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 去年から、何となくフィリップ・K・ディックの再読を始めたのだが、読むごとにはまっていき、『高い城の男』ですっかり新しい気持ちで評価するようになった。学生時代に読んだときは、現実だと信じていたものの崩壊、そしてでは別の現実があるのかというとそうではなく、ひたすら底なしに崩壊していくという、相対化の極北のような世界観にハマった。同様に、システム化された模造人間や機械と、生身の人間とは、じつは境界が曖昧であるという人間観に惹かれた。
 それらの世界観、人間観を作り出しているのは、じつは政治的な力関係なのだということを、このたびの再読で、リアルに実感した。頭で理解したというより、私がいま生きている感覚にシンクロするような感じで、共感したのだ。フィリップ・K・ディックがきわめて政治的な作家(アナーキストといってよい)であることを、体全体で理解できたのだ。すなわち、現状の世の力関係を壊すために必要な小説だと思ったのである。
 25歳ごろ、ディックを再読したことがあったのだが、そのときは、言語が物語に奉仕しているだけのように感じられ、がっかりした。言葉そのもので世界を食い破っていく文学を欲していた時期だった。世の力関係の複雑な体系に無知だったから、それを極めたがっていられたのだろう。
 ディックの小説言語が物語に奉仕しているだけだとは、今は思っていない。依存症者の言説が、その世界を覆っている。そこに穴を開ける言語を、ディックは必死に、性急に探っている。
 10月28日の日記にも書いたとおり、ディックの登場人物たちは、おしなべて依存状態にある。ディック作品特有の幻覚ドラッグ(ユービックみたいな)だけでなく、宗教、暴力、DV、ペット飼育、自傷、自殺……。登場人物たちはみな、自分を無力で無価値な人間だとどこかで思い、圧倒的な力を持って迫ってくる世間に対して無力感と諦念を抱き、人間関係に傷つきくたびれはて、依存している対象に逃避したり暴力に逃れたりする。今読んでいる『火星のタイムスリップ』では、火星に入植した人たちの自然死は、そのほとんどがじつは自殺である、と語られている。
 これは今の世の中そのものではないか! ディックの作品では、この依存を強いる力の正体が何であるのか、懸命に可視化させようとする。そして、そんな環境でどうしたら生き延びられるのか、さらには、どうしたらそんな環境を変えうるのか、ディックの小説は考え続けている。
 ディックはその後、キリスト教神秘主義へと傾倒していった。それ自体、一種の依存であろう。それは、相対化の連続運動であるアイロニーが近代という文化の本質であることを示したシュレーゲルが、のちにキリスト教原理主義者に変わったことを思わせる。私は1960年代のディック作品に、今現在を解体する可能性を読みたいと思う。
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by hoshinotjp | 2009-10-31 14:27 | 文学
 11月1日に(たぶん)、私の長篇小説『ロンリー・ハーツ・キラー』の英訳が、アメリカの出版社PM Pressから出版されることになりました。英訳を手がけたのは、友人でもあるカナダのマギル大学の東アジア研究科教員、エイドリアン・ハーリー(Adrienne Carey Hurley)この出版自体が、彼女の尽力によるものです。PM Pressはメジャーとは一線を画した、非アメリカ的姿勢の小さな出版社ですが、『ロンリー・ハーツ・キラー』にとてもふさわしい性格だと思います。
 これに伴い、長らく放置してあった英語サイトへのリンクを、とりあえずPM Pressの紹介ページへと張り替えました。こちらから、私のブログのいくつかが英訳で読めます。
 Amazonでも買えます(U.S.orCanada日本)。
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by hoshinotjp | 2009-10-29 15:14 | お知らせ
 雑誌『考える人』2008年春号(新潮社)で、「海外の長編小説ベスト100」という企画があったのだが、そこで個人的なベスト10のアンケートを受けた。私は、空想性の強い作品という観点から、以下の10作品を挙げた。

1 フアン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」(杉山晃・増田義郎訳 岩波文庫)
2 セルバンテス「ドン・キホーテ」(牛島信明訳 岩波文庫)
3 レイナルド・アレナス「めくるめく世界」(鼓直・杉山晃訳 国書刊行会)
4 ガルシア=マルケス「百年の孤独」(鼓直訳 新潮社)
5 オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳 ハヤカワ文庫)
6 エレナ・ガーロ「未来の記憶」(冨士祥子・松本楚子訳 現代企画室)
7 マリーズ・コンデ「私はティチューバ」(風呂本惇子・西井のぶ子訳 新水社)
8 カフカ「城」(池内紀訳 白水社Uブックス)
9 フィリップ・K・ディック「ユービック」(朝倉久志訳 ハヤカワ文庫)
10 ザミャーチン「われら」(川端香男里訳 岩波文庫)

 この中で迷ったのが、ディックの作品の何を選ぶか? とりあえず「ユービック」を選んだけれど、その後、ディック作品を学生時代以来20数年ぶりに次々と読み返して、「高い城の男」を選ぶんだった、と今は思っている。さもなければ、「アンドロイドは電機羊の夢を見るか?」。「アンドロイド」は映画「ブレードランナー」の原作だけど、映画とはまるで違う。映画はあの街の映像は素晴らしいが(実際ディックも、自分はまさにあんな街を想像しながら作品を書いた、と感想を述べたらしい)、物語は通俗的な定型でしかない。ディックの小説はもっと境界が曖昧だ。レプリカントは人間と変わらず、超人ではなく、簡単に殺される。
 で、「高い城の男」。半村良「岬一郎の抵抗」を読んだときも感じたことだが、世界大戦の時代を経験している作家は、あの時代の熱狂の恐ろしさを、ものすごくリアルなものとして描く。それは徹底して嫌悪すべきものであると同時に、人間の底に備わっている性質として描かれる。
 ナチス・ドイツと日本が世界大戦に勝利したパラレルワールドが舞台となる「高い城の男」では、アメリカはドイツと日本によって分割され、植民地化されている。世界一の超大国と化したナチスは、そのパラノイアックな妄想を支配原理として、悪夢のような全体主義世界を作り上げる。誰か特定の権力者がそれを動かすのではなく、熱狂化したいくつもの集団が、目的も見失ったまま、ただ妄想に突き動かされて権力闘争を繰り広げ、人々の支配を行う。
 そんな世界のもとでは、個人の力は無に等しい。登場するアメリカ人、ユダヤ人、日本人、ドイツ人の視点人物たちは、いずれも無力感にさいなまれ、諦念に駆られ、それでも生き続けるために、ある依存状態にある。大きな力に勝てないのであれば、その力に自ら身を差しだし、委ねるしかない。あるいは別の力に身を委ねる。例えば宗教。それがキリスト教ではなく、「易経」であるところが、1962年発表という時代背景を感じさせる。
 この依存と諦念、そして熱狂は、21世紀の現代にいたっては、もはや相対化も難しいほどに猛威をふるっている。ディックの作品の人物たちは、それでも、依存している自分から抜け出そうともがき、一瞬だけだが、決定的な行動に出る。それで世界が変わるかはわからない。だが、自分の行動がほんの些細な一撃を与えたことを確信している。
 ディックがこの小説で描いたナチス支配の世界は、現実のアメリカの比喩だと考えてもよい。ディックもそのつもりでもあっただろう。これはオーウェルの「1984年」と並ぶ予言の書と言ってよい。
 ちなみに、上記ベスト10につけた私のコメント文は以下の通り。
「空想力こそが小説の魂だと感じているため、その側面の強い小説を選んだ。誇大ともいえる空想力によって現実を大胆にデフォルメし、ときには近未来社会やパラレルワールドを設定しながら、この現実にひそむ、目に見えないグロテスクさを描き出す。いずれもそんな小説だ。例えば「ペドロ・パラモ」は、死んでもこの世への未練と恨みを語り続ける死者たちの話。「1984年」「ユービック」「われら」などはSF小説でもある。「ドン・キホーテ」は、現実のグロテスクさを知ったときの底なしの笑いを追究した怪作。一度は読破する価値あり。」
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by hoshinotjp | 2009-10-28 14:40 | 文学
 ユーロスペースでこれから公開される映画の予定を見たら、ほとんど邦画ばかりで驚いた。「ユーロ」スペースなのに。洋画配給が今ピンチにあるとは聞いていたが、ここまでとは。むろん、邦画が活況を呈するのはいいことなのだが、テレビドラマの延長みたいなものばかりが主流を占めているとなると、何だか喜べない。わかりやすさを要求し、自分たちと距離のあることにはあまり触手を伸ばさない観客たち。この邦画ブームと、文学が減って読み物ばかりが増えていることとは、同じ現象だ。
 今、活躍している日本の監督たちは、おそらく、メジャーな作品と同時に、ものすごくたくさんのメジャーではない邦画とメジャーではない洋画も見てきたと思う。それが映画を作らせているのだと思う。
 多様性を支えるのは、消費者なのだ。
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by hoshinotjp | 2009-10-22 22:10 | 映画
 ピクシー、すごい!!

 飯田基晴監督のドキュメンタリー映画『犬と猫と人間と』を、渋谷のユーロスペースで見てきた(監督のティーチイン付き)。心をわしづかみにされた。最初は、犬たちの、さまざまな感情を表した表情で。それから、その犬たちの感情の原因となっている、人間の行動に。
 このドキュメンタリーは、捨てられた犬や猫たちはその後どうなるのか、犬猫を処分する施設と、里親たちを探す人々の活動を追った作品である。
 そう言うと、自分は猫や犬は好きだけどそのテーマはちょっと映像では見られない、と思う人が多いだろう。私もそうだった。でも、この映画を見て本当によかったと思っている。私はますます犬が好きになった(最近、それまでの猫好きから犬好きへと変化しつつある)。犬はなぜあんなに可愛く、人の心を豊かにしてくれるのか、この映画に登場する犬たちを見ながら、その理由がほんの少しわかった気がした(この作品では、犬のほうによりスポットが当てられている)。
 長らくホームレスの支援活動を続け、映画『あしがらさん』も撮った飯田監督は、捨てられた犬や猫の立場がホームレスと同じように見えたという。私が上映中にすぐに連想したのは、虐待された子どもたちだ。親に暴力を受けたり見放されたりしたら、子どもたちはどう生きていけばいいのか?
 だが、子どもたちは施設に入ったとしても、処分はされない。犬や猫は処分される。そこまで同一に考えたくなるほど、この作品は、捨てられる側を通しながら、捨てる側の内面を見ようともがいている。その視線は少しも弾劾調ではなく、むしろじっと待っているような感じ。だが、けっして目は逸らさない。
 実際、捨てられる理由には、離婚や失職により自分たちが生きていくだけで手一杯になり、泣きながら飼い犬を手放すというケースがけっこう多いことが示されている。また、捨て犬猫を助ける活動に長くたずさわってきた登場人物は、人間の経済生活が最低限満たされ、紛争などもなく穏便な生活が営めて初めて、犬や猫に対しても優しくなれるということを強調している。
 映画によれば、日本では年間30万匹の犬と猫が処分されているという。1日1000匹の割合。日本社会では、1日平均100人の人が自殺している。
 胸の締めつけられる映画だったが、同時に、自分の感情が豊かになる作品でもあった。映画を見ている最中は、「人間であることが嫌になる」(飯田監督)のだけど、見終われば、「捨てるのも人間、でも助けるのも人間」(飯田監督)という言葉が自分の実感でもあることを知る。
 23日まで、16時10分の回の終了後、監督のティーチインがある。31日にもトークショー。渋谷のあとは全国各地でも上映が予定されている。
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by hoshinotjp | 2009-10-21 23:49 | 映画
 Jリーグ、首位がめまぐるしく変わる。
 私がいま最も敬意と共感を持ってその文章を読んでいるサッカーライターの、大住良之さんが、東京新聞の連載コラム「サッカーの話をしよう」で、次のようなことを書いていた。
 ドイツのリーグ(ブンデスリーガ)では、年末でだいたい前半戦が終わるのだが、その時点で首位に立っているチームがそのまま優勝する確率が非常に高い。首位に立っていることが自信となり、さらに強くなり、勢いを増していく。おおむね、海外の強豪とはそうした傾向を持っている。
 ひるがえってJリーグを見ると、勢いに乗って首位に躍り出たチームが、そのとたん緊張して固くなり、それまでの勢いをなくし、歯車の噛み合わないサッカーで負け、首位を陥落していく。そうやってめまぐるしく首位の譲り合いをする優勝争いを、頻繁に繰り返している。見ているほうは面白いかもしれないが、これは成熟したサッカーの姿ではない。そろそろ、成熟した首位争いをしようではないか。
 そんな趣旨のエッセイで、私は大変共感した。浦和が圧勝した年を除くと、たいていはそのように優勝が決まっているとさえ言える。特に今年はひどい。
 これが日本のサッカー文化の現状である。ジーコ監督は、日本の選手はどうしてゴール前で普通にシュートが打てないんだ、と理解に苦しみ続けた。オシムは、日本人は失敗して責任を問われることを極端に恐れるメンタリティが身に染みつきすぎていて、適切なリスクを冒す習慣がないから、ゴール前で落ち着きを失う、と指摘した。
 浅田真央もしかり。これは、日本の社会を覆う、過剰な同調圧力の結果だと思うのである。円谷幸吉の時代から変わっていない。
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 現在、すばる文学賞の選考委員をしているが、今年の受賞作と佳作作品が、今発売中の「すばる」11月号に掲載されている。
 受賞作、木村友祐(きむら・ゆうすけ)「海猫ツリーハウス」は、近いうち単行本になるので、関心のある人はできればそれを購入してもらえるとありがたいが、佳作の温又柔(おん・ゆうじゅう)「好去好来歌」は単行本にはならないようなので(佳作は本にならない)、今の「すばる」が発売されているうちに読んでほしい。
 2007年まで早稲田大学で文芸科の教員をしていたため、授業を受講していた学生の作品を選考委員として読むこともあるだろうなと思っていたが、今年はついにそうなった。ペンネームで作品を送ってくれたので、私はまったく気づくことなく選考に臨むことができた。選考が終わってから知らされ、やはり事前にわかっていたら微妙に選考に影響していただろうなと、改めて感じた。同じ条件で候補作を読めないのなら、選考する資格はない。
 私が選考したわけではなく、すでに作家としてデビューした、私の知っている元学生たちもいる。ここでまとめて紹介しておく(デビューした順)。

■小林里々子(こばやし・りりこ)
 『夏じじい』(講談社)
 「ちへど吐くあなあな」(群像2008年9月号)
 「ひとりごっこ」(群像2009年5月号)
■北野道夫(きたの・みちお)
 「逃げ道」(文學界2008年6月)
   ――第106回文學界新人賞受賞作
 「虹と虹鱒」(文學界2009年10月)
青葉奈々(あおば・なな)
 『P・K』(講談社Birth)

 書き続けることは、精神的にも環境的にもとても大変なことだが、発表する場に躍り出た以上、何としても書き抜いてほしいと切望している。
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by hoshinotjp | 2009-10-17 21:09 | 文学
 このところ、ブログの更新が滞りがちなので、twitterを設置してみました。文字数が少なければ、ブログより気楽に書くかもなあ、と。
 じつは数か月前に作ってみたものの、利用価値も利用法もよくわからず放置しておいたもの。家にいる時間の長い私には、無用の長物のような気もします。そもそも、メール以外の双方向性ネットツールをあまり好まない私は、mixiもやりませんし、twitterも面倒です。
 ただ、ミニ日記になるなら試してみてもいいかもしれません。
 というわけなので、twitterにメッセージをいただいても、原則的にはお返事はお返しいたしませんので、あしからず。
 まあ、どこまで続くかわかりませんが、しばらく使ってみます。

 追記・左の顔写真などのある欄(何と言うんだ?)の、カレンダーの下に、twitterを表示させました。クリックすると、twitter本体に飛びます。twitterのアカウントを作らなくても、誰でも読めます。
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by hoshinotjp | 2009-10-13 23:14 | お知らせ
「新着情報」、更新しました。

 リオデジャネイロ五輪の決定について、ブラジルに住む岡村淳さんが強烈なコメントをお書きになっている。
 東京だってオリンピックどころじゃなけりゃあ、リオだってそれどころじゃないのだ。
 岡村さんによれば、リオの行政は、市内のスラムを高い塀で囲むことを計画しているという!
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by hoshinotjp | 2009-10-06 23:30 | お知らせ
 2016年のオリンピック開催都市、東京は落選。
 この件をめぐる、ここ何日かの報道を見ながら、何だかなあと思う。石原都知事が「東京招致」をぶち上げたとき、経済状態は苦しく格差社会はひどくなる一方でオリンピックなんか呼ぶより他にするべきことがあるだろう、という空気は強かった。だから、都民の支持も日本国民の賛同も今ひとつ得られず、盛り上がらなかった。メディアの多くも、同じような論調で、オリンピック招致に距離を置いていた。
 それが、開催都市がいよいよ決定するとなったとたん、そんな空気を忘れたかのように、急に「開催大歓迎」一色になった。メディアはもちろん、ちまたの人々も。そして落選が決まったら、招致が長年の夢だったかのごとく落胆している。
 またもや「納豆ダイエット」か、と思う。なぜこうも、ちょっと流れができると、それまでの自分の態度や意見などなかったかのように消し去り、まったく別の態度を平気で取れるのか。まともな人が常にそんな環境に置かれたら、ダブルバインドに陥り、心の病になってしまうはずだ。事実、そのような人が続出しているのが、いまの日本社会である。当然だと思う。
 オリンピック招致は、スポーツ関係者はいざ知らず、そもそも、石原都知事が自分の都合で打ち出した政策だ。自分の都合とは、都市銀行の失敗を取り返すためと、ナショナリズム教育に大変よろしいこと、である。そんな都合でスタートした招致に、メディアが何のてらいもなく乗っていいのか?
 そんなわけで、私は東京開催にならなくてほっとしている。アメリカ開催のオリンピックは強烈なアメリカ至上主義に覆われるので、シカゴでなくてよかったとも思う。
 ではリオは?
 オリンピックが大好きだった昔なら喜んだかもしれない。けれど、今はオリンピックそのものから気持ちが離れてしまった。ドーピングや水着や器具の祭典は、白けるばかり。北京五輪もまったく見なかった。
 リオデジャネイロは、ブラジルの中でも最も犯罪の多い都市である。その原因は、極端な貧困層が分厚く存在していることだ。スラム街(「ファヴェーラ」という)はさまざまな映画の題材にもなっている。
 オリンピック開催のため、犯罪を減らすため、行政はこのスラム街を力ずくで「浄化」するのだろうか。これまでのオリンピック開催の陰では、常にこの浄化が行われてきた。ラテンアメリカには、1968年のメキシコ五輪開催直前、学生の反対デモを軍隊が銃撃して殲滅するという、暗い歴史が刻まれている。
 ブラジルやリオの政府が、力ずくの排除ではなく、社会福祉や経済的な支援政策によって貧困層を解消し、治安を改善するならば、リオ五輪は後世に名を残すことになるだろう。そうなってほしいものだ。
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