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 6月1日月曜日、私は路上に立って本を売ります。
 売る本は、写真集『STREET PEOPLE(ストリートピープル)~路上に生きる85人』(太郎次郎社エディタス)。20年来の友人である写真家の高松英昭が撮りためた、路上生活者たち(基本的に「ビッグイシュー」の販売者たち)の写真です。
 路上生活者の写真集、と聞くと、いわゆる「ホームレス」の人たちが路上で寝ている光景などを思い浮かべるかもしれませんが、まったく違います。ページを繰ってみれば、そこにはきわめてカラフルでポップなおじさんおばさんたちの写真が並んでいます。言われなければ、誰もこのチャーミングな人たちが「ホームレス」だとは思わないでしょう。
 なぜこんな写真にしたのか?
 高松英昭は、これはヤラセ写真ですよ、と言います。15年にわたって路上生活者たちとつきあい続けてきた高松英昭が、かれらと一種の遊びを企んだのです。洒落のめしたり、粋がったり、気取ったり、ふざけたり、すかしたり。生きる者なら誰もが持つ生活を楽しむ心を、高松英昭は思いきり引き出したのです。それを可能にしたのは、両者の間で培われた信頼感でした。撮る側も撮られる側も、確信犯的にこの遊技に乗り、楽しんだわけです。写真にはそんな幸福な瞬間があふれています。
 当然ここには、一般に「ホームレス」というとついて回るイメージ、すなわち「かわいそうな人」「汚い人」といった紋切り型を壊したいという狙いも込められています。それらのイメージは、当事者たちとは無関係の、他人が勝手に作り上げたもの。実態はもっと多様です。その実態を知るためには、おじさんおばさんたちと関わることが必要です。「ホームレス」とは、人間関係を奪われた状態でもあります。高松英昭は、かれらと人間関係を築くことで、路上に生きる人たちを「ホームレス」ではなくした、と言えましょう。
 高松英昭のそんな態度に共感して、私もこの写真集に、短編小説「先輩伝説」を書かせてもらいました。渋谷を舞台にした近未来小説で、廃墟化しつつ熱気あふれる渋谷のイメージは、私と高松英昭が知り合ったメキシコの街のイメージです。
 路上にこだわる高松英昭は、この写真集を、被写体となったおじさんたちと売りたいと考えます。それで、書店での販売に一か月先立ち、路上で売り出すことになったのでした。それがあさってから。私も盛り上げ役として、ビッグイシューを売っているおじさんたちを回って路上に立つ、というわけです。
 ビッグイシューと同じ方式で、売価2500円のうち、1300円が売った人の収入となります。先行販売分は限定350部。販売者の手元に本がない場合は、予約という形を取ります。ぜひとも路上でおじさんたちから買っていただけると嬉しいです。
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by hoshinotjp | 2009-05-30 16:44 | お知らせ
 中央大学の殺人事件。一部の新聞や週刊誌の報道で、家庭環境のことが報じられ始めている。親に(特に母親に)溺愛され、過干渉だったらしいという件である。これがどこまで正確な事実かはわからないけれど、まったくの誤報ではないとしたら、何となく腑に落ちるような気がする。
 自分が大学教員をした経験でも、また教員をしている友人知人の話を聞いても、学校生活に適応できずに脱落したり心の病に陥ってしまったりする学生は、親の過干渉か無関心にさらされているケースがものすごく多い。それらの学生は、入学してかなり早い段階から大学社会での人間関係に入り込めず、誰の視界にも入らずにひっそりと孤立し、大学に行きたくても行かれない精神状態になったり、行っても精神疾患を発症して授業を受けることに差し支えたりしている。
 私が早稲田大学で教え始めたとき驚いたのは、年に1、2回の父母会を開いているということだ。大学で父母会! 学生数が巨大な早稲田では、一人暮らしの学生が授業に出たいのに学校に来られず引き籠もりになっていても、誰も把握できない可能性がある。このため、できるだけそのようなケースを見逃さないよう、父母会を開くというのである。「かつての、いくら倒されても起き上がるような早稲田生を想像しないでください。今はまったく状況が違うのです」と学生担当の先生からは釘を刺された。
 山本容疑者も、一年生のときにほんの数単位しか取得できず、留年をしている。友達もなく孤独だったとの証言を考えると、この時点ですでに大学社会から脱落していた可能性がある。大学を辞めたかったという供述もあるようだ。それでもその後は何とか授業に出席し卒業にこぎ着けられたのは、学費を出している親のことを考えてがんばったためらしい。
 だが就職後も、それぞれの企業社会で溶け込めずに脱落、転職を繰り返す。大学入学時と同じことが起こっていたのではないか。
 意に反して精神的に大学社会から脱落し授業に来られずにいる学生は、いったん自分を立て直す猶予が必要となる。そこで教員は、学費を出している親と相談することになる。ところが、このような苦境に立たされている学生の親と接触してみると、多くのケースで、自分の子どもの苦境を認めず、うちの子は大丈夫ですから通わせます、といった主張をすることが非常に多い。明らかな精神疾患を抱えていても認めようとせず、医者にかかることを拒んだり、医者が問題ないと言ったと嘘をついたりする。あるいは、無関心にほっといてくれと言うケース、おろおろとどうしたらいいんでしょうと決断しないケースもある。いずれも、苦しんでいる当人の立場に立とうとしないのだ。
 このような学生の多くは、とてもまじめで、期待にこたえようとよく努力をし、物わかりもよい。親の考えや欲望をいち早く察知して、どうすれば親が喜ぶかを理解している。つまり親に対しては、空気を読む能力が発達している。その結果、学校社会での空気からはまったく浮いてしまうのである。親と大学、この矛盾を解決できなくなって、身動きが取れなくなる。
 結局は大学を辞めることになる学生は多い。だが、それは解決ではまったくないので、私は暗澹たる気持ちになる。大学を辞めて、では一体どこにかれらの身の置き場があるというのだ? 大学を辞めて家に引き籠もれば、ますます親の呪縛は強烈になる。親の呪縛下にある限り、どこの社会に出ても脱落するしかない。親に社会的に殺される前に、何とか逃げ出してくれ、と思ってしまう。だが、まじめで優しい性格だから、そんな親なのにおもんぱかって何とか期待を実現しようとしてしまうのだ。
 私には山本容疑者がそんな学生の一人だったように思えてくる。就職して親元を離れたりして、彼なりに何とか逃げたのだと思う。だが、それで社会にすんなり溶け込めるようになるかというと、親の呪縛下にいた時間が長い分、一対一での人間関係を作る体験をいちじるしく欠いており、どうにもできない。孤立は深まるばかり。
 高窪教授は、親の代わりに頼れる、唯一の人間だったのだろう。そして、親の代わりに、山本容疑者が抱くべき敵意をまともに受けてしまったのではないか? 山本容疑者が本当に殺意を持って対峙したかったのは、本当は親だったのではないか? 大人になるに当たっての親離れを決して許さない親に対し、象徴的な意味での親殺しを実現できず、孤立が深まるのと比例して殺意だけが膨れあがり、親殺しの代わりに高窪教授を殺してしまったのではないか?
 山本容疑者の親は、まるでモンスターペアレントのように報道されているのかもしれない。けれど、子どもの立場からの想像力を持たず、ずっと子どもを自分の延長として監視し権利を行使し続ける親は、見かけよりもはるかに多い。極端な例が目立つから、自分たちはおかしくないと思っているだけで、本当はおかしいという例がかなりあると思われる。それらの膨大なゆがんだ家庭環境を裾野に持つ、氷山の一角の事件であるように、私には思えてならない。
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by hoshinotjp | 2009-05-29 05:36 | 社会
 チャンピオンズリーグ決勝、バルセロナ完勝。こんな一方的な内容になるとは。
 キックオフのとたん、マンチェスター・ユナイテドがすごいプレスを掛けてボールを奪い、バルサらしい球回しとポゼッションのサッカーをさせず、見る間に自分たちのペースで押していったのには、マンUの経験の厚さに感心したものだった。やはりしたたかさで一枚上手のマンU主導で試合は進むのだろう、と思わせた。バルサのディフェンスは、明らかに力不足に見えた。
 けれど、やはりイニエスタだった。ジダンなき現在、見るべきはイニエスタ。アンリはともかく、イニエスタが決勝に間に合ったことがバルサの勝因だろう。最初のチャンスを作り出し、あっけなく先制点を奪うと、マンUの態度が一変してしまった。すっかり腰が引けて、それまでの経験に裏打ちされた自信を感じさせる勝ち気なサッカーが跡形もなく消えてしまったのだ。
 主導権は移った。この時点で、勝負は決まったと言っても過言ではない。バルサは本来の球回しとポゼッションを取り戻し、マンUは最初のようにボールを奪えなくなった。
 下馬評では、強力なディフェンスと攻撃をバランスよく持つマンUが有利と思われていた。私もそう思っていた。バルサはただでさえ弱点の守備陣が、マルケス、ダニエル・アウベス、アビダルと主力3選手を欠き、厳しいはずだった。しかし、蓋を開ければ完封。最後はクリスチアーノ・ロナウド、ルーニー、ベルバトフ、テベスという最強の攻撃陣を相手にしてゼロ封である。なぜ、バルサにこんなことができたのか?
 私は、準決勝のチェルシー戦が鍵だったと思う。サッカー界屈指の屈強な大男たちが全員でゴール前を固めるチェルシーとの勝負は、バルサが最も苦しんだ戦いだった。バルサの弱点を突きまくるヒディンクのサッカーに、くずおれる寸前だった(審判次第ではくずおれていただろう)。けれど、ここを乗り越えたことで、バルサの勝負強さは一次元高くなったのではないか? チェルシーとの死闘が、バルサの経験値をマンUと戦えるまでに引き上げたのだ。チェルシーと同等の守備力にチェルシー以上の攻撃力を持つマンUの、好調さを維持したベストメンバーを相手にゼロ封2得点の勝利は、マンUのプライドをずたずたに引き裂いただろう。
 圧倒的な2強が決勝で当たるという、ここ最近のチャンピオンズリーグでは珍しい、10年に1度の好カードとなったこの試合、ジダンのボレーのような奇跡的スーパープレーこそ見られなかったものの、極めて現実的なサッカーをするしたたかなチームを、ファンタジックな理想主義的サッカーが粉砕するという、痛快にしてハイレベルな内容だった。
 バルサのサッカーは、基本的にスペイン代表のサッカー+メッシだ。イニエスタ、シャビのこの絶好調ぶりを見ると、次のワールドカップ、スペインはやはり優勝候補筆頭に上がらなくてはいけない。
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 核実験を行う北朝鮮もさることながら、このようなやくざ外交を黙認した中国、ロシアの責任も重い。例の「人工衛星」、つまり長距離ミサイル騒ぎの後の、国連としての対応である。様々な利害関係と状況を自分に有利にするための戦略として、ロシアと中国は北朝鮮を温存したのだろうが、それにしても歴史の何とも愚かな過ちを繰り返しているようにしか見えない。国連で厳しい対応を取れないとなると、各国独自の軍備強化を許すことになるのだから。
 この源流にはさらに、中国自身のチベット弾圧が国際社会から結局は厳しく制裁されなかったこと、ミャンマー(ビルマ)での軍事弾圧事件に対しても中国らの反対で国連が厳しい対応を取れなかったこと、がある。これらは東・東南アジア地域を不安定にする態度でしかない。中国政府がこのような外交を続ける限り、東アジアの将来は暗い。
 東アジア文学フォーラムで中国文学を垣間見ても、文学が半ば強制的に国家に奉仕していた時代から、文学がたんに国家経済に呑み込まれて骨抜きになっていくような印象を受ける。アンダーグラウンドの力さえも失ったというか。もっとも、これは他国のことを言えた話ではなく、日本や韓国はその意味では先を行っているわけだが。
 そんな中で今読んでいるインドの小説はすごい。本当に度肝を抜かれ、同時に、自分が自分であることがいやになるほどの、強烈な打撃を食らった。目を覚ましなさい、さもなくばそうやって死んだままでいなさい、と顔を鋭くはたかれているような。この力、このエネルギー。やがてちまたにも紹介できるのではないかと思う。
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by hoshinotjp | 2009-05-26 00:56 | 政治
 サッカー日本代表に浦和の山田直輝が選ばれる。これからこの名前は、中田英寿、中村俊輔を継ぐ日本代表の中心となっていくだろう。私は山田を見てようやく、これからの日本代表の将来に明るい気持ちを持てるようになった。
 あふれる輝かしい才能もさることながら、この選手が他の選手と違うことは、その落ち着きである。いつでもピッチを見渡しているその視野の広さも、ゴール前での決定機で確実なシュートを打ってくる様子も、その冷静さがなせるわざだ。外してしまうのはまだ技術が足りないせいだろう。
 これほどまでに試合中に平常心を保ち、ゴール前でも冷静でいられる選手は、日本では中田英寿以来ではないか。インタビューを聞いても、この選手は勘違いをしない、つけあがらない選手だなという印象を持つ。
 そして、あの運動量。ガンバ戦前のインタビューでは、プレーの内容は日によって調子の善し悪しがあり得るけれど、悪いときでも走ることはできるはずだ、と述べていた。
 一流の選手が労を惜しまず走ることがいかに脅威になり、それが現代のサッカーに不可欠か、それを説き目指したのはオシムだった。そのオシムと近いサッカー観を持つフィンケに育てられて、山田直紀は間違いなく日本のサッカーを背負うことになるだろう。
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 それにしても暑い。5月だけでいったい25度以上の何日夏日を記録しているのだろう。今年の気温の高さは尋常ではない。ここ何年も、高温傾向にはあるわけだが、今年は飛び抜けているように感じる。それゆえ、私は今年を「温暖化初年」と考えたいと思う。今年以前の地球環境にはもはや戻れない、という覚悟を決めるために。
 10日ほど前、雨が続いたあとの晴れで夏日となった日には、早くもヤブ蚊に刺されそうになった。5月上旬に関東南部でヤブ蚊である。2月14日に27度を記録したときは、4月に咲くはずのブルーベリーが咲いてしまった。今はもうアジサイが咲いている。温暖化が進めば進むほど、1本の杉の木が付ける花芽も増えて、花粉の量は増大する一方らしい。花粉症のピークは長々と続き、花粉症そのものは収まったものの、現在はじんましんや咳ぜんそくなど、様々なアレルギーが誘発させられている。去年の5月も、同じ症状に苦しんだ。これは、私に「冷房アレルギー」とでも言うものがあるせいでもある。あまりの暑さに、電車やビルなどの冷房をかつての7月ぐらいにガンガン効かせることになるからだ。今年も、電車の冷房の風を浴び続けたあとで、体調を崩しのどを痛めた。
 10年後の地球が恐ろしい。
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by hoshinotjp | 2009-05-20 23:23 | 社会
 舛添厚生労働大臣は、新型インフルエンザは弱毒性という報告があったので柔軟な対応を検討する、と表明したが、何をいまさら、である。さんざん見当違いなスタンドプレーを続けておいて、ただカネを無駄遣いし、社会を混乱させただけではないのか?
 鎖国してるわけでもなし、新型インフルエンザが拡大するのは時間の問題で避けられなかったと思うので、現状が異常事態だとは思わない。政府がどうあがいても、こうなるのは仕方ない。誰の責任でもない。
 それを承知であえて言えば、あそこまで過剰な水際作戦をして人とカネをつぎ込み、大げさに危機をあおり立て、社会に混乱をもたらしておきながら、水際作戦で漏れたケースを想定もせずに気づいたらすでに感染は拡大していた、というのは、明らかな失政ではないのか? 自分たちが冷静さを失って、ありうべきケースの検討を怠り、現状を正確に把握できなかったのだから、担当能力に欠けていたと言うほかあるまい。感染が拡大したのは政府のせいではないが、感染拡大を把握できなかったのは政府の責任である。このことはきちんと検証されなければならない。今の政権と官庁は、何が現状にとって必要な情報なのかを判断する能力が、いちじるしく欠如している。
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by hoshinotjp | 2009-05-19 16:24 | 政治
 あれほど過剰だった新インフルエンザ騒動は、民主党の党首選でいとも簡単に押しやられた感があるが、そのどちらよりも重要なのは、昨年の自殺の内容が発表されたことである。感染者が数名出ただけの軽いインフルエンザに対し、自殺者は平均で毎日100人。インフルエンザでの世界中の死者の何倍もの人が、日本一国で毎日死んでいるのだ。インフルエンザよりも、毎日100人ずつ死んでいく自殺者対策のほうがずっと緊急なのではないか。
 長らく拡大し続けていたのにずっと無視されていた貧困については、昨年の派遣村以降、ようやく実態が少し明るみに出て、理解もそれなりに深まってきている。それに対して、どうして自殺はこれほど黙殺され、理解されないのだろうか。
 かく言う私も、自殺について、少々安易な認識を持っていた。自分の近くでの自殺を体験し、深手を負い、『無間道』を書き、それがきっかけでライフリンクの清水康之さんの活動を知ってから、ようやく自分の抱いていた自殺のイメージが安易であったことを思い知らされたのだ。
 それまでの私は、大人が自殺することは、「死」を最終解決手段として肯定することであり、死の瀬戸際を生きているような今の子ども世代に、悪しき教育的効果を及ぼす、と思っていた。だから、どんなに追い込まれても自死という選択肢を取ることはよくないと考えていた。
 今でもその考えは間違っていないと思う。私が間違っていたのは、「自死という選択肢を選んでいる」と見なした点だ。自死をする人の大半は、選んでいない。袋小路に追い込まれて、それ以外の選択肢が存在しなくなって、自死に至る。たとえはたからは他の選択肢があるように見えても、当人にはそれらの選択肢は断たれているのだ。そこに、自死する当事者と、当事者ではない人との、埋められないギャップがある。
 膨大な自殺のケースを解析した『自殺実態白書』によると、自死する人は、平均で4つの原因を抱え込んでいるという。失業、多重債務、貧困(経済苦)、家族の崩壊、会社や家族からの抑圧、いじめ、住居の喪失、内面の問題、病気、等々、様々な苦境のうち、4つが重なったとき、その人は、自力で解決する余力を完全に失い、最後は鬱病ないしはそれに類する状態に陥り、判断力の崩壊した中で、自死に至る。借金で苦しいとか、仕事がないとか、一つだけの苦境であれば、まだがんばっていられるのだ。失業し、金がなくなって借金をし多重債務となり、日々食べるに困って、家も失う、となると、一つの苦境が四つ分に増えるのではなく、何乗にもふくれあがって襲いかかる。がんばりようがなくなる。いくら貧困だからって何も死ななくても、と、当事者でない者は思いがちだが、当事者はそれ以外にも3つ以上の苦境に置かれている。当事者ではない者にはその状況が見えない。
 ここで最も留意すべきことは、当事者は4つ以上の困難を「一人で」抱え込んでいる、ということだ。いくつかの苦境が重なるうち、当事者の人間関係が悪化したり消えていったりし、4つを抱えるころには相談したり頼ったり分かち合ったりする人がいなくなっているのだ。解雇されれば、職場の仲間が消える。失業や多重債務で、家族を失うケースもあろう。就職できずに非正規雇用で働き続けてきた者たちは、最初から人的ネットワークを持っていない。一人では絶対に背負いきれない重荷を4つも背負うことで、その人は押しつぶされるのだ。そのことも、人的ネットワークの中にいる「一般」人には見えない。
 湯浅誠氏は『反貧困』の中で、「ため」という言葉を使っている。余力と言ってもいい。苦境に陥っても、それをしのぎ跳ね返すためには、日ごろから予備の力を蓄えておくことが必要である。お金、健康、助けを求められる人間関係等々。それらがゼロになったとき、人は絶望する。「ため」があれば、多少の苦境は乗り越えられるのだ。自死する人は、その「ため」が底をつき、もはや踏ん張れなくなっている。その枯渇状態も、「ため」のある人々の目には見えない。だから「もう少しがんばれるはずなのに」などと、無理解なことを思ってしまう。
 このように、自分で選んではいないのに自らを殺すしかない死が、自死である。自分で選んでないのだから、それは当人の責任ではない。4つの苦境をもたらした側の責任である。自死遺族や周辺の者が最も苦しむのは、それをもたらしたのが自分ではないかという自責の念と、当事者でない者たちから、「自死を選んだ以上当人の責任、当人が弱いからだ」と見なされるその視線である。
 何度でも言う。自殺は、当事者の責任ではない。4つの苦境をもたらす社会の側に原因がある。その認識からしか、自殺を減らす対策は始まらない。このことをメディアはしっかり報道して、認識を広めてほしい。
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by hoshinotjp | 2009-05-15 23:17 | 社会
 民主党の代表選びで、鳩山由紀夫優勢との報道を見て唖然。民主党はKYなのか? 小沢一郎では総選挙に勝てないとなったら刺し違えてでも辞任を説得すると言っていた鳩山幹事長は、今度の小沢代表辞任で自らも幹事長を辞めたのであり、その人が代表選に出馬するのはどうにも筋が通らない。小沢一郎との密約説をささやかれても仕方あるまい。わざわざ「小沢院政」とのきわめて汚れたイメージを引き寄せるぐらいなら、小沢代表が辞任しないほうがまだましだった。
 加えて、安倍、福田、麻生と、世襲政治家の中でも図抜けて「名門」の出の政治家が、まったくちまたを理解しない政治を続けざまに行ったことに、世はうんざりしきっている。ここでまた鳩山一族という「名門」の出の政治家が首相になることを望む人が、どれだけいるというのだろう。この人は弟の邦夫に対してとても甘い。結局、ちまたの人よりも鳩山一族の栄光のほうが大切であることは、民主党結党の経緯を思い出せばわかることだ。それに、鳩山由紀夫が最初に党首を務めたときの、無力だったこと。オバマではないが、ちまたは信頼するに値する確かな言葉と行動を、政治家に求めている。鳩山由紀夫の言葉は、今の首相よりはずっとましだけど、ちまたに力と信頼を与えてくれるようなものではない。
 西松問題が出た直後、民主党の各県連に次の代表として望ましい人は、というアンケートをどこかの報道機関が行っていた。その調査では、岡田克哉が支持の半分近くを占めていた。きょうの各メディアの緊急世論調査でも、同様の結果を示している。民主党にとってこの好機を十全に生かし政権交代を実現するには、岡田という選択肢以外あり得ないと思うのだが。私は民主党を支持していないけれど、それでも勝つべきだと思うのは、そうでないと麻生政権がこのままずっと続くことになるからだ。すなわち、私たちは政治的空白(政治的無策)をあと何年も生きなければならないのだ。その「無政府状態」のツケは、有権者が議会制民主主義に愛想を尽かして行動力のある独裁的カリスマのほうを望むといった、取り返しのつかない形で日本の住民に災いをもたらすだろう。
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by hoshinotjp | 2009-05-13 23:12 | 政治
 民主党、小沢代表辞意表明のニュース、サッカーの岡田ジャパンの試合を見た後のように、何も感想なし。
 ここに来てようやく、購読している東京新聞では、インフルエンザ禍熱対応、過熱報道について検証するような記事が登場している。そもそも、私が報道は状況を冷静に判断できていないんじゃないかと思ったのは、WHOがフェーズ4に引き上げたとき、少なくとも二週間分の水と食料を備蓄するように呼びかけた社会面の記事に反応し、慌ててスーパーに買いに走ったことがきっかけだった。そのときは、まるでオイルショック時のように買い物に殺到する群衆のイメージが浮かび焦ったのだが、スーパーに着いてみれば人は普通に買い物をし、焦っているのは私一人だった。私も、納豆やらバナナやらを買いに走った人のことを言えないと思い、冷静さを失った自分を恥じた。そして、状況も無視して、強毒性の鳥インフルエンザ流行を想定したであろうマニュアル通りに、緊急事態に備えるよう呼びかける記事を出した新聞に、疑問を感じたのだ。要するに、頭で考えてはおらず、「すわ、パンデミックだ」とばかりに自動的に反応し続けたのではないかと。
「エピデミック」と同語源であろうこの「パンデミック」という言葉も、次第に姿を消してきている。学術的な意味内容とは別に、その字面や響きが「パニック」だとか「アポカリプス」といった強い言葉を連想させる「パンデミック」は、この字が見出しに来るだけで、読者の恐怖感をあおる役割を果たす。「呪怨2」などパニック・ホラー映画で使われたイメージもあるだろう。この文字が持つイメージをわきまえて使うのも、活字報道メディアのリテラシーなのではないか?
「普通に心配を」という最近の記事で識者が指摘していたのだが、日本社会は、過剰反応するか無関心になるかの両極端で、その中間の対応をとることが少ないという。
 もっとも、備蓄用食料・水を買うにあたり、被災時用リュックを中身を調べたところ、どの食品も水も消費期限が切れ、ウェットティッシュは干からびており、もう5年以上も放置されていたことが判明したので、ちょうどよい機会ではあったのだが。
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by hoshinotjp | 2009-05-12 12:42 | 政治