意味では、リアリストでもあった。
 けれども、21世紀に入ってからは、せっかく絞り出されてきた均衡を図るための知恵を、あっけないほど簡単に捨て去ろうとしているように思える。原油や食料価格の高騰を見ていると、カネのある連中のあからさまな買い占めを国家が保証しているように見える。20世紀には大手を振ってはできなかった破廉恥な行為を、今は当然の権利と言わんばかりに平然としでかす。
 ブッシュ政権に象徴されるかれらには、均衡を壊して自分たちが肥え太ることが、自分の生存を保証している環境を破壊することになる、という、リアリストが持つはずの想像力が働かないのだろう。騰貴によって利権と支配を強固にできると思う者たちは、リアリズムを持たない妄想家・偏執狂だと言える。
 日本は二代目三代目四代目の社会だから、ひたすら傾く運命にあると私は思っているが、それは世界についても言えることなのかもしれない。
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by hoshinotjp | 2008-06-18 22:39 | 政治
 連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の死刑が執行される。新聞記者時代にわずかでもあの事件を取材した私にとって、とても虚しい死刑執行だった。死刑を執行しなければ何かが解明できたのか、と問われれば、たぶん現状と変わらなかっただろうと思う。それでも、これでこの事件が過去のものとして終わる、少なくとも世間ではそのように整理されてしまうと思うと、「いったい何だったのだ」と虚脱したくなる。あれほどの残虐さと非現実性に、私たちは背筋を凍らせ戦慄し、本当におぞましいと感じ、二度と起こってほしくないと強く願ったはずではなかったのか。それなのに、私たちは宮崎勤を「あちら側」へと追いやることで、事件を生みだした要素も見ないようにし、歯止めを掛けることに失敗した。
 あの事件以降、20年の日本をつぶさに見つめれば、宮崎勤のような人間が育ち、あのような犯行に及んだ原因は、間違いなく私たちが作っている社会にあることが、いやでも理解できる。つまり私たちも当事者なのである。「あちら側(異常)」と「こちら側(正常)」という線など引けないはずなのだ。だが宮崎勤をあちら側に置くことで、私たちはその事実から目を逸らしてしまった。
 その結果が、今の社会だ。連続幼女誘拐殺人事件と性質を同じくする事件が、普通に起きるようになっている。そのたびに、さらに線を引いて、私たちは、このような事件を成り立たせている要因から逃げ続けている。
 何だったのだ、私たちがあのとき嫌悪感を感じたという事実は。あの嫌悪感・恐怖は警鐘だったはずだ、嫌悪感をもたらすものが自分たちの中に潜んでいるという。ついにそれに目を向けることなく、当事者を葬り去ることで、事件を忘却の中に放り込んでしまった。
 きっと、オウム真理教の事件でも、麻原彰晃の死刑を間もなく執行して、同じことをするのだろう。そして、秋葉原の通り魔事件では済まないようなさらに悲惨な事件が、これからも続くのだろう。
 結局、司法も世間も、罰することにのみ終始し、再発を防ぐための努力は怠り続けているのだ。「イスラム過激派」の暴力を阻止するために、アフガンを攻撃し、イラクを攻撃し、イランを今度は攻撃しようと考えるようなものだ。それによって阻止できるどころか、むしろ拡大する一方なのに。
 それにしても、ハードルを低くして死刑判決を連発し、さらには大量の死刑執行を行う社会で、はたして生命の実感など子どもに感得させることができるのだろうか?と思う。私には、互いが殺し合っているようにしか見えない。冷静になって想像力を働かせれば、これはとてもまともな光景ではない。
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by hoshinotjp | 2008-06-17 22:27 | 社会
 今、私たちは二種類の恐怖に襲われています。一つは、ご承知のとおり、いつ誰に突然殺されるか、という恐怖。もう一つは、いつ、自分が他人を殺してしまうか、殺したくなるのか、あるいは気づかないままに死なせてしまうのではないか、という不安です。私には断言するだけの自信がありません、自分が絶対、殺す側に回らないとは。
 理由が何であれ、私は殺されるのはいやです。しかし、それを防ぎきれる自信はない。防ぐ自信がないから、いつでも襲われる覚悟を決めておこう、と、いつもいつも二十四時間、襲われたケースを先取りして考えてしまいます。そして、どう覚悟し対策を考えようとも、殺されるときは殺されるのだ、と思うと、死んでしまっても仕方ないかもしれない、と諦めてくるのです。まるで私はもう死ぬ運命にあるかのようです。私だけではない、みんながそうでしょう。人間いつかは死ぬ、といった寿命の話は別にして。
 死ぬ運命が決まっている人にとって、自分を殺すことと他人を殺すことに違いはあるでしょうか? 「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」と、どれも同じ行動のバリエーションでしかないのです。私の実感としては、殺されるにしても自殺するにしても、死ぬことはもうタブーでもネガティブなことでも悪いことでも暗いことでもなく、息や排せつのように誰もが普通にする行為で、どんなに偉い人でもそれを邪魔したり非難したりする権利はない。それを決めるのは、当人の気持ちだけです。
 本当の本当は殺されるのはいやなのに、私たちは進んで死に向かって突進しているみたいに感じます。
 どうしてこんなことになってしまったのでしょう?
 この疑問に答えはありません。いろいろな人がいろいろなことを言っているけれど、どれも嘘っぽい。少なくとも私はそう感じます。必要なのは、この突進を止めてくれる歯止めなのだけど、それがないのが致命的です。
 最初に言ったように、私には自分が殺す側に回らない自信がありません。私は自分におびえ、自分を信用できなくなっています。まして他人を信用できるはずがありません。あれほど好きで、バカだけど信じていた彼とも、最近、別れてしまいました。誰か他人と一緒に死なないで過ごすためには、ものすごいエネルギーと労力、緊張や工夫が必要だけど、疲れきっている私にはもうそこまでがんばる気力がない。誰かと生活を築いていこうとすることも、もうないでしょう。普通にしていたら死ぬのであれば、もうそれでいい、という気分なのです。投げやり、と非難するのはやさしいですが、はたして私を非難できる人はどれだけいるでしょうか。
 この疲れきった情況で、せめて私は自分が殺さないでいるよう努力するのが精一杯です。
 私はこれが現実だと思います。皆さんも目をそらさずに、現実を見てください。すべてのエネルギーを殺さないことに注いでほしいのです。それで、こんな文章を書いた次第です。


 上記の文章は、私が4年前に書いた長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』(中公文庫)第2部の一節である(176~178ページ)。「きさらぎ」という、脇役である20代の女性が、新聞投書という形で発表した文章だ(現実の新聞ではこんな長い投書は載らないと思うが)。
 無差別の通り魔殺傷事件が起こるたびに、私はこの登場人物と同じ無力感を覚え、諦念に侵蝕されそうになる。この小説の第1部は、自死がちまたを席巻する。その自死の理屈が暴走して、第2部のタイトルである「心中時代」が出現する。この「心中」とは、誰かを巻き添えに死ぬことである。
「「死にたい」イコール「殺されたい」イコール「殺したい」」という気分を漠然と抱えている人が、この社会にどれだけたくさんいることか。そのほんの一部の人が、事件を起こす。それは無差別の殺人であるかもしれないし、グループでの自死かもしれないし、簡単に死ねる方法での自死かもしれない。
 この作品を書いてから3年後の去年、私は現実はもはや、『ロンリー・ハーツ・キラー』よりもひどいありさまになってしまったと感じていた。それで、よりいっそう殺伐とした『無間道』という長篇小説を書いた。これは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という気持ちで書いた作品で、実際に自分へのダメージは覚悟していた以上に大きかった。
 今の私たちがさらされている暴力は、自分たちが認識している以上に巨大なのだ。その暴力とは、通り魔をするしかないところへ人間を追いつめていく暴力である。それは平凡に暮らしていると思っている人々の日常にも潜む。私たちの周囲にも、私たちの胸の内にも。さもなければ、生まれも育ちも違う、それぞれ別個の事情を抱えた人間が、いっせいに同じような行動を取って自死や殺人を犯すはずがない。ただ、普段は目に見えないから、そんな暴力などないものと信じ込もうとしているだけである。その暴力の根源がどこにあるのか。私たち一人一人が全力を尽くしてそれを見きわめようとしないと、このような事件の連続に、歯止めがかかることはないだろう。
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by hoshinotjp | 2008-06-09 23:38 | 社会