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 2008年は個人的にも、社会的にも、私の人生のうちで最悪の年の一つであった。個人的にあまりよい年でなかったのは、社会的によい年でなかったことと連動していると思う。そしてそれは昨年に起こったいろいろな出来事の結果だった。
 何ごとでも最悪から考える私は、さまざまなことに絶望する心構えは常にできているつもりだが、想像上の絶望と現実の絶望の間には深い隔たりがある。十年ちょっと前、文学の終了時から小説を書き始めたので、世の文学などには関係なく小説を書いてきたつもりだったが、それでも今年は文学に対して本当に絶望した。
 象徴的に言えば、「自死する者たち、実体のわかっている暴力に殺される者たちが、大量に目の前にいるときに、文学は意味があるのか」という、古い問いになる。文学がそこにコミットして何かを変えうるとは思わないが、せめてその意思を、祈りを含んでいない文学は、少なくとも私はもはや必要としていない。
 小説を書き続ける気持ちは変わっていないが、来年からは文学から限りなく遠く離れて、縁を切りたいと思う。むろん、読み物を書く、という意味ではまったくない。今や文学とは読み物でしかない以上、私はそこから遠く離れたいということだ。
 文学が読み物でしかないことと、社会が現状のように思考を停止させて危機に流され、さらに危機を肥大化させてはパニックに陥る、という循環を繰り返していることとは、同根である。そこには言葉がないのだ。記号的なフレーズがひたすらコピーされるだけで、意思を疎通させたいと切望する表現はない。私はこの環境に無縁ではいられないけれど、できるだけ遠ざかり、私の文化を生きたい。
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by hoshinotjp | 2008-12-31 17:20 | 文学
   ◆死にたくなったら◆
 日本の自殺者は十年連続で三万人を超えているが、この経済危機のもと、年度末に向かって、自殺者がさらに急増するのではないかと危惧されている。
 予測できる事態なのに、黙って手をこまねいているわけにはいかない。そこで、「自殺実態白書」を作成するなど自殺対策に取り組んでいるNPO法人「ライフリンク」は、十二月一日より、「ライフリンクDB」(lifelink-db.org)なるサイトを立ち上げた。これは、経済的な苦境から精神的問題にいたるまで、さまざまなケースで追いつめられている人が、最後にどこへ救いの手を求めたらよいのか、支援機関を教えてくれるサイトだ。検索式になっていて、自分に当てはまる条件を入力すれば、最適な相談機関の情報がヒットする。
 私はライフリンク代表の清水康之さんとお話ししたことがあるのだが、二つの言葉が強く心に残っている。
 一つは、「生き心地のよい社会」。裏を返せば、今の社会は生き心地が悪い。ごく普通に生きることすら難しい。私はたちはじつは、とても異常な環境で暮らしているのである。まずはその異常さを認識しないと、いつまでも自殺は他人事だ。
 もう一つは「声なき声に耳を傾けたい」。自殺した人は本当は生きていたいのに、その訴えを聞いてくれる人が途絶え、死に追い込まれる。だから声を聞くことで、死は避けられるはずだ。それは同時に、この社会の何がどう異常なのかを聞くことにつながる。
 死への衝動を断ち切れるのは、身近な人の力なのだ。
(東京新聞 2008年12月5日付夕刊1面「放射線」)


追記
 年間の自殺者が3万人を越えたのは、1998年である。以降10年間、毎年3万人を越える自殺者が続いている。上記で紹介した「自殺実態白書」では、1998年に自殺者が急増した原因について、「1998 年3 月は決算期であることに加え、この時期は、金融当局の金融機関に対する自己資本比率検査が強化された時期であり、内部留保金を増加させなければならなかった多くの金融機関は、「貸し渋り」「貸し剥し」を行い、多くの中小零細企業の破綻の引き金となったと見られている」と分析している。
 この「98年3月ショック」の状況は、間違いなく今年度の3月決算期に、より大規模な形で繰り返されるはずである。だとすると、中高年男性を中心に、経済的に追いつめられて死を選択する人たちが急増するかもしれないことは、想像に難くない。
 望まない死を選択するさまに、私は耐えられない。その死のダメージは確実に周囲の者に及ぶ。命を最後の一滴まで生き尽くした私の叔父の、「もっと生きるということに真剣になれ!」と死の直前に放った言葉を、死を選択するよう追いつめている当事者たちに向けたい。
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by hoshinotjp | 2008-12-27 15:04 | 社会
「フォーサイト」1月号でジャーナリストの河内龍夫氏が指摘しているとおり、私も、麻生首相は天性の「無政府主義者」だと感じている。むろん、真性の無政府主義とは本質的にまったく違う無政府主義であるのは、世の中をいつでも滑る(統べる、ではない)麻生首相ならではだが。
 非正規雇用者の首切りにいち早く対応したのは、各自治体だった。麻生首相のしたことは、それについて「いいことだと思いますよ」と述べたことだ。麻生政権はもはや「連邦政府」の役割も果たしていない。
 河内龍夫氏の記事は「誰か『母方のおじいさんとは時代も違うし、そもそも政治家としての資質が違うでしょう』と言ってやる有為の側近はいないのだろうか」と結ばれているが、麻生首相の学年では「有為」はまだ習っていない熟語ではないだろうか。首相に伝わるか心配である。
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by hoshinotjp | 2008-12-24 15:08 | 政治
 クラブワールドカップ準決勝、マンチェスター・ユナイテド対ガンバ大阪。アンチ・ガンバの傾向がある私だが、試合が終わるころにはガンバに肩入れし、終わったらテレビの前で拍手してしまった。去年の浦和よりずっと得るものの大きい試合の仕方だった。
 5点取られてもまったく気落ちせずに、攻めまくっての3点には、マンUの選手もちょっと嫌だったのではないか。ファン・デル・サールは、口には出さないけれど、少しプライドが傷ついたのではないか。
 コーナーキックからの2失点は、どちらも世界との大きな隔たりを感じさせる、防ぎようのない失点だった。まるでディフェンダーなんていないかのように点を取られた。ルーニーの最初の得点もしかり。ガンバがあれだけパスを展開できたのも、マンUが全力でプレスを掛けてきたわけではないからだ。
 そういったことはわかっていても、このゲームはよかった。パチューカがアルアハリを逆転で破ったように、サッカー的な奇蹟がひょっとしたら用意されるかもしれない地点へ、少し近づいた内容だった。もう一回マンUとガンバが対戦することになったら、マンUは今度は叩きのめしてやろうと、きょうよりはもっと真剣に臨んでくるだろうと思わせるような、試合だった。
 パチューカ対ガンバは、とてもよく似たパス回し主体の超攻撃的サッカー同士だから、面白い試合になるかもしれない。もっとも、メヒコのチームはもう気が抜けて集中力を欠いているかもしれないけれど。
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   ◆トライアル'60◆
 先週、私の尊敬していた叔父が、病により六十一歳で亡くなった。
 叔父は重度の障害者で、ずっと車椅子生活を送っていた。二十二歳のとき、学生運動中に脊髄を損傷したのだ。下半身不随となり、三十二歳からは週三回の人工透析を余儀なくされた。
 だが叔父は、真剣に生きるという点において、誰よりも健康であった。人なつこく楽天家で、決して怒らない。一方で筋金入りの正義漢で、常に弱い立場の人とともにあろうとした。障害を負うや、東京を駆け回り、車椅子生活者にとっての便・不便を解説したガイドマップを刊行。まだ「バリアフリー」という言葉も概念も一般的ではなかった一九七〇年代から、車椅子でも普通に生活できる街作りを目指し、現在のバリアフリーや障害者自立支援の基礎を築きあげた。
 私は、叔父の活動については無知だったが、叔父の存在には深い影響を受けてきた。私にとって叔父は、言っていることとやっていることが違っておらず、諦念とともに現実となれ合ったりしない、数少ない大人だったからだ。
 去年から、叔父は急速に具合を悪化させていた。首から下が完全に麻痺して手も動かせず、自力では何もできなくなったのだ。それでも叔父は、「トライアル'60」というブログを開設して、自分の病状や考えを書きつづった。内容は壮絶だが、叔父らしい前向きさに、どれほど私は励まされたか。肉体は去っても、叔父の精神は言葉に生きている。
(東京新聞 2008年11月21日付夕刊1面「放射線」)

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by hoshinotjp | 2008-12-15 23:52 | 身辺雑記
   ◆管理中毒◆
 砂風呂遊びで中学二年生が重態となった事件や、今月(11月)初めの、川崎の中学校で一年生が机に飛び乗り、はずみで窓から転落死した事件。いずれも痛ましい出来事であり、二度と起こってほしくはない。
 だが、二度と起こらないためにはどうしたらいいのかと考えると、私にはよくわからない。転落事故は授業中に起きており、学校側の責任は免れられないだろうが、日常化する学級崩壊やいじめのことを思うと、教師の努力だけで防げるかと疑問になる。まして、休日に他校の砂場で起きた砂風呂事件は、学校側がどうにかできる問題ではない。にもかかわらず、こういう事故が起きると、学校の安全管理不足ばかりが強調される。
 確かにいじめを隠蔽したりと、学校の体質が信用できない面は多々あるにせよ、私はどうも腑に落ちない。ほんの十年ぐらい前までは、学校の過剰管理こそが問題視されていたではないか。いつから、管理が足りないという批判のほうが一般的になったのか。
 変化したのは学校ではなく、世間だと私は思う。大人たちは、自分が厳しい管理下に置かれているうち、中毒症状を呈し始め、自立を放棄して、自ら管理を求めるようになってしまったのではないか。
 これらの事故は、学校に限らず大人が、子どもを管理・干渉しすぎる結果、起こったという気がする。何が危険なのかを学ぶのは、子ども自身だ。大人が安全管理に過敏であるがゆえに、子どもが学んで成長する機会を奪っていると思うのである。まず必要なのは、大人の自立だろう。
(東京新聞 2008年11月14日付夕刊1面「放射線」)

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by hoshinotjp | 2008-12-10 23:48 | 社会
 岡村淳さんの新作、「あもーる あもれいら」第2部『勝つ子 負ける子』を、湘南台での上映会で見る。
 魂ごと持っていかれるような作品だった。この2年間、あまりに多くの不本意な死に立ち会って、そのやりきれなさに参っていたのだが、なぜこんなに不本意な死があふれていて、やりきれなくなるのか、この作品は、その答えを、説明ではなく、大きな曼陀羅、深い啓示で示してくれた。私は救いを感じた。
(以下、映画の内容に触れています。)
 ブラジルはパラナ州にある田舎町アモレイラの保育園には、きわめて貧しく、厳しい問題にされされた家庭の子どもたちが集まっている。その子らのめんどうを見ているのは、長崎純心会から派遣されたシスターたちだ。
 冒頭から、タイトルどおりの厳しい出来事が起こる。栄養失調の女の子が、ミルクに汚れた花びらを入れられている。その子はしかし、岡村さんのカメラにだけは笑顔を見せる。ブロックで遊んでいるときも、笑顔でカメラに向かい、「ママイ、ママイ」と言っている。岡村さんとこの子の絆に、こちらの心が穏やかになったとたん、この子は笑顔のまま、衝撃的な言葉を口にする。私はこわばるほかない。
 このように、さまざまな形の「勝つ子」「負ける子」のさまが描かれていくのだが、そのクライマックスは、最後の「お話大会」。子どもたちは平和をテーマにしたワンフレーズを覚え、聴衆の前でそれを暗誦するのだ。審査委員たちが点数を付け、うまくできた子には賞が与えられる。順位を付けるのは、子どもたちに負けることを学ばせるためだと、堂園シスターは言う。思い通りにいかないこともあるということを知ってもらうためだという。
 だが、「負けた」子たちの姿は、あまりにも痛ましい。「勝った」子たちは、容赦なく「負け組」をいたぶる。
 なぜこんなに痛ましいのか。
 映画は中ほどで、2005年の8月9日を迎える。長崎の原爆投下60年の日である。60年前に現場にいた宇田シスターは、殉難された方たちがいるから、今自分たちが平和に生きているという思いがある、と語る。岡村さんは、生き残る人と、亡くなる人と、それを分けたものは何なのでしょうね、と問う。宇田シスターはしばしの沈黙の後、神さまにしかわからないと答える。
 勝つ者と、負ける者と、それを分けるものは、いったい何なのか。亡くなった人がいるから、生きている人がいる。負けた者がいるから、勝つ者がいる。それを分けるのは、何なのか。
 映画は答えをはっきりとは示さない。ただ、その理不尽さを強いているのが人間であることは、明確に示されている。人間とはそういうものなのか、それが業か、と切なくなる。
 あもれいらの子どもたちは、むきだしの死や暴力と隣り合っている。だから、作品の中で日付けが変わるたび、ああきょうもこの子はいる、あの子もいる、と顔ぶれを確認しては、私は安堵を繰り返した。子どもは屈託なく無邪気にはしゃぎ回っているのだが、画面じゅうから、生きたい生きたい、という、強烈な訴えが迫ってきて、見ている私たちの逃げ道を塞ぐ。私は苦しくなると同時に、自分もじつは死と隣り合っているのであり、この子たちのように必死で生きることはできるのだと感じ、生きていることの喜びに包まれもする。それがこの美しく苛酷なドキュメンタリーの与えてくれる、とても優しい救いなのだ。
 あれこれ小賢しく書いても、この映画は許してくれるだろう。この作品は、詩とか、聖書の言葉とか、経典だとかと似ている。いくら言葉を費やしても、意味はあふれ出てくる。
 きょう、見に行って、本当によかった。
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by hoshinotjp | 2008-12-07 23:57 | 映画
 奇跡が起きた。これぞジェフ魂! Jリーグ最終節、ジェフ千葉対FC東京戦、0-2から4点取って逆転(しかも後半30分ぐらいから立て続けに)、J1残留を決める。試合は見ていないけれど(見られない)、全体的に低調だった今季Jリーグのハイライトだった。間違いなく、今年は優勝争いよりも降格争いのほうが面白かった。
 ピクシーの名古屋の優勝を望んでいたが、楢崎の離脱と経験不足から来る終盤戦の停滞は残念。Jリーグ最少失点記録を更新した大分のディフェンスは、日本のサッカーに新しい感覚を持ち込んだのではないだろうか。相手を威圧するディフェンスというだけでなく、相手の腰を引かせるカウンターがすごかった。速く鋭い。これは今の日本代表に足りない感覚。
 ところで川崎は何で2位にいるんだ? そこまでできるんだったら、もっと早くから優勝を主役として争うべきチームだ。清水もそうだけど。
 鹿島については特にコメントなし。浦和についてはさらにコメントなし。
 あとは来季、山形が残留できますように。
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 遅まきながら、『崖の上のポニョ』を見てぶったまげた。これはすごい映画なのではないか。もう、因果関係や物語なんかどうでもいいという感じで、ひたすら妄想のような細部が暴走している。私は爆笑したり泣いたりで、大変だった。また見たくなっているという、中毒性の強い映画だ。
 同じ日に『レッドクリフ』も見たのだけれど、退屈至極だった。時計ばかり見ていた。暇ですることがなくて、もう少し明るければ読書でもするのに、と思ったほどだった。できることといえば寝ることぐらいなので、寝た。戦闘シーンを始め、あらゆる映像が、すでに何回となく見た紋切り型の映像で、空しい。物語としても出来が悪すぎないか。
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by hoshinotjp | 2008-12-05 23:02 | 映画
  ◆律儀な遺伝◆
 異変に気づいたのは、「北堀真希」と口にしたときだった。NHK大河ドラマ「篤姫」に出ている女優である。すかさず連れあいから、「堀北真希だよ。その間違いは恥ずかしいよ。倖田來未のことも、倖田未來って間違えてたよね」と指摘される。
 言われてみれば、このところ、言葉が入れ替わってしまう間違いが多いのだ。株式公開買い付けを意味する「TOB」を「TBO」と覚え、「AO入試」は「OA入試」だと思い込んでいた。
 これがショックなのは、記憶力の衰えを突きつけられたからではなく、母の間違い方とまったく同じだからだ。母が「ガルシア=マルケス」を「マルシア=ガルケス」などと呼ぶたびに、何できちんと覚えられないのだ、と私はあきれてきた。本人は正確に覚えているつもりなのだと、今の私にはよく理解できてしまうのが悔しい。
 不思議なのは、「アナグラムのように言葉を入れ替えて覚えてしまう」という性質が、律儀に遺伝することだ。わが間違いを容赦なく指摘した連れあいも、彼女の父親から奇妙な癖を受け継いでいる。タンスの引き出しを必ず閉め忘れたり、片づけるはずの食器を一つだけ残したりと、最後の締めの行為が抜け落ちるのである。何年も離れて暮らしているのだし、日常の習慣が擦りこまれて似てきたとは思えないので、これも遺伝子のなせるわざなのだろう。
 避けようもなく、固有名をひっくり返して覚える定めだったのだと、運命のせいにしておこう。
(東京新聞 2008年11月7日付夕刊1面「放射線」)

 後日、このエッセイを読んだ母親から、「私も北堀真希だと思ってたのよ」と電話があった……。
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by hoshinotjp | 2008-12-01 23:57 | 身辺雑記