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 生涯心に残るであろう、すぐれたドキュメンタリー作品に触れた。一つは映像、一つは活字。映像は、東海テレビ制作の『光と影』。山口県光市の母子殺人事件で、世間からバッシングにあった弁護団を追った作品である。活字のほうは、清水潔著『桶川ストーカー殺人事件―遺言―』(新潮文庫)。桶川ストーカー殺人事件を取材するうち、実行犯を突き止めてしまったジャーナリストのルポだ。
 どちらもその作品に触れたあと呆然とするのは、それまで自分が抱いていたその事件へのイメージがまったく覆されるからだ。私が漠然と持っていた事件のイメージは、まったく架空といっていいほどの虚像だった。端的に言えば、嘘を信じていたことになる。
 なぜ、そんなことが起こるのか? どちらの作品も問題視するのは、捜査機関(や司法機関)の作る嘘と、報道機関の作る嘘である。両者は無意識の深層で結託して、自分たちに都合のよい虚像を作り上げてしまう。捜査機関と報道機関が嘘を作り上げたら、私たちが実像を知るのはとても難しくなる。だが、この二つの作品では、取材者たちはあるレベルから外れることにより、実像に触れることになる。
 あるレベルとは、警察や検察など捜査にたずさわる公的機関との情報交換の場のことだ。簡単に言うと、記者クラブや記者会見の場のことだ。東海テレビのスタッフは、捜査側ではなく、被告側の弁護人に密着した。その結果、捜査側が作っている無理なストーリーのあらが見えてしまう。「桶川」の清水氏は、フォーカスの記者であったために記者クラブには入れず、警察は一切の取材に応じなかった。このため、独自に被害者の関係者を取材するほかなかった。すると、遺族側の言っていることと、警察の言っていることがあまりに違っていることがわかるのである。さらには警察が、自己保身のために捜査をネグっていた事実、報道機関に嘘をリークし続けた事実までがはっきりしてくる。記者クラブに属して警察情報だけで報道を続ける、大手の新聞やテレビの記者にはそれがまったく見えず、警察の嘘を丸ごと真実だと信じ込んで報道する羽目になった。
 私も二年半というわずかな期間だが記者を務め、記者クラブでの修行が日常だったことがあるわけだが、それがいかに大手のメディアの無意識を形作っているか、思い知らされた。そもそも、記者クラブ制度を疑うことを教えられはしなかった。記者クラブ制度の延長に、警察官や自治体職員、政治家への夜討ち朝駆けがあり、そこから極秘情報を得ることが特ダネを取ること、という図式ができあがる。だがじつは、夜討ち朝駆けに応じてもらえるのは、記者クラブに属しているなじみの記者だけ。多くの会社員としての記者たちは、この図式を常識として内面化し、疑うことなく熱心に仕事をしている。内部にいる者には、自分が権力を行使していることが見えないのだ。
 記者クラブにもよい部分はあるのだが、今現在は、公的権力を持つ機関が大手メディアに権力を分け与え、共犯に仕立てるという機能を果たすことのほうが多い。なぜ、メディアが「第四の権力」と言われるのかは、単に「マス」へ訴えるからというだけではなく、現実に公権力から権力の一部をおすそ分けしてもらっているからなのだ。
 メディアのうち、ジャーナリズムを標榜する報道機関は、せめてそのことに自覚を持って取材に当たるべきである。ジャーナリズムの役割は真実を突き止めて報道することだが、いかに真実に到達するかは、情報を疑う、という姿勢以外にはありえない。現在流通している情報(「世論」と呼ばれたりするものを含む)に、冷や水を浴びせること。すべてはそこからスタートする。そしてこれは、報道機関にだけ求められる姿勢ではなく、情報を受け取る私たちちまたの人々にも求められることである。
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by hoshinotjp | 2009-06-30 15:23 | 社会
 政治家の与謝野馨氏と渡辺喜美氏が、それぞれ迂回献金を受け取っていた件が発覚。西松建設事件のときに誰もが思ったであろう、この程度の脱法行為なら自民・民主問わず、どの政治家も多かれ少なかれやっているだろう、という感想が、現実に表面化しただけのことだ。全部一律で秘書を逮捕すればいい。そして総選挙までにすべての議員の迂回献金を洗い出せばいい。そこまでしたら、東京地検特捜部も評価を得られるだろう。
 東国原・宮崎県知事は国会議員になりたくて仕方がないらしいが、あれだけのことを言って知事になりながら、一期目でもう二度も国政への意欲を示すとは、ずいぶん飽きっぽくて不真面目な人だなあという印象を与える。がんばるときはすごくがんばるが、飽きたらちゃらちゃらしているのだろう。
 問題は、そういう不真面目で人を舐めたような政治家でも、何かしら目立ったり元気がよかったりタレントだったりすると、有権者はその人になだれを打って投票してしまうことだ。どこかのアンケートで、首相にしたい人ナンバーワンが舛添厚労大臣になったというのも、私は首をかしげざるを得ない。そりゃあ、首相の近くに並べば、誰だってたいていはやり手に見えるというのはあるかもしれないが、だからといって、どうも叱るポーズばかりできちんと官僚を掌握もしていなければ、むしろうまく乗せられていて、忙しくしているわりにはきちんとした成果は上げていないこの大臣を首相にしたら、私たちはまた誤った選択をしたことになるんじゃないか、という気がする。
 そうやって、自分たちが軽薄な人気投票みたいな態度で、政治家を支持したり投票したりしておきながら、無能な首相が誕生すると、まるで被害者のように怒っているのは、どうなのか。選んだのは自分たちだ。この四年間の無力無能な内閣たらい回しも、郵政解散選挙などというおためごかしに引っかかった自分たちにも責任の一端はあるのだ。その反省をしないと、また引っかかって、自分たちが泣きを見ることになる。
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by hoshinotjp | 2009-06-24 17:43 | 政治
 日産スタジアムに、マリノス―レッズ戦を見に行く。
 私は当初、2つの物語を設定していた。1つは、去年の開幕戦だったこのカードを私は見に行き、浦和の時代の終焉をまざまざと見せつけられたわけだが、それを覆すこと。浦和は新たな時代に入って上昇中であることを、ほかならぬこのカードでの勝利で示せれば、去年の呪いは解かれるのだ。
 もう1つは、中村俊輔の復帰したマリノスに対し、山田直紀がその力を発揮し、日本のエースの交代が始まろうとしていることを告げる試合になること。こちらは、中村俊輔の復帰が破談になったので、かなわなかった。
 で、前者の目的を果たしに出向いたのだが、結果は2-0の完敗。去年の呪い(オジェックのかけ捨てていった呪い?)は解けず、浦和はまだまだであることがはっきりと示された。まだ若いチームなんだからこれからだと虚しくつぶやいてみる。
 その新生浦和の象徴、山田直紀ばかりを、私は試合の流れすらも見えなくなるほどに注視していた。そしてここで私はいま一つの物語を見てしまう。中田英寿がブレークしたころとの類似である。山田直紀は何度か、スペースにパスやスルーパスを出したのだが、そこには誰も走り込んでいなかった。そのさまが、中田のスルーパスに味方が反応していないということのよく見られた、10年ちょっと前を思い出させたのである。
 もっとも、今日の浦和は全体が動かず走らず、山田直紀のパスも意表を突くようなキラーパスでもなく、たんに山田暢久などが怠惰だっただけだが。Jリーグの選手は必ずしも運動量が多いわけでも俊敏なわけでもないと前回書いたけれど、その格好の例だった。山田直紀も今日はすごくいいわけではなかったけれど、あまりにひどい浦和の中で独り、気を吐いていたのは確かだ。
 ただし、致命的なミスもした。1点取られて浦和が思いきり前がかりになっているときに、ハーフウェーラインあたりからスルーパスを狙って、横浜の選手にカットされたのである。一瞬にして横浜は人数をかけて襲いかかり、浦和は2点目を奪われた。苦い教訓となっただろう。
 闘莉王、阿部勇樹らの代表組のコンディションの悪さは当然として、なぜほかの選手まで鈍かったのか。守備はザルで、横浜の選手の飛び出しを何度も許した。もっとも、マリノスだってよかったとは言えず、前半の30分は視野の狭い感じで浦和陣内になかなか入り込めず、浦和の守備のまずさに助けられて押してからも、シュートはことごとく枠を大きく外れ、このままではマリノスも自滅するぞと私は思っていた。それ以上に浦和が自滅したので、マリノスはきれいな2点を決められた。
 それにしてもレッズは、対マリノス戦となると元レッズの選手にやられることが多い。河合とか山瀬とか。
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 ワールドカップ最終予選、最後の試合、オーストラリア―日本戦。日本は逆転負け。
 またさして述べるべき感想のない試合に戻ってしまった。技術、戦術的な問題はさておいて、いつも感じる勝負弱さ。試合内容的にはオーストラリアと五分五分だったのかもしれないが、なのになぜ日本はたいてい勝てず、オーストラリアはたいてい勝つのか。技術戦術面以外にオーストラリアにあって日本にないものがあるからだとしか言いようがない。そしてそれがないと、日本はワールドカップでまたしても何もしないまま帰ることになるだろう。
 それは例えば、本番のホームで圧倒的な強さで勝てるメンタリティである。カタール戦のときも述べたように、今の日本代表はホームの重圧に弱すぎる。勝たねばならないと義務を感じると、とたんに萎縮して、「自分たちのサッカー」なるものができなくなる。今日の後半もそうだった(ホームではないけれど)。
 またオシムの話になってしまうが、雑誌Numberの連続インタビューでオシムは、今年のチャンピオンズリーグ準々決勝のバルセロナ―バイエルン戦について、大敗したバイエルンにはビッグクラブでプレーするのにふさわしくないメンタリティの選手がたくさんいた、というような指摘をしている。超一流のクラブが毎試合背負うプレッシャーに耐えられず、大一番で自分の能力を発揮できない選手、というような意味である。よく言われるのは、ブラジル代表選手が背負う重圧。サッカーの能力が天才的であるだけでなく、まともに考えたら恐慌を来すしかないような巨大なプレッシャーに耐えうる能力が、選手を超一流にし、チームに大きな結果をもたらすのである。ジーコには、日本のメンタルの極端な弱さが、ついに理解できなかった。
 このため、ワールドカップで日本が今まで以上の成績を残すためには、まずはJリーグが選手にそのような重圧を常に与える場となる必要がある、とオシムは言う。
 日本代表は、世界レベルから比べ、この重圧の経験が極端に少ない。ごく一部の選手だけが海外でそれを経験し、それに打ち克ってきているが、チーム全体がそれを乗り越えられるほどの蓄積とはなっていない。たまの代表の重要な試合で経験するだけでは、まったく足りない。サッカー選手として日常的に直面する必要があるものなのだ。
 日本代表の特徴は、体格はないが運動量とパス回しの技術で相手を上回ること、というのは共通概念となりつつある。だが、Jリーグを見ていると、ヨーロッパのリーグのサッカーよりも走っていないではないか! ぬるいプレスの中でぼんやりパス回しをしているではないか。これで本当に日本の特色を「代表」できるのだろうか? こういう足りなさについて、Jの観客はもっと厳しい要求を突きつけていいと思う。
 闘莉王がなぜ決定力があるのか。日本育ちの人のメンタリティと違って、重圧の中でも能力どおりのヘディングを決められるからだ。そういう選手が代表の中にもう少し増えないと(そのためにはそういうJリーガーがもっと増えないと)、いくらサッカーの質を上げても、本番で発揮できないまま終わるだろう。そのためには、Jリーグという環境が厳しくなる以外に道はあるまい。
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 郵政民営化が妥当かどうかとか、西川社長は続投すべきかどうかといった問題とは別に、鳩山邦夫氏の言動を見ていると、この人はつくづく信用できない政治家だという思いばかりが募る。
 鳩山邦夫氏は、麻生首相が当初は西川社長を替えるつもりだったことを示す証拠として、麻生首相から新人事案を書いた手紙をもらったことを公表した。これは、前回の日記に書いたとおり、すでに報道されている話ではある。ただ、記者団の前で公言するのをテレビで見て、邦夫氏が法務大臣時代に「友人の友人がアルカイダでバリ島のテロ事件にも関与したと聞いた」といった話をして、法務大臣の発言としてどうなのかと批判を浴びたときと同じだなと、私は感じた。政治家の発言としては、あまりに軽々しすぎる。自分を正当化するためなら、平気で舞台裏の情報もばらしてしまうんだな、と思ってしまう。これでは、誰ともまともな交渉はできない。
 一方でこのような報道もある。麻生首相が示した、西川社長に代わる人事案を、総務省の幹部にそのまま渡して対処を任せたというのだ。総務大臣の権限と政治生命を賭けるほどなら、社長交代を実現するよう、なぜ自分でもっと骨を折らなかったのか? 政治力がないどころか、他人任せすぎやしないか。だから小泉元首相らにあっさりと覆されてしまうのだ。
 政治家としてすべき努力もさして行わず、その上で自分の意に沿わない結果になったら、認めないと言い張る。そして他人のせいにする。ただのわがままな若旦那ではないか。私の目には、麻生首相と同じぐらい、軽薄な政治家に見える。
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by hoshinotjp | 2009-06-16 20:57 | 政治
 鳩山邦夫総務大臣の辞任(罷免)、世間では勇ましいことのように評価されているようだが、私はまったくそう思わない。
 鳩山大臣は子どものころから切手収集が趣味で、兄・由起夫とともに、中央郵便局へ切手を買いに行くのが楽しみのひとつだったという。郵政という制度や郵便局の建物をしきりに昔のまま保存したがる心性には、その強い愛着もあるだろう。以前にもこの日記で書いたが、鳩山邦夫代議士は、じいちゃん(鳩山一郎)の作った政治は立派なものなんだから下々が勝手に手をつけるな、変えることまかりならん、そんな輩から政治を守るのが俺の役目だ、とでもいうような、風紀委員気取りの政治家だと私は思う。だから、とにかく旧来の体制を変えたがらない。そして、何様だと思うような上から目線で、叱りつける。こういうのを「信念」だとか「正義」と呼べるのだろうか。今回は、たまたま相手がかんぽの宿問題の責任もとらない西川社長という、誰が見ても理のない「悪者」だったから、世は支持してくれているだけのことだ。
 報道によると、「もともと郵政民営化には反対だった」と公言した麻生首相は当初、西川社長を替えるつもりで、鳩山大臣に命じ、指名委員会へ新人事案を実現するよう働きかけていたという。だが、小泉・竹中コンビが逆襲、各委員を説得、指名委員会は西川社長続投を決めた、というのが経緯のようだ。
 むろん、それを拒む権限は総務大臣にある。だが、総務大臣はそれを実現するための政治で政敵に負けたとも言える。麻生首相ともども、政治力を欠いていたせいだとも言えるのである。両者とも、俺が口で言えば誰かがやってくれる、という坊ちゃん体質がしみついていたのではないか。
 邦夫氏が自分の思い通り行かないとむくれるのは昔からで、いったんは自民党を出て新進党に加わり、さらに離れて兄と民主党を結党したのに、民主党のリベラルな体質が肌に合わずに浮いてしまうと、さっさと抜けて自民党に戻り、同じ「保守本流」の子孫である麻生首相と組み、しかしまた自分の言い分が通らなくなると「自民党抜けるかも」と言って兄との連携を示唆する。一貫した信念の人のとる行動だろうか? 一貫していることがあるとしたら、「じいちゃんの作った保守本流を立て直す」ということぐらいで、一般人の生活ための政治とは遠く離れている。
 今後は、民主党入りするのかどうかが焦点となる。麻生内閣誕生の中心だった邦夫を、すぐに民主党入りさせたら、鳩山兄弟による公党の私物化と批判されるのはあたりまえだろう。さすがに党首以外の党員が拒むと思うが、もし手を組むようなことがあればそんな政党は解体したほうがいいと私は思う。
 有権者も、あえて罷免を選び涙を見せて「正義はまかり通らない」と口にするようなスタンドプレーに引っかからず(あれは演技でイエローカードだ)、これまでの言動の総体で政治家を評価すべきだ。さもないと、小泉首相の郵政選挙のときのように、その場の絶叫に簡単にだまされてしまうこととなろう。
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by hoshinotjp | 2009-06-13 12:43 | 政治
 サッカーのワールドカップ最終予選、日本対カタール、ホームでまた引き分け。
 仕方がないよね、連戦で疲労も蓄積していたんだし、ワールドカップ出場を決めた直後なんだからどうしてもテンションは下がるし、走れなくてもミスしても、まあ仕方がないよね。次のオーストラリア戦も、アウェイだし、オーストラリアのほうが格上だし、もうお互い本戦出場も決めているんだし、まあ勝てなくても仕方ないよね。今後は、ヨーロッパに出向いて超強豪と親善試合するけど、これは負けても当然だよね。こてんぱんにやられて世界を実感し、課題を見つけることが大切なんだからね。そして来年のワールドカップ本戦、対戦相手は今日引き分けたカタールなんてレベルじゃないんだから、まあ勝てなくても仕方ないよね。負けても、仕方ないよね。精一杯やったよね、きっと、だから仕方ないよね……
 というようなムードが頭に来る。今日の試合は激烈に罵倒されてしかるべきだ。選手たちは代表辞退を思わず考えてしまうぐらいに厳しい環境に置かれなくてはならない。
 それにしても日本は本当にホームのプレッシャーに弱い。最終予選、結局、ホームで1勝3分け。アウェーでのウズベキスタン戦のような逆境のほうが強く、ちょっとでも、勝たねばいけない、シュートを外してはいけない、自分たちのサッカーをしなければいけない、といった義務感を感じると、たちまち萎縮して自分を見失う。内輪に対しての恥には異様に過敏なこの性格は、日本社会そのものだ。いつもまわりの顔色をうかがうようなこの性格を変えないと、世界の場に一人前の大人として立つ日は来ない。この脆弱なメンタルを脱している選手という意味でも、山田直紀が本番には絶対的に必要になるという気がする。あと、鈴木啓太。
 ウズベキスタン戦は審判によって試合が破壊されていたから、サッカーの内容をあれこれ言うことを留保したけれど、ホーム最後のカタール戦は言い訳はもはやできない。やはり岡田監督はここまでが精一杯で、この先はだめなのではないか? 2位通過なら監督交代、と言っているセルジオ越後に、初めて同感。今日は、すでにこのレベルでは完成しているチームとして完勝し、次のレベルを目指せることを示す必要があった。それなのに、まだ今までと同レベルのシステムを試しているような試合で終わってしまった。スタメン発表でボランチの組み合わせを見て不安を覚えたのは、私だけではあるまい。素人に不安を抱かせるスタメンを組み、実際にその素人の不安が的中する、というのは、監督のレベルとしてどうなのだろう。
 それと、岡田監督になってからは、どうも選手の体調管理がうまくいってない気がする。代表合宿で怪我して離脱する選手がものすごく多いし、本番で疲れていることも多い。南アは高地の会場が多いようなので、フィジカルコンディションの管理はとても繊細なものになろう。
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 新聞はどうしたらこの苦境を脱せるのか、とよく考えるが、たぶん脱せはしないという結論に落ちるのが常だ。ただ、どうせ脱せないのなら、開き直り思い切り、好き勝手にやったらいいのに、とも思う。
 私の求める今後の新聞像とは、世の中に冷や水を浴びせる役割だ。インターネット時代、メディアとは世の欲望や熱狂を加速させる機能へと特化していくばかりである。今やどうしても遅れるメディアである新聞には、むしろ「スローメディア」として、世の欲望や熱狂に疑義を挟む役割がふさわしいと思うのだ。私のイメージしているのは、現在購読している東京新聞の名物である「特報面」がメインとなった新聞だ。「特報面」は、私の思う「冷や水を浴びせる姿勢」が強く、インフルエンザ騒動でも、いち早く舛添大臣のスタンスを熱くなりすぎではと批判したり、政府全体の対応とメディアの反応を合わせて検証したりした。同じ東京新聞のストレートニュースのページではまさに過熱した報道が行われているその最中にである。そこでは、社会部デスクが、自らの熱くなりすぎてしまった報道姿勢を告白したりもしていた。
 選挙中、報道機関は、アナウンス効果に気を遣う。例えば、大きなメディアが「与党リード」と書くと、与党支援者は安心して気が緩み、野党支援者は気を引き締めて活動を活発化させ、結果的に投票行動では逆に振れたりする、という効果である。
 選挙に限らず、報道には多かれ少なかれ常にこのアナウンス効果が働く。だから、例えばインフルエンザ騒動で、政府がこんなに緊迫して対策をとっていると大々的に報じれば報じるほど、世の中の不安をあおり、マスクを付ける人が増えるといった効果が生じるわけである。にもかかわらず、自らのアナウンス効果には無頓着に、「ちまたにはこんなにマスクを付けている人があふれている」とその現象を報道するとなると、これではただの扇動家ではないか、まるで無自覚なヤラセみたいではないか、と思ってしまう。ベストセラーでも同様で、メディアがいっせいに、初日にすでに80万部、と報道すれば、今の熱狂しやすい社会ではたちまち人々が買いに走るわけだが、何と2週間で100万部、書店では売り切れ続出、この要因は何か、などと、まるで自分たちは無縁であるかのように報道している姿には、「歴史の忘却」とつぶやきたくなる。すべてのメディアがこのような状態になってしまったら、戦時中の大政翼賛報道に行き着くしかない。
 だからこそ、新聞には、これまでのような部数や収益を回復しようという考えは捨てて、小規模でもよいから冷や水を浴びせるメディアとして成熟してほしいのである。
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by hoshinotjp | 2009-06-09 23:37 | 社会
 サッカー、ワールドカップ最終予選、アウェイでの対ウズベキスタン戦、0-1の勝利で日本はワールドカップ出場を決める。
 無事に怪我人もなく勝ってよかった、というのが最初の感想。ゲーム内容をあれこれ言う以前に、シリアの審判によりゲームとして成立していなかった。これはサッカーではない。今まで、イタリアのリーグや南米の試合で、唖然とするようなジャッジを見たことは何回かあるが、日本代表の試合ではここまでひどいジャッジは見たことがない。アウェイの洗礼、などというレベルではない。実際、セリエAではその後、審判が買収されていたことが発覚、その大規模なスキャンダルが原因で、セリエAはすっかりヨーロッパの中で地盤沈下してしまった。
 だから、闘莉王の言うとおり、よくぞ審判に勝って勝利を収めたと思う。また、今季のチャンピオンズリーグ、準決勝セカンド・レグでのチェルシーの選手やファンの気持ちがよくわかった。
 ただ、私は、こういう逆境が出現したおかげで勝てたのかも、と思わないでもない。日本は、たとえばアジアカップの重慶での決勝など、あまりにも一方的な妨害を受けた試合では、怒りを闘志に変えて冷静にしかし強いメンタリティを発揮して勝利した経験が何度かある。このウズベキスタン戦でも、特に試合終盤の露骨な嫌がらせに、逆に一瞬の隙も与えないほどにまで緊張を高めた感がある。日本が終盤に失点を喫するケースは、リードして気が緩んでいたり、単に相手の圧力に押されて慌てふためき始めたりして、安易なミスを犯すという場合が多い。今日は審判のおかげで、誰も気が緩むことはなかった。
 とはいえ、こんな審判を許しているなら、アジアのサッカーのレベルは上がりようがない。が、これがきちんと検証されてこのようなジャッジに厳しく対処するなんてことが、今のアジアサッカー連盟にできるかどうかは微妙である。
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 昨日、路上に立って高松英昭写真集『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス)の販売活動をしてきました。朝9時から夕方6時近くまで、途中小一時間の休憩を挟んだほかは、ずっと立って宣伝。まあ、路上で売っている本をいきなり買う、なんて習慣は、私を含め日本にはありませんから、予約を除けば、そうそう売れるとは思っていませんでしたが、これがわずかながら売れたのです!
 といっても、私や高松の力ではなく、ビッグイシュー販売者の力。ビッグイシューの販売者と並んで売ったわけですが、地道に販売活動を続けている路上生活者にはなじみの客ができていて、その方のうちの何人かが買ってくださったのです。ありがたさが身にしみました。そして、ビッグイシュー販売者の力のすごさを思い知りました。
 新宿に始まり、信濃町、飯田橋(2カ所)、本郷三丁目、虎ノ門とまわり、途中では版元である太郎次郎社エディタスのスタッフやこの本のブックデザイナーまで参加。とても楽しかったです。まだまだこの写真集の路上販売は続きますので、ぜひ販売者に声を掛けて、できれば購入を考えてみてください。
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 実際に体験してみると、路上で雑誌を売ることがいかに過酷か、多少でもわかります。もちろん、仕事をしている人は誰でも同じぐらい大変な労働をしているわけですが、その労働で得られる対価を考えると、路上生活者の仕事はまだまだ報われていないなと思います。これは、路上に出るしかなくなっても、経済的にそして精神的(人とのつながりが持てるという状態)に生きていられるための、最低限のセイフティネットです。でもビッグイシューを買ってくださる人たちがこれだけいるのを実感して、そのセイフティネットへの理解がここまで浸透してきたのだなあと感じました。私もその理解を最近得たばかりなわけですが。
 ただ、路上でビッグイシューを売るという形態は、路上生活者への自立支援というだけではないと私は思っています。唐突ですが、ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんは、自主制作でドキュメンタリー作品を作り、それを上映希望者の招きに応じて全国(まさしく世界中どこでもという意味での全国)どこへでもおもむき、自らも立ち会って自主上映会を開くという、商業映画の流通とまったく無縁のやり方で、作品を公開しています。そしてこれは失敗するどころか、ものすごい規模で広がりを見せています。これが、現在のグローバル化された商品流通システムをなし崩しにしうるやり方であることを、私は強く感じています。この方法がメジャーにはならないだろうけれど、一定の割合で広がれば、勝ち組負け組の構図が成立しにくくなるのではないかと思うのです。
 ビッグイシューの流通形態には、岡村さんの自主制作自主上映会方式にどこか通ずるものを感じています。だから、路上生活者が社会復帰する場となり得るのではないか。どちらも、損得勘定からは解放された、小さなコミュニティがそこに成立しています。そしてそのコミュニティに参加していることに、参加者が充実を感じています。今苦境にある出版および文学は、このことを少し考えてもいいのではないか。真似をするというのではなく、ここにある世界観、物事を捉える感覚から、状況打開のために学ぶことがあるのではないか。そう思うのです。
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by hoshinotjp | 2009-06-02 23:09 | 身辺雑記