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 ブラジルの博物学者、橋本悟郎先生が去る26日に逝去されたことを、ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんのサイトで知った。享年95歳。
 私はむろん存じ上げているわけではなく、岡村淳さんの作品を通じて、またBumbaの連載植物誌を通じて、橋本先生の世界に触れてきただけである。岡村さんは橋本先生のシリーズを3本、制作されていて、現在は4本目に取り組まれているところだった。一人の移民を4作品に渡って記録するというのは、岡村さんのお仕事の中でも異例のことだ。その異例さが何であるのかは、それぞれのとてつもない映像作品を見ると、細胞に染み込むように伝わってくる。
 私にとって橋本先生は、昭和史の強烈なアンチテーゼであった。昭和以降の歴史が違っていたらありあえたかもしれない日本であった。寡黙に、ただその存在と生き方だけで、昭和以降の日本に異議を突きつけ、頑固に「こういう生き方をできるのだ」と示し続けられた。ブラジルで生きるということも含めて、日本がとり得た道を手探りでたどり続けられた。
 さらに言えば、博物学を研究すること、歌を詠むことが、自然の諸相を日本語で名づけ、日本というくくりの範疇に収めていくという、天皇家の役割についても、橋本先生は根本から覆す存在である。一生涯、在野の植物学者として南米の植物のあり方を研究されてきた姿は、自然をたおやかに支配していくのではなく、人間をその一部に還元するようなものだったと、私は感じている。
 お亡くなりになったときにこのような言葉を書くのは不本意で、本当は、岡村さんが4作目である「橋本梧郎・失われた滝を求めて」を完成されたときに書こうと思っていたのだった。
 岡村さんは、私の感じているような橋本先生のあり方を、確かに受け継いでいると、私は思っている。
 ちょうど岡村さんは現在、来日されたばかりで、これから一か月にわたり、各地で岡村作品の上映会が相次ぐ。橋本悟郎シリーズも、八戸の上映会で傑作「ギアナ高地の伝言」が上映されるなど、いくつか予定があるらしい。詳しい上映会情報は、岡村さんのサイトを見てください。
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by hoshinotjp | 2008-08-30 22:48 | 映画
  ◆自殺という戦争◆
 終戦の日がお盆のさなかにあることにはいつも、巨大な追悼の意思が働いているような不思議な感慨を覚える。だが、近年は「終戦」という言葉が少し空しく感じられる。確かに爆撃などはないけれど、本当に平和なら、どうして年間三万人以上もの一般人が、自殺していくのだろうか。 十年連続で三万人超、合計三十万人が自ら命を絶っている。一つの都市が消えたようなものだ。自殺志願者や未遂者を含めると、数は十倍にのぼるとも言われる。つまり、少なくとも三百万人以上が死の瀬戸際まで追いつめられている社会なのだ。
 数字で言ってもピンと来ない人は、自分の周囲を注意深く見回してみるといい。該当する者が必ずいるはずだ。私は、この五年で、四人もの知人を自殺で失った。
 自殺者の苦しみは、周囲の者に受け渡される。私は、戦時中に生き残った人が死者にやましさを覚える気持ちを、少し理解できるようになった。この感情は、死者が返らない以上、消えることはない。
 三百万人が、生きづらい社会から自らを消す代わりに、自分を追いつめた社会を壊す、つまり他人を破壊しようとしたら、どうなるか。その兆候は、無差別殺人の増加という形で現れている。現状ではこの傾向は強まるばかりだ。
 死者を追悼するとは、その苦しみを理解しようと努めることだ。今年のお盆には、身近で自殺した者たちの、表明されなかった言葉に耳を澄まそうと思う。
(東京新聞 2008年8月15日付夕刊1面「放射線」)

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by hoshinotjp | 2008-08-27 21:53 | 社会
   ◆北京五輪ボイコット宣言◆
 今夜開会する北京オリンピックを、私はボイコットする。むろん私は選手でも国家でもない。私のボイコットとは、北京五輪をいっさいテレビ観戦しない、ということだ。長年の五輪マニアの私には、苦渋の選択だけれど。
 五輪に合わせてウイグルやチベットで行われている弾圧に目をつむって、この大会を支持することはできない、というのがその理由ではある。
 だが、より根本的には、五輪はこのままでいいのか、という疑問がある。
 北京五輪だけが暴力的なのではない。オリンピックは常に似たような抑圧を伴ってきた。一九六八年のメキシコ五輪では、五輪反対を唱える学生たちを政府軍が大虐殺した。東京でもソウルでも、「国内浄化」が行われている。加えて、オリンピックがプロ化された一九八四年のロス五輪以降は、大会そのものが超高額の商品に化けた。巨額のマネーを産み出すその威力の前に、あらゆる暴力は正当化され、見て見ぬふりをされている。
 その商品を買っているのは、最終的には私たち視聴者だ。圧倒的な視聴率があるから、莫大な放映料やスポンサー料を、企業もテレビ局も払う。そして私たちはそれらの企業の商品に殺到する。テレビで見ることがオリンピックの商品価値を高め、どんな手段に及んでも五輪を成功させるという、国家の「犯罪」を擁護することになる。それを阻止する最も強力な方法は、視聴者をやめることだ。
 テレビでは見ないだけだから、新聞の五輪報道は読む。そして、私の好きな選手やチームの活躍を秘かに祈っている。
(東京新聞 2008年8月8日付夕刊1面「放射線」)


 ちなみに、4年前のアテネ・オリンピックが終わった直後には、こんなエッセイを、同じく東京新聞に書いている。

◆ブラインドとしてのオリンピック――「感動」とナショナリズム◆
 アテネ五輪は、じつは刺青の祭典でもあった。主に欧米の選手で、むろん全身に昇り竜などという派手なものはなく、たいていはワンポイント。微笑ましかったのは、どこかの男子競泳選手の両脇腹に彫られていた、鯉だか金魚だか、赤い魚が腹に向かってひらひら泳いでいる優雅な絵だ。あまり速くなさそうだったけれど、気持ちはわかる。
 文字も多かった。日本の男子陸上の為末選手は、肩に「侍」と入れていた。何よりも可笑しかったのは男子体操のアメリカの選手。平行棒で倒立をしているとき、普段は隠れている両の二の腕の内側に、それぞれ子どもの落書きのような字で、「虎」「父」という漢字が彫られているのが見えたのだ。「虎」はまだしも、「父」という刺青は新しい。アメリカ的な家族主義の気持ちの表れなのだろうか。あるいはもっと大きな、「祖国」のような概念だろうか。それとも、「天にましますわれらが父」だろうか。
 今大会に限ったことではないが、腕に国旗のシールを貼っている選手も少なくなかった。この選手たちが漢字で刺青をしたら、「国」と彫るのだろうか。「米」とか「露」とか「独」とか、彫るのだろうか。
 こんなに詳しいのは、私がオリンピック・フリークのせいだ。今大会はこれでも控えめにしたが、放映されている競技を片っ端から見ても飽きない。日本人選手が金を取れば、盛りあがる。でも、同じようにアルゼンチン・サッカーにも熱狂する。幸い、日本のテレビは、日本人選手が出ていようがいまいが、実に多くの競技を中継してくれる。
 オリンピックはナショナリズムを煽ると、よく言われる。いまは亡き作家の安部公房は、晩年の作品『箱舟さくら丸』で、オリンピックをグロテスクな筋肉と国家の祭典として描いていた。同じ言説は、サッカーのワールドカップでも、いつも批判の言葉として繰り返される。基本的には国家ないしは地域単位で出場枠を決めている以上、ナショナリスティックな感情から無縁でいられるはずはない。けれども、少なくとも日本の場合、本当にナショナリズムを強化してるのだろうかと私は疑問に感じている。
 大会期間中、沖縄では米軍ヘリが住宅地の大学構内に墜落する事故が起こった。米軍は現場を日本人立ち入り禁止にし、地元警察に現場検証もさせずさっさとヘリを撤去した挙げ句、ヘリの飛行をすぐさま再開した。現協定の上では許されている権限だそうだが、植民地に対する宗主国のような扱いと言っても過言ではない。もし、オリンピックで本当にナショナリズムが高揚しているのだったら、強烈な反米感情が沸騰するはずだろう。
 しかし、地元を除き、そうはならなかった。それどころか、ニュース自体を知らない人も多かったのではないか。なぜなら、大半の日本人がオリンピックに目を奪われ、報道も連日、「感動」以外の出来事はほとんど何も起こっていないかのような伝え方をしていたからだ。見る側もオリンピックだけを求めた。柔道の生中継を中断して台風情報を伝えたNHKは、抗議が殺到して電話が一時パンクしたという。世論のそのような中毒状態を見越して、政府も沖縄に対し非常に鈍い対応をしたのだろう。
 オリンピックはナショナリズムを煽り立てはしない、と私は思う。ただひたすら、見る者を高級な非日常の陶酔へと誘うばかりだ。メディアはその非日常に「日本」という名前を与え、感動を強調する。現実の構造とは切り離された、気分の上だけの淡いナショナリズムが、現実を見ないことを正当化する。
 むしろ、私たちはナショナリズムに対して免疫がないと思う。五輪で目を逸らしているうちに無意識に蓄積された鬱屈が、いざ現実を目の当たりにしたとき、非常に安直な形のナショナリズムとして爆発することを、私は恐れている。
(東京新聞2004年8月31日夕刊)

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 ついに心配していた事態が起こった。グルジアの内戦にロシアが介入し、グルジアとロシアの間に戦争が起こりかけている。アンナ・ポリトコフスカヤの『チェチェン やめられない戦争』を読んで以来、数年にわたってロシア及びカフカス地方に関心を持ってきたのは、こういうことが起こりうると不安だったからだ。これは第二次大戦前の、中国東北部の状況と似ている。ウイグルやチベットの問題も、構図はこれと共通している。最悪の事態に陥る前に、収束してほしい。

追記
 その後、グルジアとロシアは全面的に戦争状態に入った。グルジアは今、戒厳令が敷かれている。戦争状態とは、一般の人が住む地域が爆撃され、死者が多数でているということだ。ロシアはグルジアの都市を、グルジアは南オセチアの町を、それぞれ攻撃している。ネットでもこの様子を映した映像・画像は見られる。
 いずれもが自分の攻撃の正当性を主張するその根拠は、冷戦崩壊後、大国が各地で侵略、攻撃を行ってきた際の「屁理屈」から導き出されている。経済的な利益のために、言葉だけの正義を理屈として持ち出し、他国・他民族を攻撃蹂躙する。それを、ロシアもグルジアも真似しているのだ。チベットやウイグルで持ち出される理屈も、基本的には、近代化の過程で先進諸国が過去に国力を拡大させる際に用いた言い分の、醜悪なコピーだ。歴史は三度、四度と繰り返すうち、「茶番」とも呼べない、劣悪なコピーと化してしまった。
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by hoshinotjp | 2008-08-09 12:05 | 政治
   ◆味覚の洗脳◆
 小麦の高騰や食の安全意識の高まりにより、米の売れ行きがよいそうだ。わが家でも、毎朝パンを食べていたのを、白いご飯に変えた。すると、食習慣が微妙に変わった。
 まず、生野菜をあまり食べなくなった。パンに付け合わせていたサラダの代わりに、おひたしなどが増えたのだ。ハムやウィンナーや卵に、納豆と海苔が取って替わった。もともと好きだった味噌汁と緑茶は、消費量が倍になった。
 スーパーでは米だけでなく海苔の売れ行きも増えたというから、皆、同じような変更を考えているのだろう。
 そもそも、日本はなぜ、パン食を拡大させていったのだろうか。
 十六年前に中米のエルサルバドルを貧乏旅行したときのこと。当時は、アメリカの支援を受けた軍事政権と、民主派の反政府ゲリラとの間で繰り広げられた内戦が、終結したばかりだった。私は現地で知り合った大学の先生に、高級住宅街へ連れていってもらい、小洒落たレストランでパスタをごちそうになった。その小麦は、アメリカからの援助によるものだという。だが、中米はトウモロコシ文化圏である。小麦はアメリカ資本の巨大食品産業に渡り、パンやパスタやピザとなって高級住宅街で消費されるのだ。
 このとき私は、日本で第二次大戦後にパン食が拡大した仕組みを理解し、ショックを受けた。私たちは、味覚を洗脳されていたのだ。
 今、本当に必要とされているのは、洗脳を促す「食の自由化」ではなくて、「食の民主化」ではないだろうか。
(東京新聞 2008年8月1日付夕刊1面「放射線」より)

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by hoshinotjp | 2008-08-08 15:59 | 政治
     ◆子どもをカモにする性とカネ◆
 中学二年生の男子生徒がバスジャックを起こした事件。現時点での報道によると、意中の女子に交際を迫り、「十万円くれたらつきあってあげる」と言われて、周囲の生徒たちから十万円を借りようとし、トラブルに発展したらしい。
 性とカネ。動機を即断するのは避けなければならないが、古いようで新しいこの要因が、十四歳の少年に事件を起こさせたとすると、とても寒々しい気持ちになる。
 今の社会で男が起こす事件のうち、「性とカネ」のからんだ事件がどれほど多いことか。私の目には、秋葉原の無差別殺人を起こした加藤容疑者が、「彼女がいない非モテ」である自分に絶望したことと、十万円を払ってでも好きな女子とつき合いたいと少年が欲望することとが、表裏として映る。
 私はこれもグローバル化の結果だと思う。経済の自由化にともない、「性と恋愛」も自由化された。さまざまなパターンの恋愛が商品として売り出され、世界中の「持てる者」たちはこぞって、高級ブランド化した恋愛を買い求めようとする。その恋愛市場からあぶれた「モテない男」たちは、「性」をカネでやりとりする(買春・盗撮……)。さらにそこにも参加できない「持たざる者」たちは、惨めな敗残者として恨みをつのらせていく。ファストフード産業が人々の食欲を飽くなき消費へとエスカレートさせたように、性欲も経済の奴隷となっているのだ。
 このような市場の暴力が、十四歳の男子にまで及んだ結果が、この事件かもしれない。
(東京新聞 2008年7月25日付夕刊1面「放射線」より)

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by hoshinotjp | 2008-08-06 23:33 | 社会
 この記事と写真が気になって仕方がない。
「米東海岸にモンスター?」(東京新聞 2008年8月1日夕刊)
 ヤラセか? それとも、死骸が逃げたのか? チャペックの「山椒魚戦争」みたいなことが起きているのか?

追記・以下のようなサイトがあることを教えていただいた。
http://www.cryptomundo.com/cryptozoo-news/mm-newpic/
判断はご自由に。
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by hoshinotjp | 2008-08-03 23:13 | 社会
 Jリーグ対Kリーグのオールスター戦を、「ながら」で見たが、何だか中途半端な大会だという印象を受けた。これは「オールスター戦」ではなく、両リーグの「選抜対抗戦」ではないのか? 少なくともKリーグ側の選手はそういう意識で、真剣勝負として臨んできていたのに対し、Jリーグ側の選手は、お祭りであるオールスターに参加する、という感覚がどこかにあったと思う。当然、試合に対する緊張感や集中力に差が出てくる。
 大会の試みは面白いと思ったけれど、どう見てもこれはお祭りではなく、真剣勝負の対抗戦だ。となると、リーグ戦では見られない遊びのプレーが入ったりする、お祭りとしてのオールスターは消えてしまうことになる。それもちょっと寂しい気もする。しかも、この暑い時期に真剣勝負の試合を組むことは、ただでさえ過密な日程で消耗している選手に疲労をもたらすことになる。
 私としては、選手も気楽でいられるこれまでのオールスターに戻し、日韓両リーグ選抜対抗戦は、春にでも開催したらいいのではないかと思う。
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   ◆エコはどこへ?◆
「とにかくエコネタはないか、って上司がうるさいんだよね。この期間、エコ番組を放映しない日はないからね」
 テレビ番組を作っている友人がこうぼやいていたのは、二週間ほど前。だが、今はもうそんな要求もすっかり消えたという。なぜなら、洞爺湖サミットが終わったからだ。
 テレビだけではない。サミット開催に至るまでは、映像・活字と媒体を選ばず、いたるところから「エコ、エコ」の大合唱が響いてきた。
 環境問題への啓蒙それ自体は悪いことではない。私自身は昔から、ゴミの捨て方に厳しくて周囲から煙たがられる環境原理主義者だから、普段なら歓迎しただろう。でも、このたびの盛りあげ方には、違和感を覚えた。理由は二つ。
 まず、政府が主催するサミットに合わせ、大手メディアが足並みをそろえて、ちまたの関心を温暖化問題へと誘導するさまは、さながら政府の広報機関のようだった。一方で政府のサミット戦略を批判しつつも、サミットをわかりやすいイメージで報道しようとするあまり、安易に「エコ特集」を連発し、「環境サミットを成功させた」と印象づけたい政府の路線に、結果的に乗ってしまったのだ。
 世間のマジョリティも、環境問題を軽い祭りのように受けとめ、「自分も参加している」という気分を味わって満足したように見受けられた。終わってしまえばその祭りは過去のこと、次の熱狂を欲するのが、今の社会だ。
 メディアには、そんな熱狂を冷ます存在であってほしいものである。
(東京新聞 2008年7月18日付夕刊1面「放射線」より)

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by hoshinotjp | 2008-08-01 11:52 | 政治