<   2009年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 アメリカのオバマ大統領が、妊娠中絶への援助、グアンタナモ基地閉鎖の準備、ロビイストの政府スタッフ入り禁止、温暖化対策など、矢継ぎ早に、これまでの路線を変える政策を打ち出している。いずれもしごくまっとうで、おそらく米国民だけでなく、世界の多くの人々が望んでいた施策だろう。
 私もこれを歓迎しているけれど、よくよく考えてみれば、クリントン政権時代へ戻っただけとも言える。逆に言うと、この8年間のブッシュ政権時代、米国民だけではなく世界中の人が、いかに異様な統治権力の影響下にあったかということだ。本当に呼吸の苦しい時代であった。その意味で、私は今、オバマの変革というより、ブッシュという覆いのない、透明度の高い空と大気を満喫している。私でさえそうなのだから、米国民はさぞかしほっと一息ついていることだろう。

 ボリビアでは、先住民の権利を大幅に拡大し保証する新憲法が、国民投票により可決された。これも素晴らしいことだ。私はベネズエラのチャベス大統領については、必要悪だと自分に言い聞かせつつ、あの強権指向と俗悪なまでのポピュリストぶりがどうしても受け入れられないが、チャベスの盟友であるボリビアのエボ・モラーレス大統領はすごくいいと思っている。この新憲法によって、社会の格差は少しずつ緩和されるだろう。ただ、厳密に注意深く運用しないと、南アのように先住民の新富裕層を生み出すだけになりかねないので、楽観視はできないが。

 そして日本では、二次補正予算が成立。論議の的となった愚策、給付金の配布が決まったということだ。こんなカネは拒否しようかとも思ったが、税金の公平な分配機関として政府が機能していないのだから、自分がその代理を果たすしかないと考えた。つまり、私に給付されたお金を、本来税金の投入が必要な場所へと回すのだ。宵越しの給付金は持たないで寄付しよう。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-27 23:36 | 政治
  ◆右傾化十年◆
 一九九九年の日記に、私は次のような内容のことを書いている。
「一九九九年は日本の右傾化元年だと記憶することにしている。右傾化とは、国歌国旗法や通信傍受法を成立させガイドライン改訂を行うといった出来事だけではなく、自己を何か曖昧で集団的なものに委ねることが本格的に始まった動きを指す。オウム真理教の代わりに、誰もが納得でき言い訳の立つものに帰依しようとしている。そして政治がそれにお墨付きを与える」
 当時の私は、「何か曖昧で集団的なもの」が「日本」であり、ナショナリズムが沸騰して全体主義的な暴走を始めることを危惧していた。
 けれど、右傾化十年目を迎える今の社会を見渡せば、日本社会がいかに壊れているかばかりが目立ち、国に「誇り」を持つどころではない。
 今から思えば、十年前に起こっていたのは、「国権の発揚」だったのだろう。それまでの主権在民を尊重する姿勢をかなぐり捨て、国家が権力をあからさまに振るい始めたのだ。九〇年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされた。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる。
 この状況を一気に打開してくれるカリスマを求めるような真似はもうやめにして、来年(2009年のこと)こそは自分たちで変える意思を持とうではないか。この十年をさらに悪い形で繰り返さないためにも。
(東京新聞 2008年12月26日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-24 13:17 | 政治
 ACミランのカカーが、130億円というとんでもない巨額でマンチェスター・シティに売られることを断った。ミランは130億円に目がくらんで移籍を容認したが、カカーが拒否した。チェルシーに移籍が決定していたのに、前日に金に釣られてマンチェスター・シティへの移籍へと決定を翻したロビーニョとは、異なる決断を下したわけだ。巨万の富よりも、ミランでプレーしミランの象徴となることを大事にしたのだ。
 カカーの決断は、すべてのサッカー選手への手本となるだけでなく、この業界の馬鹿げたビジネスモデルを成り立たせなかったという意味でも、偉大だと言えるだろう。
[PR]
 あえてこの言葉を使うが、ガザやジェニンでイスラエルの行ったことは「ホロコースト」ではないのか? 数のうえではナチスがユダヤ人に対して行ったホロコーストと比較にはならないとはいえ、質としては同じ構造を持っていないとは言えないのではないか? あの無差別な殺戮ぶりに、パレスチナ人を根絶やしにしようとする衝動がなかったと断言できるだろうか。
 なぜここまでの虐殺を行うのか。ナチスによるホロコーストの記憶がそうさせるのか? 虐殺・虐待された記憶は、それを繰り返させるというのか? だが、繰り返しを断ちきっている例はいくらでもある。それとも、これが人間の習性なのか?

 こういう現実に対し、文学が直接的には無力であることは、承知のうえである。だからといって私は、文学は無用であるとも思っていない。ただ、こういう現実に対して無力であることの言い訳として、文学が存在している現状には、苛立ちを覚える。文学が希望を与えると謳って何かを見えなくさせる役割を果たしているのであれば、文学が消滅してもよい、と思っている。
 何かを表現すれば、何かを隠してしまう。表現には必ず、そのような性質がつきまとう。何者をも傷つけず、何者をもブラインドに置かないよう、すべてに配慮した表現は、もはや表現ではなくなるだろう。私が求めているのは、表現のそのような性質にやましさ、うしろめたさを抱きつつ、それでも表現しようとする意志である。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-19 23:09 | 社会
   ◆「生きるな」◆
 社会には文脈があり、同じ行為でも、例えば時代背景という文脈の違いによって、意味が変わってくる。カウンターカルチャー全盛期の一九六〇年代に大麻を吸えば、反権力の犯罪とも解釈されただろうが、現在の大麻は、麻薬へと続く自己破壊でしかない。
 私は今、「マリファナ」とは書かなかった。「大麻汚染」など、報道は「マリファナ」でなく「大麻」を使う。その結果、「大麻」には犯罪イメージが染みつく。私はあえて犯罪の印象を強めたのだ。
 これも文脈である。文脈を読む能力とは、リテラシーである。リテラシーが低いと、世の中の情報を何でも鵜呑みにしやすくなったり、暴力的な失言が増えたりする。だから、社会的文脈を作る力を持った権力者やメディアには、高いリテラシーが求められる。
 だが、実態はどうか。巨額の利益を上げ体力のある大企業が、非正規雇用者の首切りを、率先して行う。皆やっていることだからと、内定取り消しを平然と行う会社が続出する。加えて、ここ何代かの首相の、無責任なさま。
 これがどんな文脈を作り出すか。損をしないためなら、人を死に直面させても構わない。他人の命など気に掛けるより、自分のことを考えろ。大人は下の世代を壊そうとしている。無用な人間は、強引にでも排除してよい……。
 社会の文脈を読めば読むほど、「生きるな」というメッセージばかりが目立つ。今、権力者に必要なのは、死を促す文脈を断ち切り、「生きよう」と思わせる文脈を作り出すリテラシーではないのか。
(東京新聞 2008年12月19日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-16 23:12 | 社会
  ◆ライブ上映会◆
 今年(2008年)は、日本からのブラジル移民開始百年だった。さまざまな催しが行われたので、ブラジル移民に関心を持たれた方も多いだろう。
 そんな方にお勧めしたいのが、記録映像作家、岡村淳さんのドキュメンタリー映画。約二十年前に自らブラジル移民となった岡村さんは主に、日系移民社会から少し外れて独自の生き方をしているマイナーな一世たちを、自主制作のドキュメンタリー映画として撮られている。
 ユニークなのは、作品の公開方法だ。商業とはまったく無縁のスタイルを確立しつつある。すべてが有志による自主上映会で、一部の例外を除いて、カンパ制(映画の制作費になる)。岡村さんが必ず立ち会う「ライブ上映会」とするため、作品を見られるのは年に何度か、岡村さんが訪日している期間のみ。その期間には、上映のオファーがあれば岡村さんは全国どこへでも赴く(上映会情報は、サイト「岡村淳のオフレコ日記」で見られます)。
 このネットワークは、驚くべき勢いで広がりを見せた。上映に来た人が、別の地域で上映会主催者になるケースが相次いだのだ。作品がすばらしいだけでなく、岡村さんとのやりとりが楽しいため、作品の世界が隣人のように身近に感じられてくるからだ。
 絵画でも映画でも、何もかもが商品として投機の対象になる現在、利潤を生まないのに成り立つこの方法は、自由化経済とは違う生き方ができることを証明している。
 小説もこれに倣うことはできないかと模索中である。
(東京新聞 2008年12月12日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-13 23:42 | 映画
 東京新聞(中日新聞)が夕刊の文化面で連載している企画「2009ことば考」がなかなか面白いのだが、特に第3回目の大石紘一郎氏の論考には、深く共感した。大石氏は政治学者だが、オウム真理教の信者たちが、いかに自分たちの「常識」を言葉で作り上げていったのか、「言語ゲーム」という観点から分析している。重要なのは、オウムの信者たちだけが特殊な「言語ゲーム」を展開していたわけではなく、翻って私たちの属している一般社会を見た場合、私たちも同じように言語によって「常識」を作り上げているという点だ。「ポア」といった言葉も、繰り返し擦りこまれていくことで、その社会では「常識」の一つとなり、違和感を覚えなくなる。同様に、「自己責任」という言葉も、繰り返されることで自明化し、その使われた方の異様さを感じずに誰もが「常識」として口にするようになる。

 私も大石氏に倣って、このところ気になっている言葉の使われ方の例を挙げよう。
 殺人や傷害事件を起こした容疑者が逮捕されたとき、新聞を初めとするメディアの報道では、かなりの頻度で、「被害者に対する謝罪や反省の言葉は聞かれないという」といったフレーズが挟まれる。これはごく最近になって急増している現象である。
 私はこれに強い違和感を覚える。報道が、まだ「容疑」の段階で罪が確定しているかも定かでない者に対し、「謝れ」と強要しているかのようだ。容疑者が謝罪や後悔の言葉を漏らしているというのなら、そう報道してもよいだろうが、そういう言葉を口にしていない、ということをことさら書き立てるのは扇動でしかない。事件の背景もわからないのに、「人に危害を加えて誤りもしない異常な人間なのだ」といった先入観ばかりを読み手に与える。そもそも、謝罪や反省ができる状態ならば、最初から犯罪など犯さない。何かに追いつめられて限界を越えてしまうのであって、メディアの役割は、当事者を追いつめているその要因を追究することにあると思う。報道が率先して、司法の判断も待たずに、異分子だと決めつけ切り捨てるような書き方をするのなら、報道の自由は死ぬ。
 メディアが、世論や世間の情動から自由であるとは思わない。しかし、それに流されて扇動者に成り下がるのであれば、それは喩えて言えばオウム真理教教団の中で、信者に教義を洗脳する幹部になるようなものである。
 かくして、外部から見れば異様なのに、内部の人は何のおかしさも感じないというオウム社会的な、内輪の「常識」が蔓延していくのである。

 異様さを異様だと感じなくさせるのは、言葉の力である。逆に、常識だと感じていたことに潜む異様さを気づかせてくれるのも、言葉の力である。文学の言葉とは、後者の力を持つ。読みやすくわかりやすい小説の多くは、じつは前者の力に頼っている。つまり、内部の価値観に基づいて、言葉を使っている。だから、どれほど内部社会での問題を告発するような小説であっても、内部の言葉を使っているために、根本の世界観は揺るがない。むしろ、内部の言葉を繰り返すことによって、「常識」を強化する役割すら果たす。
 私の考える「文学の言葉」は、外部の言葉によって、内部の言葉づかいそのものを浮き立たせる。どんな言語ゲームが行われているのか、洗脳が働いているのか、目に見える形にする。でも、外部の言葉で書かれているので、内部の言葉を「常識」だと思っている人が読むと、読みにくい。この読みにくさこそが、「洗脳」を解く鍵なのだ。読むための苦労は、中毒症状から解放されるさいの苦痛なのだ。
 それを避けたがる今の社会は、世の中じゅうが洗脳に酔い、深刻な中毒症状を呈しているというほかない。
[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-09 12:33 | 社会
   ◆死をうながす死刑◆
 長いこと、私は死刑を必要悪だと思ってきたが、ここ数年で、死刑はなくすべきだと考えが変わった。
 刑罰には、社会へ対する警告やメッセージという側面がある。乱暴に言えば、死刑は「殺した者は殺される。それでもよいのか?」という抑止だったはずだ。だが、今は本当に抑止として機能しているかというと、私には正反対の効果を及ぼしているようにしか見えない。すなわち、「余計な人間の命は奪ってもよい。生きているに値しない人間は、死んでよい」とでも言うような、人を死や殺人へと駆りたてるグロテスクなメッセージに変わったと感じる。
「誰でもいいから殺して死刑になりたかった」という理由で通り魔事件が相次いだのは、今年(2008年)の前半だった。元厚生事務次官らの殺傷事件も、同類だと私には思える。それだけではない。毎年三万人以上が自殺するのも、死刑執行が発するこのメッセージの圧力と無縁ではなかろう。
 私たちは自覚できないほど深く、自分のまわりにいる人間から影響を受ける。大人が次々と自ら命を絶っていく環境は、「自殺は普通のことだ」というメッセージとなり、死へのハードルを低くする。同様に、死刑判決が乱発され、次々と執行される世では、他人の命を奪うことへのハードルが低くなる。死へ駆りたてられる社会では、「死ぬこと」も「殺すこと」も、同じ行為になってしまう。
 死刑が目立つ社会は、戦争下にある社会とあまり変わらない。だから死刑は廃止する必要があると思うのである。
(東京新聞 2008年11月28日付夕刊1面「放射線」)

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-07 23:30 | 社会
 オシムが日本を去ってしまった。日本のサッカー界は、かけがえないのない人物を軽率に手放してしまった。無念極まりない。
 たとえ指導はできなくても、オシムがスタジアムに来て、Jリーグから代表にいたる試合を観戦しているだけで、選手にも観客にも岡田監督にも無言の影響力を発揮していたと思う。しっかり見ているんだから気を抜くな、というプレッシャーを与え続けていたと思う。オシムはそういう重力を与えられる人物だった。それが消えてしまうことは、日本のサッカー環境が、少し弛緩することを意味する。日本サッカーを見守りたい熱意を持っているオシムを、サッカー協会はきちんと活かせなかったのではないかという後悔が残る。
 オシムのこの重力はどこから来るのか。
 年末に、オシムが長い推薦のコメントを寄せていた、サラエボの映画『サラエボの花』(原題は『グルバヴィッツァ』)を見た。オシムの生まれ育った町グルバヴィッツァで、ボスニア戦争時に実際に起こった悲劇を、とても静かに描いた作品である。思い出すだけでも涙が出てくるような、不条理と愛情に満ちた作品だった。この映画で描かれるような現実を、オシムも体験したのだ。「サッカーで起きることは人生でも起きる」。よくオシムが口にしたフレーズの、「人生」の部分をこの映画に置き換えて想像してみると、オシムは、これほどまでに理不尽でいたたまれない出来事をいかに乗り越えるか、サッカーを通じて考え伝えようとしてきたのだということがわかる。だから、オシムとともにサッカーをし、サッカーを見、喜怒哀楽を感じることは、人間の醜悪さの極限から限りない美しさまでを学ぶことに等しかったのだ。
 オシムは自分が体験した極限を、サッカーという言語に翻訳して、選手や観客に伝えてきた。私たちに伝えたかったことはまだまだ残っていただろうに、私たちはもっと学べるはずだっただろうに、本当に残念である。何らかの形でまた戻ってきてくれることを切望している。
[PR]
 明けましておめでとうございます。
 今年も当サイトをよろしくお願いします。
 来週1月9日(金)に、岩波書店より新刊が刊行されます。
『水族』という短い小説で、画家・小野田維さんとの饗作です。
 岩波書店の編集者から、Coffee Booksという物体として美しい絵と小説の小さな本のシリーズを始めるので参加しませんかとお話をいただいたとき、相方の画家として紹介されたのが小野田さんでした。画集『遠い楽園の記憶』のページを繰った瞬間、私は惚れ込んでしまい、小野田さん以外の方とこの仕事をすることは考えられなくなりました。
 小野田さんが日ごろ描きためていた線画のスケッチを拝見し、私の水族館熱、魚になりたい欲望がそれらの絵にも蠢いているのを感じ、まず私が50枚ほどの短篇を書きます。その文章を読んで、今度は小野田さんがテンペラの絵を描き、私がそれらを見てさらに小説の細部を膨らませ、完成させたのでした。私の頭の内部の、まだイメージになっていないものを、絵として描いていただいたような、不思議な体験でした。それは私も小野田さんも、魚、植物、猫、花、水中といったモチーフに、同じような形で取り憑かれているせいだと思います。
 ぜひお手に取っていただければと思います。
c0104199_11473269.jpg

[PR]
by hoshinotjp | 2009-01-02 11:48 | お知らせ