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 雑誌の廃刊が相次ぐなか、前回の日記で「雑誌が担っていた文化情報の流通という役割を、果たしてネットは担えるのだろうか?」と考えたが、やはり無理なようである。なぜかというと、活字という文化自体が変質しているようだからだ。どうもメディアの世界でも、ライターなどフリーのプロフェッショナルたちの「非正規雇用化」が起きているからだ。
 どういうことか?
 知人のライターの話によると、まず、ウェッブメディアが支払う報酬は、雑誌などが払っていた報酬に比べると、数分の一程度と格段に安いのである。紙代や印刷代がなくなるわけだから、コストは紙媒体よりかかっておらず、本来ならば報酬はむしろ増えてもよいぐらいだろう。だが、取材費をそこから捻出したら赤字になるような額しか提示されないという。
 ここには、プロの文章の書き手を、それなりの経験を経た職能の使い手とは見ていないという、ウェッブメディアの特色がある。文章を、あくまでもビジュアルに奉仕する記号としてしか捉えておらず、その記号を書くことは誰であっても可能な、代替可能な仕事と位置づけている。
 同じようなことが、字幕翻訳の世界でも起きている。戸田奈津子さんやそれに続く世代の字幕翻訳家たちは、作品世界をきちんと読み解き限られた字数の日本語に置き換えるという作業を、高度な技術と能力の要求されるプロの仕事として完成させてきた。例えば英語などの字幕を見るとわかるが、日本の字幕技術は世界でも類を見ないほど高い。つまり、視聴者が見やすくわかりやすい。
 だが、そんな高度な仕事は今や評価されなくなりつつあり、とにかく二束三文の安いギャラで、配給会社の意向に従った「超訳」の字幕をつける者へ、発注が流れているという。質などどうでもよく、オリジナル作品のセリフをねじ曲げてでも売れればよいという、配給会社主導の字幕作りに奉仕することしか、求められていないのである。もはや、プロフェッショナルの仕事ではない。
 つまり、経験と能力を要求されるプロの仕事が、質を度外視して安く買い叩かれ、その結果、格安のギャラでその仕事を引き受けるプロではない者たちを大量に出現させている。むろん、そのような安いギャラでは食えるはずもない。フリーランスの仕事なので安定もしない。
 これを私は、フリーのプロフェッショナルの「非正規雇用化」と言いたいわけである。
 インターネットメディアは、このように、単に紙媒体のメディアをネットの世界に移行させたのではなく、その質そのものを破壊しようとしている。別の質へと変えるのではなく、たんに破壊して単純作業へと貶めようとしている。その破壊の原理は、すべてを経済効率で計算する自由化経済、つまり格差社会をもたらしている経済原則と同じものである。
 そのような原理にインターネットメディアが支配されている限りは、すべての文章が商業に奉仕する現状を、推し進めるばかりだろう。
 私たちは今、言葉を奪われる危機に直面している。
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by hoshinotjp | 2009-07-30 23:28 | 社会
 ファッション誌のマリ・クレールが今発売の9月号で休刊する。その最後の号が文学特集で、私は20枚の幻想的な短篇小説「桜源郷」を書いた。日本文学の好きな小説を翻案するという企画で、私は坂口安吾の「桜の森の満開の下」を選び、私っぽい小説に書き換えた。こういう企画はひたすら楽しい。
 それにしても、80年代から90年代を支えた、いわゆるアートの香りのする雑誌がここのところ次々と廃刊している。エスクァイア、STUDIO VOICE、マリ・クレール、広告批評、TITLE、クレアももうなかったんだっけ? こないだ書いたとたん廃刊というのでは、「フォーブズ日本版」や「PLANTED」もそう。
 一部の作家をのぞけば、大半の作家は小説の原稿料・印税だけでは食えないので、ほかの文章による原稿料が収入のそれなりの割合を占めている。雑誌の廃刊が相次ぐということは、収入源の消滅という意味でも、作家にとって厳しい事態である。
 だが、より厳しいのは、それらの媒体で活躍していたフリーのライターやエディターだろう。アートに強いライターは、多くの雑誌にまたがって取材・執筆をしており、私もそのようなライターとのつながりで、初めての媒体のインタビューなどを受けたりもしている。
 それら書き手たちにとって、これらの雑誌の廃刊は死活問題である。なぜなら、では雑誌が消えた分、ネットで書くことが増えるのかというと、そうでもないからだ。
 上記のような雑誌が担っていた文化情報の流通という役割を、果たしてネットは担えるのだろうか? 商業的な思惑を考慮しながらも、受け手に何が魅力の核心であるかをきちんと伝えられるプロの書き手たちがおらずに、価値ある情報はネット上に流れるのだろうか? ただひたすら広告でしかない情報と化してしまうのではないだろうか。
 フリーライターとは、それらアートの商業的な側面と、文化的な側面とをつなぐ、翻訳者であるとも言える。ネットでは、その媒介力が消え、商業的側面へと特化されていくような気がしてならない。
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by hoshinotjp | 2009-07-28 17:16 | 文学
 実家の本を整理していたら、半村良の「岬一郎の抵抗」全3巻(集英社文庫)が出てきた。学生時代は友人の影響で半村良を愛読していたのだが、この日本SF大賞を取った作品は、買ったまま未読だった。当時は金がなくて単行本では買えず、文庫化を待っていて、文庫になったときには社会人だったので読む暇がなかったのだ。
 改めてカバーのあらすじを見たら、すごく面白そうではないか。いそいそと読み始めたらもう止まらない。これは傑作である。しかも、今この時代に、この年齢になって自分もいくつか小説を書いたあとで、読んでよかった。たぶん、出た当時の若造の私だったら見えなかったことが書かれている。
 以下、ネタバレ。
 この小説はまず、権力論である。国家とは、暴力を独占した組織が自らを正当化したものである、という構造が、つぶさに展開されている。そこにメディアや市井の民がいかに迎合させられていくのか、また望んで迎合していくのか、戦慄を覚えるほどリアルに描かれる。半村良という作家が、巨大な権力の動きから、ご近所の人間関係の優劣にいたるまで、力関係にいかに敏感な作家だったかがよくわかる。
 もう1つの柱は、では、権力を回避する生き方はあり得るのか?ということだ。岬一郎はきわめて弱い存在だった。他人の悪意や憎悪に過敏なあまり、目立たないように努め、かえっていじめられてしまうような子どもだった。その結果、いたっておとなしく、他人と波風を立てない善良な大人に育つ。(この作品が書かれた1980年代後半は、学校でのいじめが激化し、それによって自殺する子どもが次々と現れた時代である。現在がその過激な延長にあることは言うまでもない。)
 その岬一郎の、他人の悪意に敏感である能力が次第に発達し、ついには強力な超能力を持つに至る。人の心を読める、人の心を操れる、多くの病を一瞬に治せる、自在にものも動かせる、念じれば人をも殺せる。つまり、国家を軽く上回る権力を持ちうる力を、手にしてしまったのだ。
 だが、岬一郎はその力を行使しようとしない。権力関係を作りたくないからだ。その関係こそが暴力や悪意や憎悪を産んでいくことを、その対象となった体験で思い知っているためだ。
 岬一郎はとてつもない力を持ちながら、社会に介入しようとしない。社会とは、力関係の集積である以上、たとえ善を施すためであれ、介入したとたん、自分も力関係に巻き込まれるからだ。そして巻き込まれれば、圧倒的な能力を持つ岬一郎は、いやがおうでも絶対的な優者、強者となることを免れられない。なお弱者でいることは、社会が許さないのだ。だから岬一郎は社会から身を引く。隠居のように、社会を降りた人間として生きようとする。
 それでも国家は、自分より潜在的に力のある個人の存在を許さない。何もしなくても、その潜在力があることが、国家の存在を否定するのだ。だから、消滅させようとする。
 降りること、既得権を放棄すること、自分では自覚できない所与の権力を意識し捨てること、それはとてつもない苦痛を伴うが、そうしない限り人間は不信をベースに生きるしかないこと、不信は暴力を必要とすること。それらは私がずっと自分の小説の中で追求してきたことである。それらが、すでに20年も前にこんな素晴らしい小説として書かれていたのだと知り、自分ももっとこのテーマにこだわり続けてよいのだ、そのことには意味があるのだと、大いに励まされた。
 最後の場面で、岬一郎が連行され、自衛隊の戦車と対決する場所が、富士山麓であることも、その数年後のオウム真理教事件を思うと、背筋の寒くなるようなリアリティをもたらす。
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by hoshinotjp | 2009-07-20 23:47 | 文学
 横長のスタイルを気に入って、ブログのデザインを現在のものに変えてみたが、いまいち殺風景だったので、背景に写真を入れてみた。まだ試しだが、とりあえず涼しそうな水族館の写真。
 この横長、右から左へ時間が流れていくという点で、本の感触を持っている。そこが気に入った。
 使い勝手もよい。キーボードの矢印キー「→」を押すと、一つ右隣の記事へ移動できる。「←」なら左の記事へ移動。上下に動かしたいときは、「Page Up」「Page Down」。「Home」を押せば最新の記事(一番左端の記事)へ飛び、「End」キーを押すと、表示されている記事のうち一番古い記事(つまり一番右端の記事)へ飛ぶ。このときの飛び方が、本当に時間を滑空しているようで面白い。試してみてください。
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by hoshinotjp | 2009-07-18 23:36 | お知らせ
 自民党は何のために存在しているのだろう?
 麻生首相では総選挙は戦えない、というのはまったくそうだろうとは思う。でも、だったらなぜ1年前、総裁選でこの人を自民党総裁に選んだのか? 麻生太郎という政治家が、首相になったとたん無能へと豹変したわけではない。この人にできることできないこと、どんな人物でどんな政治的判断を下しうるのか、もう何十年も一緒にやってきたのだから、わかっていたはずである。
 にもかかわらず自民党員は総裁に選んだので、私は冗談のように感じた。なぜなら、麻生首相は「選挙の顔」として選ばれたのだから。あのときは麻生太郎なら総選挙に有利だと判断されたのだ。つまり、首相として日本という国家と国民のためにどんな政治をするか、ということなど不問に付されて、選ばれたのだ。そして1年後、麻生降ろしをしたり、都議選惨敗の責任を、などと突き上げたりしている。では、麻生総裁を総裁選で選んだ自民党議員や党員たちの責任は?と問いたい。あまりに安易に総裁を選んだツケが自分たちに回ってきているだけではないか。
 自分の行動の責任とは何なのだろう? 誰一人まともに責任を取らない政権与党が、今の自民公明ではないか。これはつまり政党ではない。誰かも言っていたが、森喜朗首相の時点で崩壊は始まり、小泉純一郎がその崩壊を覆い隠し、でも影では急速に崩壊し、今に至る。
 私は民主党も信用していない。大勝したら、今の自民党のようになるのではないかと思っている。ただ、自民党と違うのは、まだ政権についておらず、権力を掌握していないので、比較すれば「まだ堕落しきってはいない」。それだけのことなのに、政権交代を熱望されて、大勝しそうなムードがあるのは、自民党がもはや存在していないがためと、世が熱狂に流されやすいためとだろう。
 政権選択というが、これは本当には選択ではない。自民党が存在していない以上、選択肢がないのだから。
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by hoshinotjp | 2009-07-16 17:58 | 政治
 Jリーグ大分トリニータ、シャムスカ監督解任。オシムが日本代表を去ったことの次ぐらいに無念な出来事。これほどまでにチームと一体になって、サポーターに愛され、チームを誇れるブランドにまで育てたシャムスカ。大分の監督になるさいの姿勢からして、私は尊敬してきた人物だった。大分をリーグ優勝に導いてから勇退してほしかったのに(そしてやがては日本の代表監督に)、まさか今季、こんな形で去ることになるなんて。解任は仕方ないと思うけれど、そういう合理的な考え方が受け入れられないような悲痛を感じてしまう。大分には、何が何でもJ1残留してほしい。
 サッカーで起こることはすべて人生でも起こりうる、というオシムの言葉をまた噛みしめる。
 それに引き替え、前シーズン終了後、強引に松田監督を切った神戸は、今やどうなったか? 何となく、ここのフロントはヴェルディの失敗を追っている気がする。もっとサポーターや人材を大切にすべきである。
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 都議選で民主党が圧勝したわけだが、今日の東京新聞の特報面は、「民主に旧経世会の“影”」というタイトル。民主党の幹部はかつて自民党の主流派であった経世会(田中派)の議員が多く、政権交代はじつは派閥交代なのではないか、という視点で今の政治情勢を考えてみるという企画だった。圧勝した翌日にこのような記事を出すことに、私はメディアの正常なバランス感覚が働いていると感じた。熱狂に冷や水をさす、というのが、今のメディアの重要な使命だと私は思っているからだ。
 東京新聞は普段、政権交代に積極的な姿勢を示しているが、にもかかわらず、世が浮かれすぎて、まるで4年前の小泉郵政解散選挙のときのような熱狂が出現しかねないとなると、あえて冷や水を浴びせてみる。これは、4年前の過ちを社会が繰り返さないために、欠かせない行為である。メディアが一緒になって浮かれたら、それは報道の死を意味する。
 もう一つ、繰り返されないことを望むのは、どこかの週刊誌の見出しにもあったけれど、日本新党の愚行だ。細川首相は実にあっけなく政権を放り出したが、何となくあのときの細川首相と似ていなくもない鳩山由紀夫が仮に首相の座に着いたとして、困難にぶち当たったとき(現状の日本ではぶち当たるに決まっているが)またしても放り出したりないだろうかという懸念はある。ここ数年の首相を見てもわかるとおり、二代目三代目の政治家は、その放り出す感覚が皆同じようだから。麻生首相がこのまま総選挙を貫徹したら、自ら放り出さなかったことだけが、その業績となるかもしれない。
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by hoshinotjp | 2009-07-13 23:40 | 政治
 鳩山邦夫・前総務大臣が、「自殺はDNAのなせるわざ」という趣旨の発言をした。大学で研究してほしいとまで述べた。
 自殺で苦しむのは、その遺族や親しかった関係者である。その人たちが、自分のせいで死なせてしまったと自責の念にさいなまれ、喪失感で自らも死にたいという思いに苦しんでいることを、このお坊ちゃんにはまったくわからないらしい。まるで迷信のようなこの偏見に満ちた言葉が、その人たちをどれほど傷つけることか。自殺が多いのは、あなたがその閣僚を務めもした党の統治してきた社会のせいであることは明白ではないか。この10年、自殺者が3万人を超え続けているのは、自殺の遺伝子を持った人が増えているせいだとでも言うのか。遺伝子のせいにするのは、究極の「自己責任論」すなわち責任放棄である。この発言が政治的無責任と差別以外の何ものでもないことを、この政治家はまったく知らない。そこまでおめでたいボンボンだから、郵政で対立するまで、似たような、下々の皆さんとは無縁の人物である麻生首相の盟友でいられたのだろう。政治をするのも、犯罪を犯すのも、自殺をするのも、これすべて血筋、というような人間観が透けて見える。恥を知ってほしい。
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by hoshinotjp | 2009-07-12 23:48 | 政治
 路上生活者を写した高松英昭写真集『STREET PEOPLE』(太郎次郎社エディタス)が、書店でも発売になりました。
 すでにお知らせしたとおり、6月に限定350部を路上で、ビッグイシューの販売者が先行販売したわけですが、なんと完売。2500円もする写真集を路上で買ってくださった方がこれだけいたことに感謝するとともに、ビッグイシューの販売者がいかに購買者との人間関係を作り上げているのか、その力を思い知りました。
 今度は書店での販売。私も、路上生活が社会の主流になった世界を、短編小説「先輩伝説」として書いています。なにとぞよろしくお願いします。
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by hoshinotjp | 2009-07-06 04:59 | お知らせ
 Jリーグ、優勝争いのキーポイントとなる川崎フロンターレ対鹿島アントラーズ戦。私は今はアンチ鹿島なので、比較的シンパシーを感じている川崎に肩入れしていたが、途中から、このチームが優勝してはいけないと思い始めた。
 先取点を取るまではよかった。ホームで、勝ち点差8を5に詰めるチャンスという試合で、フロンターレは最初から攻勢に出た。勝つ意志が、それなりに表れていた。しかし後半に入ると、一人退場を出して数的不利の鹿島に対し、フロンターレはちんたらした試合運びをする。本当に鹿島に勝って優勝したいのなら、ここでは単に勝ち星を挙げるだけでなく、鹿島を圧倒しなくてはならない。なのに、運動量で鹿島に劣り、追加点を無理に取るより逃げ切ろうという姿勢を丸出しにする。
 このようなチームは優勝するには値しない。勝つという意志がチームにみなぎっていない。まして、10人でも点を取るすべと経験を持つ鹿島相手である。守勢に回ったら、必ずやられる。その不安どおり、ちんたらした守備ラインでのパス回しをマルキーニョスに狙われ、カットされ、興梠の同点弾を食らった。
 鹿島はどのチームからも狙われる王者にふさわしい力とタイトなサッカーをしているとは思う。だが、アジアチャンピオンズリーグでは決勝リーグに進むことさえままならない、対外的な試合には精神的にとても弱いチームなのだ。そのチームが、Jリーグでは圧倒的な王者として、首位をぶっちぎっている。つまり、Jリーグというリーグは、その程度のレベルだと言われても仕方がないのだ。
 内輪では強いのに、外では緊張して実力を出せない。日本代表とおんなじではないか。当然である、日本代表の大半はJリーグの選手なのだから。鹿島は日本サッカーのメンタリティを象徴している。この鹿島を強烈な意志と力で突破するチームが登場しないと、Jリーグのレベルは上がらないし、日本代表が抱える弱点も変わらない。にもかかわらず、2位の川崎がホームでこのていたらく。コンフェデ杯でアメリカが見せたようなサッカーを、日本は真似して近づくことはできても、本番でそれを発揮するメンタリティは非常に薄いままだ。
 鹿島に勝つ意志を見せられないで、ワールドカップで勝つことはできるのか?
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