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 今年2度目の訪日中である岡村淳さんの新作『さまよう人とともに マルゴット神父にきく』を、松原教会での上映会で見る。マルゴット神父は『あもーる あもれいら』の舞台であるアモレイラ保育園を設立した方。ベルギーで生まれ、カトリックの神父として日本に赴任、20年の布教活動ののちブラジルに渡ってアモレイラの町で活動、晩年の世紀の変わり目のあたりにはまた日本でデカセギの日系ブラジル人支援に奔走、ブラジルで生涯を終えた。岡村さんはマルゴット神父のインタビューを90年代後半に行っていて、このたび『あもーる あもれいら』3部作制作に当たって、メタレベル的な作品としてまとめたのである。なので、『あもーる あもれいら』と合わせて見ると、とても効果がある。
 マルゴット神父の言葉を聞きながら私が思い出したのは、スペインの映画監督ルイス・ブニュエルの言葉である。フィルムの寿命はたかだか50年程度、人間の世がまともになるなら自分の作品など消えてなくなっても構わない。私の記憶がアレンジしていると思うが、確かそんな言葉だったと思う。稀代の倫理的嘘つきであったブニュエルのこの言葉は、半分は嘘だと思うが、半分は本気も本気だったと思う。マルゴット神父にとってのカトリックは、まさに、「人間の世がまともになるならカトリックなど消えても構わない」というようなものであったのではないかと、私には思えた。ここ何年も、私は自分自身は信仰を持たずとも、人間にとっての宗教の必要性を感じてずっと考えてきて、どう理解してよいのかいまだに解答を得られずに来ているが、マルゴット神父の言葉はその疑問に対するとても納得のできる答えであるような気がした。宗教を、権威という概念から遠く離れた地平で実践している希有な聖職者だと思う。その人がアモレイラの保育園を作り、その活動を岡村さんが記録していることに、豊かなハーモニーが響くのを聴いた。
 続いて上映会では『あもーる あもれいら』の第一部を上映。私は約1年半ぶりの再見であるが、やはり『あもれいら』シリーズへの思い入れは特別で、映像が始まるなり自分の体内が柔らかく解きほぐされていくのがわかる。そして、新たにつけられた副題が『第1部 イニシエーション』と現れたのには鳥肌が立った。この言葉の力にガツンとやられた。『あもれいら』の世界を第2部まで見ている私には、入園初日からひと月ほどの間を描いた第1部が、入園した子どもたちにとってまさに園内社会へ入るためのイニシエーションの日々であることを痛感したし(「洗礼」という言葉では足りない)、何よりも、この言葉が日本社会の中で持つ「色」を変えてしまう命名だと思ったのである。
 ご承知のとおり、日本でイニシエーションという言葉がメジャーになったのは、オウム真理教の事件を通じてである。このため、「イニシエーション」には殺人集団の恐ろしい洗脳儀式であるかのようなイメージが染みついた。現に、岡村さんによると、この副題はオウムを思わせるからやめたほうがいいという意見もあったという。けれど私には、通過儀礼を意味するこの言葉の真意こそが『あもれいら』第1部にふさわしいと思われたし、この作品には、「イニシエーション」という言葉に染みついた「殺人集団の恐ろしい洗脳儀式」というイメージを払拭する力があると確信した。つまり、オウム真理教の事件が日本社会に与えたダメージと、日本社会がオウム真理教の事件を封印して見えなくさせようとする力、その二つの呪いを解く力が『あもれいら』にはあって、「イニシエーション」という言葉は呪いを解く呪文のようにさえ感じるのである。この呪文を「詩」と呼んでもよい。
 私たちは、まともに現実に対峙するために、『あもーる あもれいら』シリーズを、自らの「イニシエーション」として、通過する必要がある。
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by hoshinotjp | 2009-02-28 23:28 | 映画
 アカデミー外国語賞を獲った『おくりびと』、私も関心のある作品だから、受賞は喜ばしいことだと思う。しばらくは映画館も混みそうなので、見るのはもう少し先になりそうだけど。
 ただ、NHKのニュース番組で、アナウンサーがノーベル賞と並べたり、「日本映画が世界に認められました」とはしゃいでいるのは、知性を欠きすぎじゃないかと違和感を持った。アカデミー賞とノーベル賞を並べてしまうメンタリティは、WBCやらワールドカップやら、とにかくスカッとする祭りを求める今の世の傾向をそのまま表している。ニュースキャスターが世論と同じ地平で同じ方向を向いて報道をしてよいのだろうか?
 また、アカデミー賞はアメリカ映画業界の内輪の賞であり、「世界に認められました」は間違いである。ただ映画産業はハリウッドが圧倒的に巨大だからアカデミー賞が大きく見えるだけで、ベネチアやらカンヌやら東京やらの国際映画祭とは意味がまったく違う。「アメリカ=世界」と思い込んでいるような、あまりにベタで悲しい認識ではないか。さらに言えば、日本の映画はずっと昔から世界に認められている。あくまでも、世界のマーケティングに与える効果が大きいハリウッドで賞を獲ったことが快挙なのだと認識した上で、喜ぶべきだろう。国営放送のニュース番組なのだから、プロパガンダに乗ったかのような浮かれ騒ぎはやめてほしいものだ。

追記・映画館へ殺到する様子を見ていると、またぞろ「納豆」や「バナナ」の繰り返しかとうんざりする。ニュース番組でのインタビューで登場したおばさんのコメントが、これらの条件反射的殺到のメカニズムをよく表していた。曰く、「見たくないと思っていた映画だけど、アカデミー賞獲ったって言うから、見とこうと思って」。「見とこう(見ておこう)」というのは、「見よう」という個人の意思ではなく、一種の義務感である。つまり、みんなが見るから自分も見ないと、漏らさずに押さえておかないと、という強迫観念を示している。見たくないなら見ない、で筋を通してほしい。自分個人の判断を大切にしてほしい。さもないと、永遠に「世論依存症」から抜け出せず、中毒は深まるばかりだろう。
 ついでに、原作本まで爆発的な売り上げで、これまでの15万部からわずか2日で30万部へと増刷されたそうだ。反射的に一斉に同じ行動を取るこの光景は、やはり異常だ。この社会はまったく自覚のないまま、重度の強迫神経症に冒されている。
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by hoshinotjp | 2009-02-24 23:10 | 映画
 久保田早紀の「上海ノスタルジー」という歌の冒頭は、
「小雨をさけて停まる バスへの安ホテル」
だと思っていた。雨を避けて停まるバス、なんて、やわなバスだなあ、と20年ぐらい思っていた。
 ところが先日、この歌を聴いたら、
「小雨をさけて泊まる 場末の安ホテル」
と聞こえてくるではないか。何ということだ!

『水族』の絵を描いてくださった小野田維さんと、「美術の窓」という雑誌で対談した(今月25日発売)。対談が終わってから、小野田さんが、「美術の窓」で行った石田徹也の特集がよかった、というようなことを話題にされ、その特集号を私もいただいた。
 石田徹也という画家を私は知らなかった。けれど、「美術の窓」編集部で目にしたとたん、引きずり込まれた。本当にその絵がブラックホールのようになっていて、私は呑み込まれて、どこにいるのかわからなくなるような体験だった。
 その特集で石田徹也の絵を追い、丹念に取材されたその生涯を読み、私は動揺した。自分みたいだと思った。この画家の作品の虜になる人は、一様に、「自分みたいだ」という反応を示すらしい。2005年に31歳にして夭逝してから、その絵がにわかに注目され始めた石田徹也。その絵のあまりの暗さと、途方もない空想力と、根拠がないゆえに爆発的なエネルギーを秘めたユーモア。私は勝手に、この画家を仮想読者に加えようと思っている。
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by hoshinotjp | 2009-02-15 00:04 | 身辺雑記
 ワールドカップ最終予選、対オーストラリア戦。特に言うことのない試合だった。0-0で引き分け。
 これ以上、このチームのサッカーは変化するのだろうか? 繰り返せばきっと精度は上がるだろう、精度が上がって、敵も目を瞠るような中盤でのこなれたパス回しを展開して、点はいままでどおりあまり取らないのだ。このサッカーに興奮できる人はいるか? 陶酔を期待できる人はいるか? ありえない出来事に絶句する場面を想像できるか?
 岡田監督は奇跡を排して、勝利を計算するのだろう。交替選手が同じ役割をしているのを見て、「何としみったれた、けちくさいサッカーだ」と思った。ワールドカップには行けるかもしれないが、現状でのワールドカップ出場にはまったくワクワクできない。ファンタジーのない、平板な日常のようなこのサッカーが続くくらいなら、出場できずに終わって、変化を期待したほうがマシかもしれない。
 サッカーは、目に見えていない部分、チームの無意識みたいな部分に、オーラが潜む。ガンバがマンUと戦ったとき、そのようなものがチームにみなぎり始めるのを、私たちは目撃した。それを創造性と呼んでもいいかもしれない。そのようなものが、このチームにはない。そして岡田監督は、そのようなものに対しきわめて鈍感な人だと、私には感じられる。
 プロ化以来、日本のサッカーは上昇と下降を繰り返しながらも進化していると感じてきた。ジーコ時代の停滞でさえ、必要な停滞だったと思えた。けれど、この1年半ぐらいは、ただ無意味に停滞しているようにしか思えない。これだったら、何かを蓄積するための後退のほうが望ましいぐらいだ。
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 ついに始まった、今年の花粉症。数日前に近くの梅林に三分咲きの梅を見に行ってから、何となく目が痒くなった。それ以来、目がしょぼしょぼして何となく痒いのがおさまらず、きょうはあやしいくしゃみがときどき出る。間違いなく、来ている。にわかに外へ出るのが億劫になる。

 先日、ドライヤーを新しくした。大して期待もせず、何となく「ナノイオン」が出るという製品を購入したのだが、これがすごい! 数日使ったら、髪がさらさらつやつやしっとりになった!(今は長髪なのです)。こんな劇的に変化するなんて、だまされている気分。シャンプーやコンディショナー、整髪料などを変えても、ここまで変わりはしない。使うと潤いが出るのだから、もはや「ドライヤー」という名に違和感を覚えるほどだ。
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by hoshinotjp | 2009-02-10 23:12 | 身辺雑記
 大学で教えていたころ、「マイナー性を考える」という授業を持っていた。そのときに考えたマイナー性とは何か?
 まず、単なる少数派は、マイナーとは呼ばない。40人のクラスの中で、輪島を好きな人が30人、北の湖を好きな人が10人だったとして、北の湖好きをマイナーとは呼ばない。北の湖好きであるがゆえに、成績を低くつけられたり、クラスで無視されたりした場合に、「北の湖好きはマイナー」となる。つまり、メジャーの側から少数派が暴力や抑圧、差別などを受けた場合に、マイナーとメジャーの関係が発生する。マイナーとは、単なる数の問題ではなく、力関係の強弱の問題なのである。
 そして、ここが重要なのだが、メジャーの側は自分たちを普通(標準)の存在だと思っているので、自分たちの行為が暴力や抑圧であることを認識できない。標準的な給与をもらっている正社員には、非正規雇用の人間が、「努力をしていない人間」にしか見えなかったりする。確かに苦しい立場なのはわかるけれど、俺だってこき使われて残業で睡眠時間削って、それをどうにか乗り越えているのに、かれらはあんな覇気がないんじゃ、正社員の座をつかむのも難しいだろう、と、そんなふうに見えたりする。だから、自分でもっとがんばるのが先だろうと、傍観してしまったりする。家や貯金や健康保険があるからこそ、睡眠時間を削ってがんばることができるのだという条件の差を、忘れることができる。なぜなら、自分たちが普通で標準だと思っているからだ。何によって自分たちは「普通」や「標準」でいられるのか、その自分の恵まれた状況を、いちいち考えてみないでも生きていられる、それが「メジャー」の立場にいる側の特徴だ。
 マイナーな立場に置かれた人間は、自分が「劣った」側にいることを常に意識させられる。カネもない家もない健保もないことを、24時間ずっと考えることを余儀なくされる。そうしたくなくても、マイナーな立場は自分が「標準」の側にいないことを意識しなくては生きていけないのだ。
 麻生首相は、メジャーな立場の人間の典型である。なぜああも官僚の言いなりなのか、社会のルールを知らない人間であるかのような失言を繰り返せるのか。それは、自分こそが究極の「標準」だと思っているからだ。自分を成り立たせている条件は何であるかを考えてみる、といった経験がほとんどないのだろう。だから、「庶民」のこともわからないし、「庶民」からも一段低く見られる、非正規雇用を始めとする格差の下の層に置かれている人々のことも、理解できるはずがないというわけだ。
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by hoshinotjp | 2009-02-09 20:31 | 政治